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紫の章1
濃厚な花の香りがする。
南国に咲くプルメリアの花の香りにも似ているが、ベリー系の果物の匂いにも似ている。
芳醇で瑞々しい香りに、葵は突如、強烈な空腹感を覚えた。
グゥゥゥゥーー
自分の大きな腹の音で、急激に意識が浮上する。
重い瞼を薄っすらと開けると、そこは辺り一面青紫の花畑が広がっていた。
(ってか、これ、トリカブトじゃないか…)
こんな一面トリカブトが咲いている花畑は、近所では絶対存在しない。
(じゃあ、ここは、天国?それとも地獄か?)
死んでも、こんなに空腹になるのだろうか?
だとしたら、神様はなんて意地悪なんだろう。
まわり中のトリカブトを、またしても貪り食べたいくらいにはお腹が空いている。
それにさっきから、とんでもなくいい匂いがするのだ。
クンッと辺りの匂いを嗅いで、起き上がってみる。
すると、何故か目線が花とあまり変わらないのに気付いた。
地面が異様に近い。それに、何か体に違和感があるのは、なんだろう。
頭の先が二か所、何だかとても熱い気がする。
…頭の先…?
「グアン様‼あそこ‼今何か動きましたよっ‼」
甲高い子供の声が突如聞こえてきた。
見ると小さな子供がこちらを指さして、隣にいる大人に話しかけている。
その二人の異様な出で立ちに葵は混乱せざる得なかった。
子供は白い着物のような、古代中国とギリシャの服をごちゃ混ぜにしたような服装だ。全身白い中、星の模様が入った浅葱色の腰紐が目立って美しい。
もう一人、隣にいる三十代くらいの大柄な男性も、子供と同じような白い衣装を着ているが、上からお坊さんが着る黒い袈裟のような物を着ていて、こちらも子供と揃いの星の模様の刺繍が施されている。
驚くのは二人の瞳と髪の色だ。
子供は少年だろうか、好奇心旺盛そうな灰色の瞳に、クセのあるクルクルした髪は透けるような銀色だ。遠くから見ると、フワフワの綿帽子が頭に乗っているように見える。
男の方は恐らくかなり長いであろう銀髪を頭の上で複雑に結い上げていた。グリーンとブラウンが混じった不思議な瞳の色だが、こういうのをヘーゼルアイというのかもしれない、と葵は思った。
どちらにしても、明らかに日本人ではない。
「適当な事を言うんじゃありませんよ、シィン。そうやって、何回私を騙したと思ってるんだい。毎朝のように私をガッカリさせないでおくれ」
大柄な男の方が、袈裟の胸の星の刺繍に手を当てながら、思ったより優しい口調で子供に諭す。
それにしても、まだだいぶ遠くにいるようなのに、何故こんなにハッキリ刺繍の模様まで見えて、二人の話し声まで隣にいるかのように聞こえるんだろうか?
葵は疑問に思うが、強烈な空腹感と辺りを漂う美味しそうな香りに酩酊して、上手く思考が回らない。
「本当ですって!今度こそ本当です!!僕は、ロンワン中で1番目がいいんです!!紫龍草の茂みの中で、青いものが何か動いたのが確かに見えましたよ!!」
「分かった分かった、あちらの方だね。どれ、一応見てみよう」
二人の足音が少しずつ、こちらに向いている。
思わず息を飲んで身を縮めていると、またしても、グゥゥゥゥゥーと、お腹の音が予想外に大きな音で周りに鳴り響いてしまった。
「今の音は!?」
大柄の男が突如こちらに向けて大股で走り寄る。
精一杯隠れたつもりだったが、上からは丸見えだったようで、男は目の前で跪いてこちらを見た。
「何と……本当に青龍様が降臨されるとは……。陛下の登極一月目にして、何たる僥倖。星の神々よ、天帝よ、青龍様の降臨に立ち会わせて頂くなど、身に余る光栄に心から感謝致します。」
男は癖なのだろうか、またしても胸にある袈裟の星に手を当てながら、天上を仰ぎ見て、ぶつぶつと何かお祈りの様な事を言い始めた。
呆然と葵がそれを眺めていると、後ろから慌てて追いかけて来たらしい子供が息を切らして追いついた。
「ひゃあ!本当にいらっしゃったんですねー!青龍様!!でも、思ったよりちっちゃいな〜。なんか可愛い〜!グアン様、お祈りもいいですけど、青龍様さっきっから、ずーっとお腹の音が凄いんですけど、いいんですかね?」
その声を、聞いてグアンと呼ばれた男がハッと目が覚めたように葵を見る。
「そうであった。シィン、急ぎ紫龍草をありったけ集めなさい。ただ、青龍様に可愛いと言うのはやめなさい。不敬ですよ」
「はーい」
言われてシィンという子供は、まわりのトリカブトと思われる青紫色の花を次々と摘んでいく。
触ると猛毒な花を触っているのに止めないなんて!
葵は慌てて
(危ないよ!)
と言ったつもりだった。
しかし、葵の口から出た言葉は
「アオ!」
「ひゃあ!なんか、鳴き声も可愛い〜。
ほら、青龍様の大好きな紫龍草ですよ〜。
たーんと召し上がってくださいね〜」
目の前の子供は呑気に腕いっぱい集めた青紫の花を一輪葵に差し出してくる。
子供が持つ花じゃない!と、止めたいのに、思ったように喋れない。何だか舌の形と口の形がいつもと違うような気がするのだ。
おかしい!!絶対におかしい!!
「アオ!!アオォォ!!アオォォォォ!!」
一生懸命に声を出そうとしても、葵の喉からは獣の様な声しか出てこない。
まさかと思って、自分の手を見てみれば、赤い長い爪が3本生えて、その先には青い鱗のようなものがみえる。
(これは、どういう事だ?まさか、この人達が言う青龍とは、俺の事なのか??)
見えすぎる目も、聞こえすぎる耳も、葵が人間では無いものになった証なのだろうか?
青龍とはいったいなんだ??まさか、本当に龍なわけではあるまいが…。
試しに、お尻の方に力を入れてみると、確かに尾っぽのような物をパシンと動かした実感があった。
(嘘だろ…)
「アォー!アォォォ!!アォォォー!!」
葵は混乱して、何がどうなっているのか、このシィンとグアンという人間達に問い質そうとしたが、出てくるのは獣の咆哮ばかりだ。
「あわわ、グアン様〜!青龍様がとっても機嫌悪そうなんですけどっ!!紫龍草が気に入らないんですかね〜!?」
「シィン、勉強しただろう。青龍様が初めて紫龍草を召し上がる時は、必ず鼻先まで持っていってから、口に運んで差し上げるのだ」
「ああ!そうでした!!」
そう言った、シィンが紫龍草と言っている、トリカブトとしか思えない花を葵の鼻先に運んできた。
途端、先程から感じていた美味しそうな香りは、この花の芳香なのだと気付く。
(トリカブトじゃないのか?)
しかし、見た目はどう見てもトリカブトだった。
絶対駄目だ、と思うが、こんなに空腹なのに、こんなに美味しそうな匂いがするものに抗えるわけがない、という気もしてくる。
鼻先から漂う豊潤な香りに、この空腹を満たせるのはこの花しかないのでは……という確信さえするのだ。
(もう、いいや。また死んだら死んだで、元に戻るかもしれないし)
空腹と美味しそうな香りに思考力を奪われ、葵はとうとう青紫色の花をガブリと口に入れた。
「わぁ!食べた〜!!凄い勢いですね、青龍様〜。よっぽど美味しいんですね〜」
その通りだった。葵が今まで食べてきた物は何だったんだろうと言うほどの美味しさだ。
思ってた通り瑞々しくて、甘くて、オレンジのような爽やかさに、苺のような甘酸っぱさ、それでいて濃厚な舌触りもある。
高いワインはきっとこんな感じなのだろうという、鼻に抜ける後味も最高で、今まで躊躇っていたのが嘘のように葵はこの花に夢中になった。
「さぁ、今のうちに陛下の元にお連れしよう。青龍様は私がお運びするから、お前は横から絶えず紫龍草を与えて差し上げなさい」
食べている途中で、大柄の男に抱っこされる形になった。どうやら今の葵のサイズは中型犬くらいのサイズらしい。
尾の部分を抱えられたのが、何だか不快で一瞬ムッとしたが、隣から子供が心配そうに青紫の花を差し出しできたので、大人しく食べ続けた。
(とりあえず、この花はトリカブトじゃないらしい。トリカブトはこんなにいい匂いはしないし、何よりこんなに美味しい花は初めて食べた。この人達は紫龍草と呼んでいるけど、そんな花聞いた事ないな)
そもそも、二人の会話から察するに、どう考えても、ここは葵が知っている世界ではないらしい。
二人が頭がおかしいというなら話が違うが、今の自分が一番おかしいのは明らかで、恐らく自分の方が異端なのだろう。
どうやったら、このおかしな状況を抜け出せるか考えるべきなのは分かっているが、空腹で考えがまとまらない。
とりあえずこの美味しい紫龍草とやらを食べてからにしようと、 葵は考えるのを拒否して、ひたすら食べる事に集中した。
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