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「元」運命の人はこう言った。#1

 立派な松の木が植わった、猫の置物が可愛い一軒家に宮木を送り届けた。  妹さんによろしく、と言ったあと、天馬は村岡と歩いて事務所に向かった。  天馬の事務所は中央区の、表通りに面した五階建てのビルの三階にあった。他の階には司法書士事務所や、弁護士事務所が入っている。  事務所に着くころには二人ともずぶ濡れになっていた。 「傘、ひっくり返っても骨が折れないタイプのやつでよかった」  十分歩くあいだに三回もひっくり返ったのだ。傘を事務所の中にある傘立てに立てて、天馬が電気をつける。  扉を入って右手にキャビネットが置かれ、正面にはパソコンの載ったデスクが四つ、島になって置かれている。所員のデスクだ。ロッカーや重厚な金庫も部屋の隅に設置されている。  そして左手に衝立。その向こうにテーブルとソファの応接セットが置かれ、そのまた奥が天馬のデスクだ。ビルは少し古かったが、探偵事務所はきちんと整理整頓され、掃除も行き届いている。所員たちのデスクも、書類が積み重なっているなどということはなく、きれいに片づけられていた。  カーテンを引いた窓に激しい雨が当たって、石をぶつけたような音を立てていた。 「ソファ、座って。コーヒー飲むか?」  部屋の隅の流しで手を洗いながら天馬が尋ねる。村岡は無言だ。なんだかもじもじしている。その姿に、少し驚いた。 「どうした? 遠慮してるのか?」 「……いえ、あの」  顔が赤い。 「……運命の人、って言っちゃったけど、大胆すぎたかな、って……。も、もうちょっと仲良くなってから言ったらよかったかな、って……」  目を泳がせて後悔する村岡の、その率直さが微笑ましく思えた。コーヒー豆をフィルターにセットしながら、天馬が言った。 「たしかに出会い頭に言われてびっくりはしたけど、おれは別に、それできみを嫌ったりしないよ」 「……ありがとうございます。でも、なんか、おれ……恥ずかしいです。だって、当然ですよね。おれみたいなやつに運命の人だって言われても、嫌ですよね」 「村岡さん、もしかして自分に自信ない?」  というか、卑屈なのか。 「まあ、出会ったばかりで運命の人だって言って、自分のほうを振り向いてくれると思う人は逆に自信がありすぎるとは思うけどね」 「おれはむしろ、なんで天馬さんがこんなによくしてくださるのか謎です」  コーヒーメーカーのスイッチを入れたあと、振り向いて笑う。 「おれも謎。でも、村岡さんはいい人だから。それに、困ってる。でも今できることはコーヒーをご馳走することくらいだ。……ミルク、いる?」  村岡は首を横に振った。天馬は冷蔵庫の扉の取っ手から手を離した。 「ごめん。おれも、お尻を貸してあげられたらいいけど。まだそこまでの勇気はない」 「いいんです」  力なく首を振り、笑った。 「そういうこと、気軽にはできないですよね。知り合ったばかりだし。……あーっ、だからもっと親しくなってからお願いしたらよかった……」  後悔先に立たず、という顔をする村岡に、思わず真面目な顔になる。 「でも、あのインパクトはすごかったよ。『やっと会えた……おれの、運命の人』。もしあのセリフがなくて、道で肩を叩かれただけだったら、絶対こんなふうに事務所に招いたりしなかった」 「……じゃあ、一応成功?」 「ああ。成功だ」  ふにゃっ、と村岡の顔が緩む。コーヒーを飲みながら、天馬はなんとなくその笑顔を目で追ってしまう。そして、やっぱり若い子って可愛いなという結論に落ち着いた。  下を向いてコーヒーカップを弄りながら、村岡はぽつりと言う。 「昔の、運命の人だった人に、ケツを貸してくれるようお願いしたんですけど、その人には嫌だって言われたんです。抱かれるのは性に合わない、って言われて」 「まあ、ハードル高い、よな……」 「ですよね。でもおれのこと、あ……愛してないの? って訊いたら、『そんなことで愛を量るなよ』って言われました。おれ……間違ってたのかな……」  目を伏せる村岡の悲しそうな顔が胸に刺さる。こんなときには甘いものだ。腰を上げ、冷蔵庫にしまった菓子箱の中からチョコレート・ビスケットを取りだしながら、天馬が言った。 「その彼氏さんは、村岡さんとはあんまり相性がよくなかったのかもしれないな」 「おれが悪いのではなく?」 「どっちか一方が全部悪い、ってことはないし、もっと言えば悪いとか悪くないとか、そういうふうに決められる類のものじゃないかもな。人にはそれぞれ事情があるからなー」 「……おれ、全部自分が悪いと思ってるんです」  カップの中、黒い水面の、歪んだ自分を見つめながらつぶやく。 「元カレたちとうまくいかなかったのも。昔の、運命の人とうまくいかなかったのも。全部、おれがダメで、我慢が足りないから。そんなふうに思ってるんです」  声が少しだけ震えた。天馬がテーブルにビスケットを並べた皿を置いた。 「おれ、我慢が足りないから。だからすぐ逃げちゃうのかな、って思って。……って、すみません。愚痴言ってる」  顔を上げて、むりやり笑う。 「お菓子、ありがとうございます」 「あんまり自分を責めないで。しんどいだろ?」 「はい。でも、おれ、子どものころからこうだから」  慣れっこです、と笑う。その笑顔がまた天馬の胸に刺さる。いい子がつらい目にあってるのは悲しいよな、と思った。  村岡は急に明るい口調になった。 「おれ、今度こそ、もし運命の人が現れたら絶対ケツをもらおうって決めてたんです。だから、イメージトレーニングして、頑張ってるんです」 「なるほど。……あの、言っちゃ悪いけど村岡さんってそういう、男役……似合わないね」  ぐ、と村岡は言葉に詰まった。 「で、でも、頑張ってます! おれ、職場で重い本を動かすから力はけっこうあるほうだと思うし! た、例えば、押し倒すイメージトレーニングとか……」 「あー。でも、ああいうのはプロレス技だから……」 「ぷ、プロレス技?」 「そう。受け手がわかっていてしっかりと技を受けてあげるんだよ。例えばこう……」  ソファに横になる仕草をする天馬。村岡はさっと駆け寄った。 「おれが先に体を倒すから、村岡さんはそれに手を添える形で覆いかぶされば……」  横たわる天馬の上にかぶさり、そっと太い手首をソファに縫い留めた。きらきらした目で天馬の目を見つめ、口元に笑顔が広がる。 「で、できた……! おれでも、押し倒せた……!」 「よかったな」  微笑んで村岡の頭を撫でる。  そのとき、甘い匂いが鼻をかすめた。ぶるっと震えて、村岡は自分の頭を押さえた。天馬の顔がすぐ真下にある。優しい顔立ちで、そのとき初めて思ったが少し厚めの唇がエロい。ムラムラする。また、耳と尻尾が出る……!  がばっと体を離したところで、衝立の向こうから音楽的な声がした。

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