86 / 86

番外編 気侭な白虎は、子供を拐う 後編

「兄さんが……?」  レイレイは呆然と聞き返した。 「そうだ。儂がお前を妾にしたいと申し出たら、あいつめ、せめて精通まで待てと言ってきよった。儂も誇り高き海の民の男。約束は守る。こんなにも待たされるとは思わなかったがな。まぁ、よい。早速今夜からこの館で過ごしなさい」 「ま、待ってくださいっ。今夜からですか!?」 「そうだ。どうせ帰っても陰気な母親しかおらんし、いいだろう。それとも、何か不都合な事があるのか?」 「い、いえ──」  確かに、家に帰ってもレイレイにとっては対して変わらない。だが──。 「あ、明日は、出かけてもいいのでしょうか?」 「出かける? どこにだ」 「か、貝拾いに……」 「貝拾いぃ? もうそんな事せんでいい。あんなの、お前をこの館に来させる為の口実だ」  「え……」  ショックを受けるレイレイには気付かず、領主は平然と言い放つ。 「これからはずっとここにおれ。いついかなる時も身体を開けるように準備せよ」 「で、でも……っ、ボク、明日は絶対行かなくちゃいけないんですっ!」 「何故だ?」 「何故って、約束を……っ」 「約束だと?」   思わず、本当のことを言いそうなり口をつぐむ。だが、領主は聞き逃さなかった。 「誰と約束したと言うのだ? まさか、男ではあるまいな?」  気色ばんで聞いてくる領主に動揺して、レイレイは思わず本当のことを口走る。 「く、鯨と……」  領主は無言だっが、レイレイには分かった。凄まじい怒気が空気を伝わってくるのを。恐れていた通り、直ぐに怒りは爆発した。 「ふざけおって! 儂を馬鹿にしておるのかっ。少し甘やかしすぎたようだな! ビィン!」  領主が憤怒の声で侍従を呼ぶ。 「はっ」 「そいつを地下室に閉じ込めておけ」  侍従はすぐにレイレイの側まで来て、担ぐようにして部屋から連れ出そうとする。 「領主様っ! 本当なんですっ! 明日だけはっ。それが終わったら、言われた通りに致しますからっ」  レイレイは必死に慈悲を乞うが、領主はますます苛々を募らせただけだった。 「ならんっ! これ以上私を怒らせると、閉じ込めるだけではすまんぞ。早く連れて行けっ」  領主の怒鳴り声で、侍従はレイレイを引き摺るようにして階段を下ると、埃臭い通路を抜け、ジメジメした狭そうな階段を更に下る。   (こんな場所は知らない……怖い……)    ギィと重い戸を開ける音がして、乱暴に中に放り出された。   「ここでいい子にしてろ。領主様は逆らうと恐ろしいお方だぞ」    侍従は吐き捨てるようにそれだけ言うと、外からガチャリと鍵を閉めてどこかに行ってしまった。  試しに、手で探って扉を開けようと試みるが、鍵はしっかりと閉じられ、開かない。  レイレイは重いため息をつき、途方に暮れた。  地下室の床は冷たく、どこからか隙間風も入り、酷く寒い。せめてあたりに何か暖を取るものがないか探ってみる。  どうやらここは、物置のような部屋らしい。何かの道具のようなものが沢山置いてあるが、どれも硬く冷たいものばかりで、毛布のようなものは見当たらなかった。  下手に動き回ると怪我をしてしまいそうで、レイレイは仕方なく膝を抱え込むようにしてしゃがみ込む。  硬い床は氷のように冷たく、レイレイの体温を否応なしに奪い去った。  生まれた時から、暗闇の中で生きてきたレイレイだが、生き物の息遣いを一切感じないこの空間は、孤独と恐怖をレイレイにもたらす。   (いつまでここに閉じ込められるのだろう……)    寒くて、怖い。だが、何よりも明日、鯨に会えないことが辛かった。   (約束を破ってしまう──)    せっかく、上に乗せてくれるって言ってくれたのに。  あの時、レイレイの怪我を直してくれた温もりを思い出すと、この地下室はあまりにも寒い。  レイレイを癒してくれた唯一の温もり。  兄にも裏切られていたと知ったいま、レイレイにとっての『温もり』は鯨だけだった。   (せめて、ごめんなさいって謝りたい)    最後に一度だけ、会いたい。そしたら、その思い出で生きていけるのに──。  なぜ会ったばかりの鯨にこんなにも惹かれるのか自分でも分からない。  レイレイは光を知らない。だが、光とは鯨のようなものなのではないかとさえ思う。  暗闇の中の自分を照らし出してくれるような……。    物思いに耽っていたが、ふと裸足の踵に冷たいものが触れた。指で触れると濡れている。何だろうと思っているうちに、尻も濡れだして慌てて起き上がった。  床を触ってみると、先ほどは無かった水のようなものがあたりを濡らしている。  何か倒れた音もしなかったので、もしや雨漏りでもしているのだろうか。地下のこの場所では、雨の音も聞こえないので分からない。得体の知れない恐怖に喉がヒクリと鳴る。  頭の中で警鐘が鳴り響いた。  自分に危険が迫っているのが分かった。  理由など明白だ。  この寒さで、体が濡れる事は命取りになる。下手をすれば、レイレイは明日の朝を迎えられないかもしれない──。  震える身体を自分で抱きしめながら、だが、それでいいのかもしれないとも思った。  この館で、領主が飽きるまで一生を過ごすくらいなら、このまま息の根が止まってしまった方が楽かもしれない。  少しは役立っていたと思っていた貝拾いも、何の意味もないものだった。 (もう一度生まれ変わったら……)  頬に水滴がつたう。これは、雨なのだろうか。 (誰かに……ううん、鯨さんの側で泳ぐ魚になりたい)  なにも聞こえない暗闇の中、大きな鯨の隣で泳ぐ自分を想像してみる。  温かい海水の流れにのって、広い海を悠々と二人で旅して回るのだ。  魚の目は大きいから、よく見えるに違いない。光を帯びて隣で泳ぐ鯨は、きっととても綺麗だろう。それは、驚くほど魅力的な世界だった。   『幼子よ、大丈夫か』    想像の世界と現実が曖昧になり、まるですぐそこに鯨がいるかのような声まで聞こえてきた。このまま、この生を終えられるなら怖くない──。  そう思った瞬間、バリバリッと世界が割れたような衝撃が走り、思わず身を固くする。   『すまぬ、驚かせたな。この部屋は窓がないので、天井を破ったのだ」    埃と土の匂いが混じりあり、冷たい雨風がレイレイの頬に注ぐ。確かに、これは外の空気だ。では本当に──。   「鯨さんが、そこにいるんですか?」    信じられない気持ちで呆然と呟くと、力強い返事が帰ってきた。   『あぁ。助けるのが遅くなって悪かった』 「でも……、鯨なのに海から出られるんですか?」 『さて、どうしたものか。本当のことを言えばお前を怖がらせるかもしれないが……』    出会った時と同じようなことを言う鯨に、レイレイはホッとするような、おかしいような、自分でもなんでだか分からない涙を浮かべ、返事をした。   「恐ろしいものは、近寄ればすぐわかりますよ」    鯨が笑ったような気配がした。あの時のことを思い返しているのだろう。   『そうだったな。では、よかったらこの姿のオレに乗ってみないか。鯨よりも乗り心地はいいと思うのだが』    そう言って、ノシリと近寄ってくる気配に、レイレイはそっと手を伸ばす。伸ばした指先がぐっと何かに埋まった。   「うわぁ………っ!」    ふかふかの柔らかな毛が身体を覆っている。あまりの触り心地の良さに、レイレイは両手でモフモフと撫であげた。長い毛の奥に短く柔らかな毛がびっしり生えていて心地よい。そして、何よりその温かな身体が愛おしかった。   「わんわん……ですか?」 『わんわん……』 「昔、漁師のおじいさんに触らせてもらったことがあります。でも、その時のわんわんより、ずっと大きくて毛も長いのですね」 『まぁ……わんわんみたいなものだな。それより、そろそろ俺の上に乗らないか? とりあえず、この悪趣味な部屋からお前を出したい』 「あっ、 すいませんっ」    鯨(?)がレイレイが乗りやすいように、低く屈んでくれた。レイレイが恐る恐る上に乗ると、しっかり掴まれ、と声をかけられ、次の瞬間生まれて初めての浮遊感に襲われる。  落とされないように必死にしがみついていると、すぐに着地の衝撃が柔らかに身体に走った。  先ほどよりも、雨風を強く感じる。ここはもう外なのだろう。地下室の天井は外に繋がっていたのなら、雨漏りするのも納得だ。雨風に乗って、なにやら声も聞こえてきた。ヒステリックなその声は、レイレイが非常によく知った声だった。   「だからっ、身請け金を早くいただけるように、領主様に言っておくれっ」 「その領主様がお前のことを、早く帰せと言っておるのだ。金ならお前の兄に渡す」 「冗談じゃないよっ! その金はあたしんだっ。あんたじゃ話になんないっ! 早く領主様をここにお呼びっ」    金切り声が、雨風を裂くようにあたりに響く。門番をしている侍従と、レイレイの身請けのお金のことで揉めているのだ。   (おかあさん……)    知っていた。母が、レイレイに愛情の欠片も持っていないことなんて、とっくに知っていた。だから、頬につたうこれは、涙じゃない。雨が、頬にあたるだけ──。   『幼子よ、お前の名前は?』 「あはっ、おかあさんの声、聞こえませんでした? レイレイって言うんです。もう、成人になるのに幼名のままなんですけどね」 『お前から聞きたかったのだ。レイレイ、美しい響きだな』 「そう……ボクも、ちょっと、そう思います」  母が呼んでくれたことは殆ど無かったけれど。  お金のことに夢中な母は、こちらにいるレイレイの事など気付いてもいない。   『レイレイ……』 「どうしました?」    鯨(?)が少し躊躇する気配を見せた。   『オレは、天罰を下す事を神に許された生き物だ。だから──』 「──え?」    珍しく歯切れの悪い言い方をする鯨(?)が、言葉を紡ごうとしたその時──。   「キャァァァァ!! びゃ、白虎!?」 「うわぁぁぁッ! そ、そんな馬鹿なっ!!」    母と門番の叫び声が聞こえてきた。  白虎──?  と言うことは。   「鯨さんは、白虎なんですか」 『そうだ。さすがに恐ろしいか?』 「何度も言わせないでください。でも、凄くびっくりはしています。だって、白虎が本当にいるなんて……」  白虎はこのチーニャオ王国の守護霊獣だ。    遥か昔、他の国と戦争ばかりしていた時、天罰を与える為に天界から降臨されたと言われている。各地にある霊廟には白虎の絵姿が飾られているので、レイレイのように盲目の者以外は、国民全員が姿形は知っているはずだ。  だが、実際目にしたものがいるなんて話は、一度も聞いたことがない。   (伝説上の生き物だと思ってた……)    ただただ、呆然とすることしか出来ないレイレイに、鯨改め、白虎はふんッと鼻息を吐く。   『殆どこの国にはいないからな』 「普段はどこにいるのですか?」 『隣国のロンワンだ。知り合いが多いから、鯨になる時もロンワンが多いな。あとは山だ』    山は、妖魔が出るところ聞いたことがあるが、白虎のこの様子では、恐ろしい場所ではないようだ。 「簡単に国を超えるなんて……。本当に白虎様なのですね」  国境越えは、この大陸に棲むもの達にとって御法度だ。  戦争を起こして以来、国境を超えたものは天罰が下るとされている。なので、国同士の貿易は、海の民が海上で行う。  そういったわけで、海の民は野蛮人と言われることも多いが、国にとって無くてはならない民なのだ。 『オレが白虎だと信じたのなら、改めて問おう。レイレイ、オレは天罰を与える事が出来る。お前が天罰を与えたい者いるか? 誰でも、何人でもいいぞ』  グルルルルッと獣の唸り声が響く。途端、向こうから悲鳴が上がった。  白虎がなにを言いたいかやっと分かった。でも──。 「白虎様、大丈夫です。ボクはなにも望みません」 『何も──? どうなってもいいと言うのか? こんな目にあって』 「はい。白虎様がボクに優しくしてくれた思い出だけあれば、もうなんだって大丈夫です」 『では、どうなってもいいのだな?』  またしても、グルルと吠える声が聞こえる。 「──はい」  レイレイはそれでも、静かに頷いた。もう大丈夫。十分過ぎる思い出を貰えてしまった。  白虎は暫し黙った。そして、低い艶のある声があたりに響く。    「ならば、オレが拐ってもいいな?」     先ほどまで、頭に響いた声と全く同じなのに、初めて肉声として耳に届いた。  それも、本当にすぐ近くで。  驚いて当たりに手を伸ばすと、すぐに抱き上げられた。人間だ。大きくて、筋肉質な、男性の人間がレイレイを抱き上げている。   「白虎……様なのですか?」  レイレイを抱き上げる人間に恐る恐る聞いた。 「いかにも。もう怖かろうが、なんだろうが、お前を拐っていくぞ。丁度、迎えも来た」 『あのさぁ、皆んなボクの事、便利屋か何かと勘違いしてないっ!?』    上の方から少年の声が聞こえてきた。鳥が羽ばたくような風を切る音がして、何かがふわりとレイレイのすぐ近くに降り立つ。   「お前は何だかんだで面倒見がいいので、頼みやすいのだ。怒るな」    怒ってはないけどさぁっ、とぶつぶつ呟く少年の声に少しの照れが混じっている。   「レイレイ、彼は朱雀。赤い鳥だ。オレより移動が早いから呼んだ」 『うわぁ、今までで一番丁寧な紹介の仕方、ありがとう』  呆れたような少年の声が面白くて、思わずクスリと笑ってしまう。   『あれ、笑うと可愛いっ! こりゃぁ、朴念仁の白虎がハート撃ち抜かれちゃっても仕方ないねっ』 「──オレはレイレイに撃たれていないが?」 『あ~! もういいよ。はい、乗って乗って~!!」    朱雀がぞんざいに返事をして話を切る。白虎がレイレイの身体を抱き上げ、朱雀の上に乗せてくれた。   「レイレイ……怒っているか?」 「なぜですか?」 「オレが、お前を拐うからだ」 「……怒っていると言ったら、白虎様はどうするのですか?」 「責任はとる。なんでも言ってくれ」    白虎が心なしか困ったような声で言った。  レイレイは思わず笑ってしまった。率直で、照れ屋で、優しい白虎。  ならば責任を取ってもらおう。  レイレイを地獄から救い出し、幸せな温かみに夢をみてしまう責任を。  レイレイは、白虎を抱きしめた。筋肉質な身体は、熱いほどに温かい。   「では、責任を取ってずっと一緒にいてください」    白虎は驚いたように、少し固まったが、すぐにレイレイを抱きしめ返してくれた。  そこは、光の海のように、夢のように幸せな空間だった──。              

ともだちにシェアしよう!