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第4章 サイトウと稲荷大明神様①

 午後三時の日がだいぶ高く、明るくなった。はな六はぽてぽてと町内を歩きながら、雲ひとつない空を仰いだ。冬至から一週間以上が過ぎた。ボディーショップ斎藤は年末休業中だが、やらなければならない作業はまだあるらしく、サイトウはいつものようにガレージに籠っている。  はな六はというと、午後も午前中に引き続き“ふぜん”をせずに、クマともタヌキともつかないぽんぽこりん時代の休日を思い出し、それと同じ日課をこなせるかどうか試した。棋譜並べをして、詰碁の問題集に取り組み、それから散歩に出掛けた。  昔のようにプロの棋譜や古碁の研究をすることは出来ないが、『ピカリンとまなぶ囲碁のきほん』の巻末に載っている9路盤模範対局を並べ、初心者用の詰碁を解くことくらいは出来た。ふぜんを一切しなくても三時間もの間じっと座っていることが出来るようになったのは、大きな進歩だ。心配していた行動療法は、今のところ案外上手くいっている。はな六がレッカ・レッカ(このボディ)の放埒な性癖になんだかんだ慣れてきたように、どうやらやっと、レッカ・レッカの方もはな六の魂に少しは慣れてきたようだ。  ボディーショップ斎藤まであと三十メートルほどまで来て、はな六はぴたりと足を止めた。 (あ、そうか。普段は夜にお仕事するぶん、昼間に睡眠を取らなきゃいけないんだ。“あのはな六”時代のままじゃダメだ。タイムテーブルを大幅に変えないと……)  キッと甲高い音がすぐ背後でしたので、はな六はびくりと飛び上がった。振り向けば、紺色の制服姿の男が、白い自転車から降りるところだった。 「こんにちは」  防弾チョッキの胸には白色でSAITAMA POLICE と書かれていた。何もしていないのに、心臓がドキッと跳ねる。 「こ、こんにちは、お巡りさん。パトロールご苦労様です」 「お散歩中ですか?」 「はいっ、ちょっと、ご町内を、ぶらりと一周ほど!」  膝がカクカクと震えだした。もう何年も前のことなのに、はな六は数人の警察官から取り押さえられたときのことを思い出してしまう。それは身から出た錆の体験だったが、嫌なものは嫌なので、普段は警察官の姿に気付くと、それとなく距離を取るよう、気をつけている。なのに今日は、天気がいいせいか、つい気を緩め過ぎた。 (なにもあんな記憶、“あのはな六”から持って来なくてもよかったのに……)  若い警察官は、はな六の様子がおかしいのに気づいたのか、首を少しかしげた。 「どうかしましたか?」 「いやあの、何でもないです。なんかちょっと急に、おしっこしにお家に帰りたくなっちゃって」  はな六が小刻みに足踏みをすると、警察官は「あー」と、間の抜けた声を出した。 「お家は近いんですか?」  警察官の問いに、 「そこです」  はな六はすぐそこのサイトウの店を指差した。すると、ちょうど半分下ろされたシャッターをくぐって、サイトウが姿を現した。 「サイトウ!」  はな六が手を振ると、サイトウは一瞬ぎょっとしていたが、すぐに、客に媚びるときのような下手に出る表情を作って、駆け寄ってきた。 「どうも、ご苦労さんっす」 「こんにちは、サイトウさん」  警察官はサイトウに軽く頭を下げた。サイトウははな六の背後に回り、はな六の両肩に手を載せた。 「ウチのがどうかしましたか?」  サイトウが低姿勢のまま聞くと、警察官も頭をペコペコ下げて言った。 「いえいえ、ただちょっとここで行き合っただけですよ。サイトウさんのお宅には、こんな大きなお子さんがいらしたんですね?」 「いや、コイツははな六っていって、俺の嫁っす」 「え? あぁ……! 失礼しました。パートナーの方でしたか。いつパートナーシップを結ばれたんです?」 「いや正式な届けはまだっす。俺の誕生日を記念日にしようかと」 「え、なにそれ? おれ、そんなの初耳なんだけど」  はな六が口を挟んだ途端、サイトウと警察官が同時に真顔になり、そして同時に、フワハハハと笑い出した。警察官は笑いながらも、ポケットから端末機を出し、ディスプレイに専用ペンで何かを書き込んだ。 「今日は、歳末パトロール強化で回らせてもらっているんです。何か変わったことはありませんでしたか?」 「いや別に何もないっす」 「そうですか。最近この辺りで事業所の空巣被害が報告されていますので、戸締まりには気を付けてくださいね。それでは失礼させていただきます」 「どーも」  キコキコと音とをたてて、自転車を漕ぐ警察官の背中が遠ざかっていくのを眺めながら、サイトウがぼそりと言った。 「俺目ぇつけられてんだよ」 「えぇぇぇぇ!? サイトウ、まさか、さっきお巡りさんが言ってた空巣って、サイトウの仕業なの!?」 「ちげーよ」  サイトウはぺちんとはな六の頭を軽く叩いた。 「俺がンなことするわけねーだろ。そうじゃなくて、色々あったんだよ、昔」 「へぇ……」  はな六は、サイトウの闇の深すぎる目を見上げた。相変わらず、三人くらい殺していても不思議ではないような、暗い目だ。 「つーか、オメェもお巡り相手にだいぶ不審な受け答えしてたじゃねえか。なんなんだよ、オメェも前科持ちかなんかか?」 「べ、別に何もやってないよぉ。ただ、おれも昔はいろいろあったの!」 「ほーん、そっかそっか。罪深い者同士、やっぱり俺らは肩を寄せあって生きるべきだよなぁ、はな六ぅ?」  サイトウははな六の首に腕を回し、ぐいっと引き寄せた。サイトウの体臭を間近に感じ、今の今まで大人しくしていたお飾りが、むくりと目を覚ました。 「お、今スケベなこと考えてるだろ?」 「考えてないよ! ただ、さっきのパートナーシップの届けがどうこうって、どういうことだろうって思ったの」  はな六の耳をサイトウの鼻先が擦り、そして唇が耳の穴を覆い、言葉を注ぎ込んだ。 「そりゃ、ちょっと休憩を挟んでから、話し合いましょ。グヘヘ」  日が少し傾いて来たが、寝室の六畳間にはまだ昼の日差しの暖かさが残っていて、布団の中に二人で折り重なって性器を合わせていれば暖房を点ける必要がない。ぬくい布団の中で、はな六はサイトウの一物で体内をじっくりと愛撫されながらプロポーズを受けた。嫁とか夫婦とか、サイトウはこれまでも幾度となくはな六に言ってきたが、それはものの例えでなければ冗談でもなく、サイトウは本気ではな六のことをパートナーにすると決めていたのだ。 「ちゃんと届けェ出して夫婦になろうな、はな六」 「えっ……はい、喜んで……」  はな六が答える前にレッカ・レッカがはな六の口を使ってさっさと答えてしまう。レッカ・レッカは今日は大人しく引っ込んでいると思えばとんでもなかった。   (また紙だ……)  はな六は茶の間のテーブルに広げられた書類を前に、「んー」と唸った。 「ねぇサイトウ。これパソコンにマイナンバー打ち込むだけでも良さそうなのに、どうして紙に色々書かなきゃいけないのかな?」  はな六は書類から顔を上げ、サイトウを振り返った。 「俺に聞かれてもなぁー。お役所仕事ってヤツだな。ただの慣習だろ」  サイトウは、はな六を後ろから抱え込み、肩に顎を載せたまま言った。サイトウが喋るたびに肩をサイトウの顎がカクカクと叩くので、はな六はこそばゆさに首を竦めた。ついさっき、欲を発散したばかりだというのに、はな六のお飾りはまたサイトウに構って貰いたがっている。上着の裾から入り込んで腹や胸をまさぐってくるサイトウの手の甲を、はな六は服の上から指でツンツンとつついた。 「あらバレた?」  サイトウはケケケと笑った。 「バレるよ、それは」  はな六はざっと書面を見渡した。すでにサイトウの書くべき項目は全て埋められている。あとははな六が書いて提出するだけだ。はな六は傍らに置かれていたパンフレットを手に取った。  パートナーシップ制度など、はな六は自分の一生には永久に関係ないと思っていた。人間の一部はいまだに「結婚」と呼ぶこの制度。要は一緒に暮らす二人がお互い相手に対して権利や義務を持つことを保証するためのものらしい。 「なんかよくわからないな。義務って?」 「例えばオメェがぶっ壊れて動けなくなったら、俺はオメェをお医者に見せなきゃならねぇってことだよ」 「じゃあ権利って?」 「オメェは俺のものだってことに、誰も文句言えなくなる」 「それは今だって、誰も文句言わないんじゃない? おれ以外は」 「だがな、今の状態だと、オメェがある日突然、他に好きなヤツができたっつって出てって、よその男がオメェを自分のものだって言い出したら、俺は『あらーフラれちゃったのねぇ』っつんで、泣き寝入りするしかねぇの」 「んー、でもおれ、モノじゃないから、サイトウのものにも誰のものにもならないよ。ねぇ、パートナーシップ制度って、相手をモノみたいに所有するための契約なの?」 「あーもー、オメェは本当に物事を知らねぇなぁ。全然違ぇよ。パートナーシップ制度っていうのはぁ、赤の他人同士が家族になるためのもんなの」 「家族?」 「オメェ、まさか家族も知らねぇんきゃ?」 「知ってるよ。子供、お母さん、お父さん、お祖母さん、お祖父さん。それが家族でしょ? サイトウは、おれの家族になったら、どれになるの?」 「どれって、パートナー、旦那だよ。ガキが出来たらお父さん。ほんでおめぇがお母さん」 「んー?」  お父さんとお母さん。人間の子供に、必ず着いてくる大人達のことだ。夫婦という、人間の一組には、子供というものの存在が不可欠のはず。というより、子供のために夫婦はあるのかと、はな六は思っていた。  時々、棋士の男と女が「結婚する」ことがあるが、結婚した二人は後に必ずといっていいほど、夫婦によく似た子供を連れるようになる。はな六は昔は、プロ棋士業のかたわら、囲碁教室のアシスタントとして子供の面倒を見ていたから、子供というものがどのようなものか、よく知っている。

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