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第1話

1  残暑の厳しい9月、まだ蝉の鳴き声が残る季節。あの日の記憶は、眩しい日差しさえ鮮明だった。  朝、学校に行く前だ。この日は家にいるようにと、父から言い渡された。いつになくかしこまった様子で驚いたことを覚えている。  遊びの誘いを断って早めに帰宅すると、珍しく家政婦が誰もいない。不審に思いながらも、宿題を片付けながら、父の帰りを待った。 父は日が暮れる前には帰ってきた。 「ただいま」 「お邪魔します」  聞き慣れた声に、知らない人の挨拶が続いた。客が一人、いるようだ。  わざわざ出迎えに行くほど仲のいい親子ではない。途中かけの宿題をランドセルにしまいながら、二人が2階に上がってくる足音を聞いた。 「光。いるか」 「おかえりなさい、父さん」  父の後ろに隠れているのか、客の姿は見えなかった。 「急だが、お前に紹介したい人がいるんだ」 「こんにちは」  高校生くらいの背格好の青年がひょこっと顔を出した。はにかみながら小さく挨拶をする。彼は父に手を引かれて、部屋に入ってきた。 「はじめまして。桐矢です。よろしくね」 「……はじめまして」  それは、衝撃だった。返事ができたのが奇跡だといえるくらいに、呆然としていた。  これほど美しい人は見たことがなかった。  服装は素朴で、髪も染めていないし化粧もしているようには見えない。それなのに、透きとおるような白い肌と、柔らかそうな黒髪。少し明るい色の瞳には、長い睫毛がかかっている。 心臓がドクドクと跳ねまわり、熱くなった手のひらに汗が滲んだ。 「光くん、だね」  桐矢の声で、はっと我に返った。 「これから仲良くしてね」 「うん……はい」  春風のように暖かくて柔らかい声に聴き惚れて敬語を忘れてしまい、慌てて言い直す。遅れて、桐矢の言葉の意味が頭に入ってきた。 「これから?」 「そうだ」  父の声に驚く。桐矢に夢中で、父がいることを忘れていた。 「これから、桐矢はお前の兄になる」 「兄?」 「今日からこの家に、お前と一緒に住むんだ。仲良くしてやってくれ」  あまりに急な話で、理解が追いつかない。 しかし、父の隣で、困ったように微笑む桐矢が美しくて、他のことは全部どうでもよかった。まだ暑い気温のせいで、桐矢の半袖シャツの袖が、白い柔肌に張り付いているのを見て、子供ながらに生唾を飲み込んだのは覚えている。  こうして突然に、桐矢と父と光の3人での生活が始まった。桐矢がどういう事情で、どこから来たのかは分からないまま。  桐矢が来てから、父は帰宅することが増えた。  それまでのこの家は、ほとんど家政婦と光が出入りするばかりだった。母は光がまだ幼いうちに亡くなっていて、顔も覚えていない。夜はいつも家でひとりだった。  学校と、家政婦が光の世界の全て。父はたまに光がきちんと学校に通っているかを確認しに帰る程度で、それ以外の日は仕事で外泊をしていた。  顔合わせの次の日から、家政婦も戻ってきた。彼女はすぐに普段通りに仕事をこなすようになった。話は伝わっていたのか、桐矢はまるで昔からずっと光の兄であったかのように扱われた。  桐矢は数日に一度、どこかに出かける。  それ以外はどこにも行かなかった。 「桐矢さんはニートなの?」  などと、子供らしく無遠慮に尋ねたこともあったが、 「似たようなものかな」  と、笑って返された。思い返すと失礼な質問だったのに、桐矢は優しかった。  朝起きてから眠るまで、桐矢はいつも穏やかに微笑んでいた。大人に優しくされることは光にとって初めての経験だった。 「おはよう、光くん。今日は学校?」 「うん。帰ったら、遊んでくれる?」 「宿題が終わってからね」  桐矢が家にいる日は、放課後に一緒にゲームをしたり、話をしたりして過ごす。宿題で困ったことはなかったが、わざと分からないふりをして桐矢に教えてもらったこともあった。  父が帰ってくるまでは、光が桐矢を独占できた。両親に甘えられなかった分の愛情を、たっぷり与えられていたと思う。  父が帰宅すると、桐矢は父のものになった。光を邪険に扱うことはないものの、心はいつも父にあるようだった。 「光はもう寝なさい」 「おやすみ、光くん」  夜9時を過ぎると、リビングから追い立てられる。桐矢は父の寝室で寝ているらしかった。光は父の部屋には入ったことがない。 「父さんの部屋って、どんな感じ?」 「どんなって、普通の部屋だよ」 「仕事でいないうちに、こっそり入ってみたい」 「だめだよ。俺が怒られちゃう」  その部屋に光が入りたがるたびに、桐矢にのらりくらりと躱された。結局、光が小学生のうちは入ることはできなかった。  あの綺麗な顔で言われると抗うことはできなくなる。桐矢の優しい微笑みが、何よりのご褒美だった。  時折、夜中に目を覚ますと、父の部屋から桐矢のすすり泣くような高い声が聞こえた。 それについて尋ねても、桐矢は何も答えてはくれなかった。

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