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序章4
天野漢方薬店を継いでから、一日中葵が目に届くところにいるからか、祖父はだいぶ安定していた。
表面上は仲のいい孫と祖父という関係を保ったまま、薄氷の上を歩いているような生活だ。
その証拠に、祖父の酒量がどんどん増えている。
どちらも、この生活がどこか歪んでいることに気づいていた。
この息苦しい生活から抜け出したい。
だが、抜け出し方が分からない。
そんな生活が続いたある日、祖父が急死した。
脳卒中だった。
最近酒の量が多いな、とは思って心配していた矢先だった。
悲しみと混乱の中葬儀が終わり、暫くして気付いたのだ。
自由だーー。
あの煎じ薬を飲めという人はもういない。
煎じ薬をやめれば発情期はまた来るかもしれない。
そうすれば、子供も産めるかもしれない。
アルファと番って、そして……。
(駄目だ)
アルファとすれ違っただけで、あの恐ろしい衝動を我慢できなかったのだ。
直接アルファと触れ合ったら自分の中の淫欲にまみれた獣が、どうなってしまうか分からなかった。
考えただけで吐き気がする。
第一、オメガのコードナンバーを持っていない自分がどうやってアルファと出会うのか。
自分も風俗街に身を落として、大金を貯めて、店主にアルファを斡旋してもらうのか。
それまでに、何百という男に抱かれながら?
とてもじゃないが出来ない、と思った。
(でも、他の闇オメガは、それをやっているんだ。
出来ないのは、俺が弱いから……)
鬱々とした日々を過ごしていると、ある日千尋が店にやってきた。
夜の街でオメガのトップを張る千尋は、強く、美しく、そして健気だ。
千尋に好感を抱くたびに、あまりの自分との違いに憂鬱になる。
いくら男に抱かれても、千尋の美しさは損なわれない。
一方自分は、身体だけ持て余して、だからと言って、夜の街に身を沈める覚悟もない、卑怯で汚いオメガもどきだ。
(このままでは、千尋を憎んでしまうようになる。それだけは、嫌だ。そこまでダメな奴になりたくない。)
シュンシュンッ
突如、湯が吹きこぼれた音がして思考が途切れた。
甘草の煎じをそのままにしていたのを忘れていたのだ。
慌てて火を止めて、湯呑に煎じたものを注ぐ。
結局この甘草も止めることはなく、いまだに祖父の言いつけ通り飲んでいた。
(そう言えば、じいちゃんは、甘草がオメガの臭い消しになったりとか、発情期を止める煎じ薬とかは何を見て知ったんだろう。)
古い文献を見たとか言っていたか…
文献や古い生薬学などの本は屋根裏部屋に保管してある。
屋根裏部屋は祖父が酒を飲みながらひきこもる時に使う部屋で、祖父が亡くなった後すぐに、酒瓶などを片付けた以外は足を踏みいれた事はなかった。
(一度、調べてみてもいいかもしれない。
他のオメガへの漢方薬に参考になることも書いてあるかもしれない。)
そうすれば、千尋にもっといい煎じ薬を作ってやれるかもしれない。
千尋に嫉妬してしまう罪悪感を少しでも誤魔化したくて、葵は久しぶりに、屋根裏部屋へと足を向けた。
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