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 昼から歩きっぱなしなので、疲労もかなり感じている。ちょうど空いていたベンチに腰掛け、二百mlのペットボトルを開けてから手渡す。ありがとう、と涼やかな声で礼を言う亜沙菜に、いいよと首を振った。 「疲れた?」 「ううん。すごく楽しかった。たくさんお友達もいて安心した」  声が上ずっている。楽しんでもらえたならよかった、と考えていた森塚だが、亜沙菜は「でも」と息を潜めた。 「いっぱい苦労したのね。山倉さんって人から聞いたの。たくさん怪我もしたって。でも、頑張ったのね……。貴方は、すごい人だよ」  真っ直ぐに、尊敬の念を伴う視線から逃げるように、森塚は下を向いた。その話題はあまり聞きたくない。胸がムカムカして、胃もたれしているように感じる。 「……五年前は、本当にごめんなさい。お父さんも私も、自分のことしか考えられなかったの……そのことを今さら許してほしいなんて言わない。……ただ、もうお父さん、怒っていないの。彰人のこと心配してるのよ、本当よ」  亜沙菜は懇願するように、森塚の腕を掴んでしっかりと顔を向ける。  悲痛な声だ。グッと手を握りしめる。 「一度でいいの。……一回、地元へ帰ってきて、柚月ちゃんも彰人のこと、待ってる」  その名前は本当に大切で。だからこそ、自分は近づいてはいけないと思っている。 「意識は戻ってないけど、とても安定しているってこの前お医者様が言ってたの。……彰人も、一度病院でカウンセリングを受けた方がいい。貴方の心の傷は有耶無耶にされたけど、確実に傷ついているはずなの。しっかり検査を受けて、」 「大丈夫だからっ、……もう全部過去のことになってるから、俺にとって。……だから、お前も、幸せになれよ。彼氏待たせてるじゃん、行ってやれよ」  亜沙菜の言葉を遮り、森塚は立ち上がった。その顔は青ざめており、今にも倒れそうなほど顔色が悪い。ゴクリ、唾をなんとか飲み込んで、絞り出すように声を出した。 「そうやって、貴方はいつも真っ先に一人になろうとするの」  酷い人、涙を堪えて顔をくしゃくしゃにする亜沙菜に目もくれず、森塚はスタスタと歩いていく。離れたところで携帯を弄っていた洸河に話は終わったと告げる。 「へいへーい、待ってましたよって、……なんでアイツが泣いてるんだよ」  おい、と洸河は森塚の肩を強く掴む。痛みが走り顔をしかめる。洸河の視線の先には顔を両手で覆って肩を震わせる亜沙菜がいる。洸河が、彼女が泣いていて黙って見てるだけの男じゃなくてよかった。 (俺じゃあ、アイツの涙も拭いてやることはできない。……だから、お前が側にいてやってくれ、頼むよ……お願いだから)  思考が浮かんでは消える。ふとした瞬間に、自覚せざるを得ない。自分の過去が、……罪が、覗いてくる。こちらをジッと幼い自分とその後ろにいる家族が見つめてくるのだ。  俯きがちなため、洸河から森塚の表情は絶妙に見えない。しかし、あまりに悲痛な様子に、ただ何も言えず押し黙るしかできないのだった。  友人らと別れ、急いで風紀室に飛び込み染井に遅くなったことを謝罪する。 「いいっていいってぇ、お使いもしてもらったしねぇ。そういや、かんわいい彼女さん遊びに来てたんだってぇ?やるじゃあん」  染井はキラキラした目でクレープに飛びついた。風紀の腕章をつけながら「いや、彼女じゃないので」と、森塚は引きつった笑みで否定する。誰が間違った情報を、と思いつつも、あれだけ大人数で行動すれば嫌でも目立つ。周囲の生徒も耳をそばだてていたのだろう。 「幼馴染ですよ、家が隣だったんです」 「へぇ〜、『ちっちゃい頃から知ってる男の子が、久しぶりの再会を果たしたらドキッこんなにカッコよくなっちゃって……どうしよう〜』的な」  染井の小芝居を横目に見ながら、端末の確認をしておく。充電はバッチリだ。 「アイツ彼氏いますよ」  なぁんだ、とあからさまに染井は興味を失っており、既にその矛先は携帯の中へと移っている。 「特記事項って何かあります?」 「いやぁ、さすがにこのくらいの時間になると、五組も大人しいからねぇ〜。あとは頑張って〜、任せたよ!」  森塚の掌に飴玉を乗せ、染井は今度こそ満足そうにニッと笑った。  染井の言う通り、みな比較的落ち着いて文化祭を楽しんでいるようで、ホッとした。道行く人の邪魔にならないよう、そして困ったことがあったらすぐに声をかけてもらえるよう、周囲を観察しながら歩いていく。 「あの、すみません」 「はい……あぁ、何かお困りですか?」 「道に迷ってしまったようで……、このクラスに行きたいんですけど」  パンフレットを片手に話しかけてきたのは、同い年くらいの少年だった。一人でいるのは珍しい。なんとなく、招待した側の生徒と行動するか、この文化祭は授業参観のようなポジションにもなっているので、家族連れで行動していることも多い。もしかしたら迷子でもあるのかもしれない。  ここです、と彼が指した場所は、三年生の出店エリアだった。そんなに迷うような場所ではないと森塚は思ったが、初めて訪れる人間にとっては迷いやすいのも理解できる。入学したばかりの時は、間違って高等部に迷い込んでは怒られていたし、気持ちはよく分かる。 「案内しますよ」と着いてくるよう促す。隣を歩く少年は、森塚よりもほんの僅か背が高かった。スラリと縦に長い印象で、どこか懐かしい気がする。小学校時代に仲の良かった友達に久しぶりに会ったらこんな気持ちになるんだろうな、そう思った。 「ここが五組のクラスで、ここら一帯は三年生のエリアです。知り合いがいるんですか?」 「えぇ、まぁ……。向こうは反抗期なんで、顔も合わせてくれないだろうけど。案内ありがとね」 「これ、お礼」と少年は森塚の掌にポトンと何かを落とした。青く輝いて見えるそれは、小粒なピアスだ。どこかで見たことがあるが、思い出せない。 「……?」 「もしよかったら、受け取ってくれないかな」 「これ……」 「優しい君に、いいことがありますように」  人差し指を唇に当てて、彼は囁いた。チラッと見えた瞳はまるで芸能人のように艶やかに光っていて、初めて会うはずなのに、やけに印象に残った。

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