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序章3

 葵の両親は葵がまだ小さい頃に事故で亡くなった。祖父はそんな葵を引き取って、それはそれは可愛がってくれた。  当時、薬店にはお客さんも多くて、祖父は薬店で仕事をしていることが多かった。  仕事中に葵が覗きに行くと、こっちへおいで、と手招きして、お客さんにも「可愛いでしょう、うちの孫なんです」なんてニコニコ自慢するのが、何だがくすぐったくて嬉しかったのを覚えている。  そんな祖父の様子が変わったのは葵が中学一年の時、学校で行ったバース検査の結果を持ち帰って来た時だった。 「なんで、なんで葵がオメガなんだ……何かの間違いだ……」  鬼のような顔で検査結果を食い入るように見つめる祖父をはじめて怖いと感じた。  祖父は何かの間違いだ、と保健所に無理を言い、葵に3回バース検査を受けさせたが結果はどれもオメガ判定。最後には市内のカウンセリングを紹介されて帰ってきた。 「そんな、そんな事があるか。自分の孫がオメガなんて……」  それから祖父は何かに取り憑かれたようにブツブツいいながら、古い本や生薬が散乱する屋根裏部屋に閉じこもるようになった。  祖父が生きているのか死んでいるのかも分からず、心配で学校もろくに行けない日々を送っていた葵だが、  ある日の朝 「おはよう、葵」  と台所にたつ祖父を見て心底安心した。  以前のように、優しい祖父が帰ってきた。  そう思った。 「さぁ、これをお飲み、葵。古い文献を解読して、やっと処方が分かったんだ。これからはこれを一日3回必ず飲むんだ」  それは、何種類もの生薬をブレンドした煎じ薬で、オメガのホルモン自体を抑えて発情期を来ないようにする煎じ薬だった。  中にはかなり強い生薬もあり、決して毎日飲んでいいようなものではない。  当時、まだ葵は中学一年で、漢方の知識も浅かった。  それがどのようなものかは、まだ分からなかったが、吐きそうになるような臭いと、おどろおどろしい色味の煎じ薬、早く飲めと固唾を飲んで見つめる祖父の狂気じみた目を見て、恐ろしい薬なんだと言うことは、何となく察した。  しかし、今までずっと世話になった祖父が言うのだ。葵に飲まないという選択肢はない。  意を決して飲んだ煎じ薬はそれはそれは酷い味で、喉が焼けるように熱くなり、舌もだんだん痺れてきて、しまいには実際に吐き気も伴い、心臓も、腹も、どこもかしこも痛くなった。  暫くして、やっと痛みが収まってくると、祖父がそれをずっと冷たい目で見下ろしていた事に気付いた。 「次は、昼だ。全部飲むんだ。これを一生飲むんだ。そうすれば、お前はオメガではなくなる。 お前はベータとして生きていくんだ。誰にもオメガということを言ってはならない。」  何故?と問えれば何か変わったろうか?  あまりの祖父の恐ろしい形相に、葵は何も言えなかった。  それからは祖父の言いつけ通り、一日3回酷い臭いのする煎じ薬をもがき苦しみながら、飲んだ。  更に祖父は、自宅でも店でもオメガの香りを消すという甘草を常に煎じて、これも日に3度飲むように言いつけた。  また、友人関係も厳しく管理され、授業が終わってすぐ帰ってこないと、厳しく怒られる。  部活もアルバイトも勿論禁止。  葵は青春時代の殆どを、この漢方薬店で過ごした。  酷い臭いの煎じ薬にも慣れた頃、葵は漢方薬店を継ぎたいから、と祖父を説得して地元の大学に進学した。  祖父の厳しい監視は続いたが、煎じ薬の効き目が非常に強く、発情期もないのでベータとして普通に生活も出来た。  それなりに友人も出来て、葵はまずまずの生活を送れていた。  煎じ薬を飲んでいる時以外は、自分がオメガである事さえ忘れかけていた。  だか、大学でアルファに初めて出会ってオメガという血の業を知る事になる。  中学、高校ではアルファに出会わなかった。オメガもアルファも、そもそも存在自体非常に少ない。  中学一年でバース検査がある前に、アルファはあらゆる能力が非常に優れているので、両親が小学生のうちに海外で検査を受けさせるケースが多い。  そこでアルファと判明すれば、大抵アルファ専門のエリート教育が受けられる中高に進ませる。  一般の中高でアルファがいることは非常に稀なのだ。  しかし、大学ともなれば違う。  葵が初めて会ったアルファは免疫学の客員教授だった。  はじめての授業で少しすれ違っただけでアルファだと分かった。  そして、思ってしまったのだ。  あの腕に抱かれてみたい。  首筋に流れた汗を舐めたら、どんな味がするのだろう。  ズボンの下についている物を舐めたら…?  更にそれを…  酷い罪悪感を抱きながらも、  その夜、葵は初めての自慰をした。  そして、本来は排泄でしか使わない後ろの場所が酷く濡れていることに気付いた。  恐る恐る濡れている場所に指を入れてみると、 驚くほどすんなり入る。 (これが…教授の指だったら…ダメだ…そんな事考えたら…でも…)  結局葵は泣きながら、その日後ろの窄まりを弄り続けた。  次の日の朝、嵐が去って気分は最悪だった。自分の心と身体があまりにも離れすぎている。 (じいちゃんは、オメガがこうなるのを知ってたんだ。こんな淫乱な生き物が身内にいるのが嫌なんだ)  ベータの振りをして澄ましてみせても、本性は淫欲にまみれたオメガなのだ。  しかし、薬店にはオメガの客も多くいて、祖父はその誰にも優しかった。  なぜ、自分だけ許されないのだろうか?  そんな気持ちがふつふつと湧き上がったが、自分でさえ許せないものを、祖父が許せるとは思えなかった。 (それとも、じいちゃんは、心の中ではお店に来るオメガも軽蔑しているのだろうか?)  そう思うと、ますます祖父が何を考えているか分からず、そら恐ろしくさえ感じた。  あの恐ろしい衝動に駆られたいーー。  その一心でそれ以来、葵は祖父に言われるでもなく なるべく人に関わらないよう、講義が終わるとすぐ薬店に閉じこもるようになった。  それでも、何回かアルファとすれ違っては、夜は自慰をするという事もあったが、次の日の朝は決まって死にそうな罪悪感に駆られた。  どんどん暗く、陰鬱になる葵に、友人達もだんだんと距離を置くようになった。  葵はその後逃げるように大学を卒業して、天野漢方薬店を継いだ。  アルファに会うことも無く、祖父と2人で薬店で過ごす日々。  店の客は、夜の住人が殆どで、その中にはオメガの者も何人かいた。  いつかアルファに出会う為に懸命に毎日働くオメガ。  実際アルファに出会って、子作りの為に漢方を買っていくオメガ。  そうなると、今度は発情期を起こさないこの体が疑問に思えてくる。  何のために存在するんだろう?  子供を産むことが、自分が生きる意味。そう言い切ったオメガもいた。 (それなのに、俺は子供を作れない体になろうとしている、嫌、なっているのかもしれない。)  この天野漢方薬店で、何者でもない俺は、誰とも番う事もなく、朽ちて死んでいくのだろうか。  この罪深い体だけ持て余してーー。  

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