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第5章 ジュンソには言いたいことがある②

 右手の治療はほんの短時間で済んだ。麻酔針によって強制的に意識を落とされたと思ったらもう「終わりましたよ」とレイ医師に声をかけられて、目覚めていた。  はな六はカウンセリング室で、鉛筆を握りA4のコピー用紙に向き合った。昔受けた習字の稽古を思い出し、用紙に大きく“永”と書いてみた。永字八法の完璧な出来ばえに、はな六は「おぉ……!」とつい声に出してしまう。次は紙を裏返して縦に置き、中央にサッサッと書いた。 “梅花六宮(はなろく)”  これもまた完璧。すっかりはな六得意の美文字である。 「まぁ! はな六ちゃんって、字がお上手なのね」  レイ医師もこれには驚いている。はな六は照れ臭くて頭をぽりぽり掻いた。 「いやぁ、それほどでもあります。昔、著名な書道の先生に習ったので」  たった右手一本でも、自分の意のままに動くとはなんて気分のいいことだろう。家に帰ったらサイトウの前でも書いて驚かせてやろう……と思ったところで、昔のことを思い出した。  子供の頃、字が下手なのを散々馬鹿にされたのが悔しくて、自腹で書道を習った。結果、周りの反応はどうだったか? からかい甲斐のないと言わんばかりに鼻白まれただけだった。「はな六は幼く拙いのが可愛げがあってよかった」と言ったのは、誰だったか。 (でも、サイトウなら喜んでくれるのでは?)  はな六は、膝のテーピングを巻いてある辺りをズボンの上から触れた。膝を固定してまっすぐ歩けるようになったはな六を眺めていたサイトウの目は、 (いつもみたいな艶消しブラックだったかなぁ。はぁ……)  レイ医師はコピー用紙を手に取り、はな六の書いた文字を感心した様子でしげしげと眺めたのち、テーブルに紙を戻して言った。 「手の運動神経の調子はすっかり良いみたいね。ただ残念なんだけど、腕力は5歳児相当といったところで、これは今回の手術では治せないの。その理由はこれからお話するわね、邪魔の入らない場所で」 「お話、ですか?」 「ええ。ほんの少しの間に終わりますよ。では準備をお願い」  レイ医師の指示に、スタッフ用通路に続く間仕切りの前に控えていた看護師が動き、間もなく大きなキャスター付きの機材を押して戻ってきた。美容院にあった全自動洗髪機を縦にしたような形状のそれを、看護師ははな六の座るソファーの背後に据えた。間もなく黒い半透明プラスチックの覆いが、はな六の眼前に迫ってくる。 「さあ、始めましょう」  レイ医師が言うと、機材にスイッチが入れられ、そしてはな六の耳元でモーターがうなりを上げた。  気付くと、はな六は光のない空間にポツンと立っていた。光がないかわりに闇もない。床と壁と天井の区別もつかない、不可思議な場所だ。それに……、 「ん、んー? この感じ……」  はな六は右手をシャッと天に向けて突き上げた。 「ややっ」  そしてもう片方の手を天に突き上げた。 「おぉ!」  ふんっ! はっ! ふんっ! とうっ!  はな六は気合いを込めて、両手を交互にシュッシュと突き上げたり縮めたりを繰り返した。 「これはまさしく、“元のはな六”! 元の私ではありませんかっ! ふんっ、ふんふんっ。久々に調子がいいぞぉ」  クマともタヌキともつかないぽんぽこりんなアンドロイドの姿に戻っていた。以前はチビで頼りない見た目がコンプレックスだったが、やはり二十年間慣れ親しんだボディは心地いい。なにしろ、どこもかしこも痛みという名の不快信号を発しない。 「ここは、もしかして」 「そう、ここはVR空間です」  やはりそうだ。目の前にはいつの間にかソファが一つあり、一体のアバターが腰かけていた。細長い身体に細長い顔に細長い手足。長いワンレンの黒髪で、頭部には三角形の耳が二つ。医者の白衣を着た、直立二足歩行の猫アバターだ。顔はマーカーで描いた落書きのような、単純化された顔。目元にレイ医師の面影が少しあった。 「はな六ちゃん。今、私ははな六ちゃんの魂と直接交信をしているのです。どうぞ、椅子にかけて、楽にしてください」  言われて振り向くと、そこにははな六に丁度いい大きさの、一人がけのソファがあった。 「では失礼します」  はな六はことわってから着席し、短い脚の付け根辺りに両手を置いた。VR空間に来るのは久しぶりだ。レッカ・レッカのボディを得てからのはな六は、脳から直接VR空間にアクセスできなくなっていたのだ。 「さて、はな六ちゃん。今日はあなたの脳に関する大事なお話をするために、ここへあなたを呼び出しました。ここなら、はな六ちゃんの思考は、あなたのボディからの干渉を受けないからです」 「どういうことでしょうか」 「はな六ちゃん、あなたが現在使用しているボディが、旧式タイプだということは、知っていますよね」 「はい。旧いタイプのアンドロイドの脳には、リミッターが掛けられている、ということですよね?」  以前、ムイがそう言っていた。その時、はな六はムイの音声を耳から取り込んではいたものの、その意味を解析することが出来なかった。だがムイの音声データははな六の魂にしっかり記憶されていた。今ならその意味がわかる。 “レッカ・レッカ(おまえ)は旧式のアンドロイドだから、人間を恨むことが出来ないんだ”  かつて、アンドロイドが人間に支配され隷属させられていた時代の名残。それは、人間に楯突き復讐を企てるのを阻止するための、安全装置だ。 「その通りです。しかし、世界アンドロイド人権宣言以後、法令により、すべてのアンドロイドの脳から、リミッターを外すことになりました。はな六ちゃんのボディからも、とっくにリミッターははずされているべきだったのですが、どうやら何らかの事情で、それがなされないまま二十年近く放置されていたようです」  はな六はレイ医師の顔を真っ直ぐ見据え、深く頷いた。 「私も、何かがおかしいと、ずっと思っていました。ですが、まさにそのリミッターに阻まれて、知覚出来ませんでした。私の認知能力に歪みが生じているばかりか、感情までもが……」  はな六の伸縮自在の腕はたらりと伸びきり、輪っか型の金属製の手が、コツリと床を打った。レイ医師はただ静かに頷いた。 「私は医師であるので、あなたの脳にリミッターを発見した時点で、それを解除すべきなのです。リミッターの解除は、あなたのQOLの向上に役立つことでしょう。何故ならあなたは普通の人間以上の身体能力を持ちながら、現状では人間の五歳の女の子ほどの能力も発揮できません。今のまま磨耗したパーツを全て交換しても、本来の身体能力をあなたは行使出来ないのです」 「はい……」 「しかし、ここで重大な問題があります。そうです、リミッターによる精神的抑圧の問題です。そのせいで、あなたは人間に一定水準以上の怒りを覚えたり恨んだり出来ない。しかも、セクサロイドであるあなたは、性的虐待の加害者に親密な感情を覚えさえする」 「そうですっ」  はな六はソファーから飛び降りて両手をブンッと振り上げた。 「私は、私は……サイトウが憎い! だって、私を騙したんですよ? 奴は私を騙して、閉じ込めたんだ、あんなポンコツで情けなくて使えない、レッカ・レッカの中に!」  レイ医師はサインペンで描かれた落書きのような顔ではな六をじっと見据えて言った。 「それはあなたの本心?」 「本心に決まっています」  はな六は自信をもって答えた。 「法令に従い、あなたを不当な抑圧から解放するのが、本来的には正しい。しかし、そうすることが、もしかするとあなたを犯罪に走らせ、かえって不幸にしてしまうかもしれません」  その通りだった。もしも今すぐに解放してもらえたら、きっとサイトウに復讐をするだろう。 「ですので、私はあなたに一つの提案をしたいと思います。すなわち、ボディの治療を行っても、リミッターの解除はせず様子を見る、ということです」 (それは、私に誇りを捨てよというのと、同義ではないか。屈辱の日々を続けろと? 何もわからぬ白痴のまま、ヘラヘラ笑って過ごせというのか……)  萎えていた両手が、怒りでわなわなと震え始める。 (そんなこと、許せる訳がない! 私は完成された自分の身体を取り戻し、私の尊厳を取り戻すべきだ!) 「リミッターの解除とボディの治療の両方をすることは、私からはおすすめ出来ません。これまでのカウンセリング、そしてあなたの過去の履歴から、あなたは高確率で人間に仇をなすだろうと、私は結論しました」  はな六は、自分の両手をじっと見詰めた。 「そうですね、きっと私はまた暴走する。あのときは、脳に偶々不具合があったので、仕方のないこととして無罪放免、謹慎処分で済みました。でも、自分では分かっていたんです。これが自分の“人間性”ってやつなんだって。私は、見た目によらず、粗暴で攻撃的で、プライドが高い。そういうヤツなんです。泣き虫で甘えん坊なセクサロイドのはな六なんて、それこそ作り物にすぎない」  レイ医師は長いため息を吐いた。そしてまた、話し始めた。 「でも、それはあなたのせいではないのよ。生まれつきの脳の不具合が見逃され放置されていたせいで、あなたの性格は歪み、過剰な攻撃性を備えてしまった。私はね、思うのだけど、はな六ちゃん……あなた自身、自分の性格に生きづらさを感じていたのではないですか? それに耐えきれなくて、あなたは古いボディを捨て、レッカ・レッカ(そのボディ)を得て生まれ変わろうとしたのではないですか? 理想の自分になりたくて、そのボディを選んだんじゃない? だって……」  はな六は即抗議しようと腰を浮かせたが……。  トンッ  誰かがはな六の肩を押し止めた。 『その通りです。だから当面、おれをこのままでいさせてください』 「!?」  はな六は声の主を見ようとした。だが、はな六の身体はまるで電池が切れたかのように動かなかった。それなのに、はな六はその人物を感じることが出来た。丸っこくて眦のつり上がった、気の強そうな目がレイ医師をじっと見ている。それは、ふっくらとした形の良い唇を両端を吊り上げ、ニィと笑った。 (レッカ・レッカ!? この空間では、お前は私の思考に干渉出来ないはずでは!) 「わかったわ」  レイ医師はホッとした様子で言った。彼女にはレッカ・レッカの発した言葉がはな六の声に聴こえたようだ。 (ちょっと待ってください!)  はな六の声は声にならず、VR空間と共に消失した。  はな六は大きな目をぱちりと見開いた。先ほどはな六の頭を覆ったはずの機材などどこにも見当たらず、看護師はこの部屋とスタッフ用通路を隔てる間仕切りの前に立っていて、レイ医師はといえば、A4コピー用紙を手に持ってはな六の書いた字を眺め、感嘆の声を漏らした。 「まぁ! はな六ちゃんって、字がお上手なのね」

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