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第1話

 刑事とヤクザと湯けむり旅情  旅へ出ようと誘ったのは大輔(だいすけ)だ。  ちょっとした勢いで、それほど本気だったわけじゃない。  田辺(たなべ)との間に、なにか新しい思い出を作ってもいいような、そんな気分になった。浮かれていただけだ。もしくは、あの男を喜ばせてみたい気がしただけ。  心に繰り返して当日を迎え、アパートのエントランスを抜けた大輔は空を見上げた。  スコンと青い晩秋の空だ。水に溶かしたように澄んだ青色に目を細めると、記憶が呼び起こされて、せつなさを覚えた。  しかし、原因となる記憶は限定できない。初めてふたりで旅をした伊豆の記憶なのか。それとも、別れた前妻のために駆け回った福島行きの記憶なのか。  どちらの記憶であったとしても、大輔はいつも、物憂い罪悪感に追われていた。  妻の倫子(のりこ)を裏切っていたことが心苦しかったのではないと思う。  結婚生活はすっかり破綻していた。お互いにほころびを直そうともしないで、体裁だけを整えていたのだ。やり直すことさえも望まず、倫子もまた出口だけを探していた。  どちらが悪かったかと問われたら、大輔は自分だと手を挙げる。それもまた、『男の責任』だと考えているからだった。  今日の大輔は、ゆるめのジーンズにチェックのネルシャツ。その上からブルゾンを羽織っている。それなりに身繕いをしようと頑張ってはみたが、慣れないオシャレほど恐ろしいものもない。結局は定番のものを選び、前日のうちにハンガーにかけて消臭剤を振った。  スニーカーで颯爽と駅へ向かう。電車に乗って三十分。郊外の駅で降りた。  約束の時間より早く着いたのは、相手が時間に遅れないと知っているからだ。  通勤ラッシュの時間を過ぎた駅は人もまばらで、ロータリーにはタクシーも停まっていない。だから、赤い外車のクーペは、すぐに見つかった。  ピカピカに磨き上げられ、今朝もほがらかな冬の朝光を跳ね返している。田辺が大事にしている愛車は、兄貴分であるヤクザのお下がりだ。  大滝(おおたき)組若頭補佐・岩下(いわした)周平(しゅうへい)の後ろ盾を受け、準構成員である田辺は投資詐欺で金を儲けていた。県警の組織犯罪対策課に所属する大輔にとっては、撲滅するべき天敵でもある。  それなのに。情報提供を言い訳にふたりの関係は続き、大輔が離婚してからはますます深みにハマっていた。  身体の相性が良すぎるのが悪いと開き直る頃も過ぎ、田辺が他の男に惚れているんじゃないかと考えただけで、大輔の胃は穴が開きそうに痛むようになっている。  女にもいないような美青年相手なら、食指が動いてもおかしくない。  大輔がそう言うと、田辺は「おかしいだろ」と笑い返した。  田辺も大輔もゲイではない。だからこそ、好き嫌いではなく、利害が絡んだ『悪ふざけ』でセックスを続けた。大輔とデキるのなら、岩下の男嫁・新条(しんじょう)佐和紀(さわき)ともデキるんじゃないかと疑ったのだ。  田辺は「絶対にありえない」と言った。「疑わないで欲しい」とも言った。  信じたいけれど信じられなかったのは、男との恋愛なんて考えたこともなかったからだ。女を好きになったようには田辺を好きになれない。  田辺はどうだろうか。初めから恋だったような顔をするくせに、ふと、もの悲しげな目を伏せ、からかい半分で強姦したことを悔いているのは知っていた。  男の貞操なんて気にするなと言っても無駄だ。田辺には田辺の考えがある。そして、大輔よりも物事の本質を追いたがる。  大輔はダメだ。いまがうまく回っていればじゅうぶんだとタカをくくる癖がある。  なにごとも浅く、上っ面で判断してしまう。新条とのことで胃を痛くしたのも、田辺の気持ちを考えられなかったことが原因だ。自分の迷いにばかり目が行って、相手の悩みが頭から抜け落ちてしまう。  赤いクーペに近づいた大輔は、助手席側から中を覗き込んだ。  運転席に座って携帯電話をいじっていた田辺が振り向いた。小ぎれいな顔に、ふわっと柔らかな笑みが浮かび、大輔は思わず後ずさる。  眼鏡をかけた田辺はインテリめいて整った顔立ちだ。精悍さよりも清潔さが先に立ち、男くさい野暮ったさは微塵もない。  髪には柔らかなパーマがかかっていて、いつも毅然と背筋が伸びている。  チンピラのような身のこなしが休日も抜けない大輔とは正反対だ。  仕事ではオールバックにかきあげている髪も、休みの日は下ろしている。  いかつさは薄まるはずだが、普段、チンピラやヤクザを相手にしているせいで、丁寧に対応してもどこか粗暴な態度になってしまう。警察官だと言っても冗談に取られることの方が多いぐらいだ。  ドアのロックが外れる音を聞き、大輔は助手席に乗る。 「一本早い電車に乗ったの?」  笑みを滲ませた声に尋ねられて、妙に気恥ずかしくなる。ショルダーバッグを両手に抱いて、シートに沈み込んだ。 「たまたま、乗れたんだよ」  ぶっきらぼうに答えた手から、そっとバッグが取りあげられた。  申し訳程度に存在している後部座席へ投げ置き、田辺はそのまま大輔の左肩へ手を伸ばした。外車だが、内部は右ハンドルの日本仕様だ。  左手をシートに乗せ、右手でシートベルトを引き出す田辺の身体が近づき、大輔は密かに息を呑んだ。呼吸をすると、爽やかなコロンがいやでも鼻に入り込んでくる。  朝には刺激が強すぎると思っている間に、くちびるが触れた。かすめるようにさらりと、上辺をなぞられる。 「あっ……」  小さく叫んだのは大輔で、 「ごめん」  と、小声で謝ったのは田辺。  かすめるように触れたことを謝ったわけではないと、すぐにわかる。田辺はもう一度、くちびるに触れてきた。今度ははっきりとキスだ。シートベルトを右手に持ったまま、広くはない車内で田辺は身をよじっている。 「んっ……」  舌がぬるりと絡み、大輔はブルッと震えた。息をするたびに田辺のコロンが香り、心地良いと思う自分に流されかける。  アパートまで迎えに来ず、わざわざ郊外の駅を待ち合わせ場所に選んだのは、こういう下心があったからだ。離れた場所なら、出会い頭にもキスができる。  大輔は、閉じていた目を薄く開いた。  伏せられた田辺のまつ毛はすっきりと長く、引き締まった頬に影が差すようだ。田辺の舌は遠慮がちに大輔を求め、やがてゆっくりと引いていく。  ぼんやりとしていた大輔は、下半身が反応しない程度の触れ合いにホッとした。あと少し続けられたら、勃起したと思う。 「相変わらず、荷物が少ないね」  取り繕うような物言いで、田辺がサイドブレーキを解除する。苦々しく眉をひそめた横顔に気づき、大輔は浅く息を吐いた。  ぎこちない距離感だ。この日を指折り数えて待つ恋人同士のようには振る舞えず、かといって、なにごともない友人の振りもできない。  すれ違っているとわかっていても、噛み合わせる言葉が思い浮かばなかった。こんなとき、大輔はいつも以上に野暮だ。 「パンツは入ってる」  そんなことを口にして、場をしのぐ。  一泊だけの温泉旅行だから、着替えは持ってきていない。 「それはよかった。なにも持ってこないかもしれないと思って、大輔さんの分も用意してた」 「マジか」  驚いて振り向くと、田辺はもういつもの表情に戻っていた。人をけむに巻く詐欺師の顔だ。温和で人当たりが良く、優しげなのに得体が知れない。  つまり、田辺は本心を隠すのに長けている。 「おまえさ……」  大輔はぼそりとつぶやく。 「あんなのするなよ。……勃つだろ」  ステアリングを握った田辺が振り向くのを感じ、大輔は急いで視線をそらした。窓ガラスとドアの境に肘をついて、外へ視線を向ける。ロータリーに入ってきたバスが停まり、駅がにわかに活気づく。  大輔だって、今日を楽しみにしていた。有給休暇は残っているが、取得するためには調整が必要で、温泉旅行が決まってからは、先輩の西島から不審がられるほど浮かれていた。  それに、温泉宿でされるであろう、淫らでいかがわしいアレコレを想像して、ひとりで悶絶したりもしたのだ。昨日の夜はぐっすり眠ったのも、いつも以上に根を詰めて働いた結果だった。  すべては田辺との旅行のためだ。  だから、朝一のキスを恥ずかしく思っただけで、逃げられたような悲しい気持ちにならないで欲しい。本心を隠すのが上手いのに、田辺の気持ちは大輔にだけダダ漏れだ。 「だいたいな、人目があるだろ」 「ないよ」  即答する田辺の声に性的なニュアンスが滲み、大輔は流し目で睨みつけた。 「バカ……。さっさと出発しろ」  指先で頬を押し戻して、前を向かせる。すぐに離した指は火がついたように熱く、大輔は黙って拳の中に握り込んだ。

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