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エピローグ②

 ジュンソが帰った後、はな六は“あのはな六”の入った棺を二階に運んだ。棺は二十キロ以上の重さがあったが、今のはな六にはそう苦労せずに持ち運ぶことが出来た。 「んー」  はな六は棺を持ったまま、寝室を見回した。寝室の隅には、仏壇がわりの小さなテーブルが置かれていた。まずはな六は棺をテーブルの下にでも置こうかと思ったが、やはり押入れの中に隠すことにした。棺は後日、別の場所に移すことになっている。  押入れの奥に棺を納めた後、はな六は簡易的な仏壇の前に座った。テーブルには退色した桃色の布に包まれた骨壺が置かれている。その手前には位牌のかわりに、ハナナを抱いた“はな六”の写真が小さな写真立てに入れられていた。はな六は線香に火を点けて線香立てに挿し、鉦を鳴らした。 (おれが祈るまでもなく、彼は天国でお祖父ちゃんと幸せに暮らしているんだろうけどね……)  はな六は、自分の脱け殻というよりもレッカ・レッカの魂に手を合わせた。  二十年前、サイトウが逮捕されたとニュースで知って、はな六はマサユキと共にこの“ボディーショップ斎藤”に駆けつけた。サイトウは既にいなかった。  寝室のドアを開けるのには勇気が要った。というのも、サイトウは壊れたレッカ・レッカをこの家に持ち帰ったはずだったのであり、おそらくレッカ・レッカは警察に押収されていなければ、そのまま布団に寝かされているだろうと思われたからだ。サイトウならば屍体(ボディ)とも平気で共寝しかねない。そうはな六もマサユキも思ったのだ。  ところが予想は外れていた。寝室の布団は片付けられて、荒らされた様子もなく、相変わらず殺風景な部屋だった。元々、サイトウは部屋に余分な物を置かない。  レッカ・レッカの屍体(ボディ)がない代わりに、部屋の隅にはこの仏壇が設えられていた。はな六が碁の勉強をするのに使っていた折り畳みのテーブルに、桜吹雪の描かれた布に包まれた骨壺が置かれ、写真が立てられ、線香立てと鉦が置かれていた。はな六の囲碁セットはテーブルの下に紙袋一つにまとめられていた。  ぐぅ。  腹が鳴った。充電は八十パーセント以上残っているのに、胃の不快感と共に全身に脱力感が襲った。 「電気だけで動ける身体なのに、もぉー」  はな六は明日の昼まで何も食べないつもりでいたが、しぶしぶ近くのコンビニまでレトルトのお粥を買いに出た。  茶の間ではな六は一人、テレビを観ながら湯煎したお粥を口に運んだ。ニュースにはハナナが出ていた。 『若きニッポンのエース、サイトウ・ハナナ。彼は二十一歳の若さで囲碁ワールドチャンピオンシップ優勝を果たしました』  はな六はフンと鼻を鳴らした。 (都合のいいときだけジャパンの棋士だって持ち上げられるよなぁ。ハナナの所属は韓国棋院だ。ジャパンにはハナナの相手を出来るほどの棋士はいないし、囲碁界に出資してくれるパトロンも、ハルトくらいしかいないからね)  そんな風に憤るはな六だったが、嬉しそうにインタビューを受けるハナナの様子には、相好を崩したのだった。ハナナの、丸い眼鏡の奥のくりっとしたドングリまなこにははな六の面影があり、そして天然パーマ風の髪や痩せた浅黒い面長は、サイトウに少し似ていた。 『ハナナさん、優勝おめでとうございます。この喜びをまず最初に誰に伝えたいですか?』 『はい、そうですね、ジャパンにいる母に伝えたいです』  この映像は録画で、はな六は既にハナナから報告の電話を受けている。  翌朝は生憎の曇りだった。二十年前、サイトウとハナナと親子三人で暮らした年は二月下旬から急に暖かくなったが、今年は逆で、暖冬だった癖にこの頃は真冬のように寒い日々が続いていた。空はどんよりと曇り、今にも雪が降りそうだった。  電車を乗り継ぎ、はな六は刑務所のある街に辿り着いた。高くて長い塀に沿った歩道を、はな六は一人、マフラーに頬を埋め、黒いコートのポケットに両手を突っ込んでとぼとぼと歩いた。  この二十年、はな六は何度もサイトウに手紙を出したが、一度も返事は来なかった。面会の申請をしても、一度も通らなかった。だから二十年間、はな六はサイトウと一度も交流をせず、顔も合わせることがなかった。はな六はまだ、サイトウのパートナーであるにもかかわらず。  サイトウは逮捕される前から音信不通だったが、一度だけはな六宛に手紙を寄越した。だが中身はパートナーシップ解消のための書類が一通のみ。書類はサイトウの書くべき欄だけが埋められていた。あとははな六が記入して自分で出せということだ。はな六は書類を破り捨て、すぐに役場へ赴き、サイトウの方から勝手にパートナーシップを解消できないよう手続きをした。  はな六は刑務所の外周をぐるりと回り、殺風景でシャッターに閉ざされた出口らしきものを見つけた。はな六はシャッターの少し離れた所に立って待った。  何時間も待たされるのを覚悟していたが、ものの数分でシャッターは開いた。ひょろっと背の高い男が姿を現した。男はシャッターの方を向き、深々と頭を下げた。背中は少し丸まり、膝もちょっと曲がったままだが、それでもどこか堂々として誇り高いお辞儀のし方だ。シャッターが完全に閉じるまで頭を下げ続ける男の後ろ姿を、はな六はじっと見詰め続けた。  やがて、男はとぼとぼとはな六の方へと歩いてきた。はな六は一歩も動かず、男が通り過ぎるまでその場に待っていた。男ははな六の横を通る時、大回りではな六を避けて通った。 「サイトウ」  サイトウは知らんぷりで歩いて行こうとするので、はな六はムッとして、 「ソラ」  サイトウの嫌がる呼び方で呼んだ。 「あ?」  案の定、サイトウは不機嫌そうに振り向いた。彼は人には名前は大事だと言い、“あのはな六”の魂を得たレッカ・レッカのことを“はな六”と呼び、タケゾウには“ハナナ”と新しい名を授けた癖に、自身は下の名前で呼ばれるのを嫌がるのだ。 (まあ無理もないけど)  見るからに性格がネチネチとしつこそうで爽やかさの欠片も無さそうな男に、その名前は全然似合わなかった。  二十年ぶりに見るサイトウは、歳を取って一層痩せて皺くちゃで、干からびていた。鳥の巣のようにごちゃごちゃとしていた天然パーマは、短く刈り込まれたごま塩頭になっていた。服装はなんと二十年前と全く同じ、所々摩れて色の抜けた黒のウインドブレーカーと、ボロボロのジーンズだった。おそらく上着の下は、この寒さでも黒い半袖のTシャツだろう。  サイトウは、はな六がすぐ目の前まで踏み出すと、眉間に深く皺を刻んではな六をじろりと見たが、すぐに頬を緩めた。 「おめぇ、どうしたよ、その身体はよ」 「自分で買ったんだ。一生懸命働いて、稼いだお金で。現金一括払いだ。すごいでしょ?」 「ほっか」  サイトウはケケケとカエル笑いをすると、皺くちゃで節くれだった両手を差しのべて、はな六の頬を包んだ。相変わらず熱でもあるのではないかと思うくらい熱い掌だった。 「おおかくるくるよく動く目でよ、摘まんでやりたくなる鼻、つねりたくなる頬っぺた。ほんで、いくらチュッチュしても足りねぇ唇だ。よぉ、おめぇは“俺様のはな六”だな?」  はな六は首をブルブルと横に振った。 「いやいやいや、サイトウ。今さ、おれ言ったじゃん。このボディ、全額自分で払って買ったんだってば。これは、正真正銘おれのものなの!」 「ケケケ、俺様のだろ、どう考えてもよ。ほれ、お手々ちゃんを出してみなァ。あー、相変わらず冷てぇお手々ちゃんだな。これァ俺様に温めてもらう為のお手々ちゃんだろうがよ」  サイトウははな六の手を包んでいた両手をほどくと、はな六の背を抱き寄せた。 「おめぇ、ちっとんべぇ身長盛ってんじゃねぇか?」 「ううん。前と同じきっかり百七十センチだよ。サイトウの方が縮んだんじゃないの?」 「へっ、言うようになったいな。じゃあこっちはどうだい」 サイトウは右手をはな六の股間辺りに押し当てた。 「お飾りだって、そっくりそのまま、小さくて可愛いやつだよ」  それは特注品だった。何故か世間では小さなお飾りは人気が無いらしく、オーダーメイドするしかなかったのだ。 「それはいいやいな。俺ぁオメェのお飾りちゃんが可愛くて好きだぜ」 「でもおれ、もうセクサロイドじゃないよ、ただのアンドロイドだよ」 「あ?」 「その代わり、少しならご飯食べられるよ」 「おぉ、ほっか。飯ィ食うとお腹がぽかぽか温まってよ、幸せでいいだんべ」  はな六は頷いた。本当は、何かを食べたからといって身体がぽかぽか温まることはない。 「すーげぇよく出来た身体だいな。おーか金ぇかかったんべ?」 「思ったよりはかからなかったよ。最近、こういうタイプがまた流行ってるから」  二十年前は精巧な人間タイプのアンドロイドは絶滅危惧種だったが、最近ではまたアンドロイドの間で人間ブームが起きているのだ。  サイトウは皺だらけの顔をはな六の顔に近付けた。鼻と鼻をくっつけ、軽く擦り上げるのは、顎を上げろという合図だ。だからはな六はくいっと顎を上げた。はな六の唇に、サイトウは乾いた唇を押し当てた。サイトウはゆっくりと顔を離し、言った。 「ところでオメェ、何しに来たんでや?」 「サイトウが寂しくなって、不善しないように」  はな六がレッカ・レッカにそっくりのボディを作るために働いていると知った仲間達は、馬鹿だアホだと皆呆れていた。ムイは、はな六を諭した。 『いくらパートナーだからって、お前があの救いようのない糞馬鹿のお守りをすることはないんだぞ』  マサユキははな六と二人きりの時に言った。 『もしかしてりっ……はな六ちゃん、僕に遠慮などしているのではないですよね?サイトウ君を見捨てたら僕に嫌われるなどとよもや思っているのでは』 『違うよ!』  はな六は力強く否定したが、本当の理由は明かさなかった。皆に心配をかけたくなかったのだ。はな六はふとしたことで視界が“再生できません”のポップアップで埋まり脳内に警告音がビンビンに鳴り響く発作で苦しんでいた。その発作は入眠時や睡眠中に起こりがちだったので、はな六は寝ないために昼も夜もなく仕事をすることにしたのだ。シャカリキになって働かなければならない理由づけに、サイトウへの見せかけの献身はうってつけだった。 「クククケケケ、俺様が寂しくなって不善しないようにだと!?」  サイトウは笑った。ひとしきり笑って、顔をはな六にぐいっと近付けた。サイトウの、灰色がかった青の虹彩が目の前に迫ってきた。昔のはな六(レッカ・レッカ)が決して見ようとしなかった、サイトウの存外澄んだ空色の瞳だ。 「(うっそ)べぇ言ってらいな」  サイトウははな六の背中を掻き抱いた。はな六はほとんど海老反りになって、サイトウの肩越しに空を見上げた。 「違ぇよはな六。オメェは俺様のことが忘れられなかったんだ。そうだんべ?」  はな六の視界を、一瞬『再生できません』のポップアップがでかでかと塞いだが、中心からばりっと真っ二つに破れた。今にも泣き出しそうな曇り空が現れ、滲み、うるうると揺らめいた。 「オメェは俺様に抱かれる為に戻って来たんだ。そうだろ?」  はな六はサイトウの背に両腕をきつく回し、ぎゅっとウイドブレーカーの背を掴み、きゅぅと喉を鳴らした。 (終わり)    ***    ※エピローグ①の文中の歌はシューベルトの子守唄の一節を自分で翻訳したものです。

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