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 かすかな衣擦れの音でブラッドは目を覚ました。眠りが浅いのは仕方ない。昨夜は何度も求められた。いい加減寝かせろと文句を垂れても、もう一度と熱い吐息とともにせがまれてやむをえず受け入れた。王の意思には逆らえない。 「部屋に戻るのか……」  自分の口から出た声は酷く掠れていた。今は時間帯さえわからない。ヘリオススの洞窟の中に光は差し込まず、暗い穴の中は蝋燭の炎だけが照らしている。だが眠りに落ちてから数時間ほどしか経過していないだろうと思った。瞼が重すぎる。  岩のベッドの外で、切創の走る背を向けて衣服を身につけていたクバルが振り返った。 「起こしたか」  クバルは毛皮の上に腰を落とし、腕を伸ばしてブラッドの額に触れた。こういう所作のひとつひとつが、まだ慣れない。  クバルがブラッドを「犯す」のではなく「抱く」ようになってから、数日経過した。いつも目覚めるとクバルは毛皮を被って寝息を立てているか、目を閉じて微睡みながらブラッドが目覚めるのを待っている。あるいはふたりのどちらかが目覚めるより先に、ヤミールとカミールが王と女王の部屋に入ってくる。今日はそのどれでもないから、洞窟の中の王の部屋へ戻るのかと思った。 「狩りに行ってくる」 「狩り……?」  まだ夜じゃないのか。あるいは日も上らない明朝じゃないのか。ぼんやりしながら聞き返すと、クバルは思いもよらない言葉を落とした。 「アステレルラも行くか」  睡魔が泥の中に引き摺り込もうと引っ張ってくるが、誘惑はにわかに消え去った。  外に出られる。巡回以外で。初めてだ。  ツチ族との戦闘で命を落とした戦士を弔い、二日かけて馬を走らせヘリオススへ戻った日の夜、クバルはブラッドに許しを与えた。自由を縛ることはしない。狩りも、他部族との戦闘も、アステレルラが望むのであれば同行していいと。  他部族との戦闘が毎日のようにあっては困るが、狩りへ出ることは望んでいた。アトレイアにいた頃も執務のない時は遠乗りに出かけ、王室の所有する城の近くの森で鹿を狩ったりもした。ヘリオススの中に閉じ込められるだけの生活が終わるのは喜ばしい。  しかしヘリオススに帰還してから、クバルも戦士たちも外へ出ることはなかった。戦いの傷がまだ癒えていなかったからだ。 「行く……もちろん行く、っ」    毛皮を剥いで体を起こすと、腰と股関節が軋みを上げた。昨夜の名残だ。 「無理をさせたか」 「大丈夫だ……馬に乗るのには問題ねえよ」  表情は淡々としていたが、ブラッドを覗き込む赤色は心配そうに見つめている。クバルの気遣う態度はなかなか慣れなかった。言葉もなく乱暴に犯していた頃とはまるで違う。      太陽はまだ地平線に頭を隠しているが、空はわずかに白んでいた。馬の上から見渡した果ては靄がかかり、どこまで続いているのかわからない。  空気は澄んでいる。肌を焦がすような暴力的な日射も、息をするのも億劫になるほどの熱気も今はない。流れる風は心地よく、過ごしやすい。大地に蓄積されていた熱がじわりと立ち上がるのを、馬だけが感じ取って足踏みをした。  馬上で後ろを振り返れば、ヘリオススのふたつの三日月が小さく見える。随分と離れた場所まで来た。もう少し走ればヘリオススの影は消えてしまいそうだった。 「帰り道がわからなくなることはないのか」  周囲の赤い大地は、似たような形の鋭い巨岩が点々と生えているだけだ。殺風景で、他には何もない。ヘリオススが見えなくなってしまえば、自分が立っている居場所は容易に見失ってしまいそうに思えた。 「それはない。ダイハンの民は、自分とヘリオススとの距離を知っている」 「太陽の位置でわかるのか?」 「太陽と、風の流れ、大地の匂い。皆、子供の頃から自然に身についているものだ」  そういうものか、とブラッドは感心した。生まれた時から岩と砂に囲まれて生活する赤い大地の人間にしかできない芸当だろう。  逞しい黒馬が隣に並び、乗馬するクバルが右腕を大地と水平に掲げて先を指差した。 「あの岩の影に獲物がいる」 「わかるのか?」  静かに首肯したクバルが、追従していた戦士のひとりに目配せをすると、戦士は馬を駆って岩場に近づいて行った。荒々しい蹄の音で敵の気配を察したらしい、赤い巨岩から二頭の獣が飛び出してくる。  手足は短いが身体の長さはダイハン族の戦士が両腕を広げたほどの大きさで、全身が茶褐色の鱗に覆われている。前に長く突き出した口からは鋭利な牙が覗き、全長の三分の一ほどを占める尾は太い。顔の真横についたふたつの大きな目玉がギョロリと蠢き、短い手足から想像できない速さで走り出した。 「あれを追う」  クバルが手綱を引いて駆け出す。遅れてブラッドも馬を走らせた。 「何て言う名前なんだ」 「俺たちはガンバスと呼ぶ。土の中に住んでる。追えば巣の近くまで行ける」 「人を襲うことは?」 「ない」  俊敏な動きで遠ざかる獣を、速度を緩めた馬で追いかける。二頭の獲物は、どちらも同じくらいの大きさだ。 「あれはまだ小さいから子どもだ。子どもは狩らない」  十分ほど馬を走らせてから、一行は獣の尾を追うのを止め、巨岩の影に身を隠した。馬から下り、岩影から覗き見るとすでに獣の姿は豆粒ほどの大きさになるまで遠ざかっている。 「あの岩の下で止まったのか?」 「見えるか。あの下が巣だろう。今、親が出てきた。二頭より一回り大きく、尾が長い」  クバルが指摘するが、子細はブラッドにはまったく見えなかった。何か黒いものが蠢いている、くらいの認識でしかない。 「ガンバスの成獣は、鳥よりも脂が多くてうまい」  クバルは岩影から身を出して弓を構えた。獣にも、遠く距離を取ったこちらの気配は感づかれていないらしい。しかし的がほとんど視認できないほど離れた場所から仕留めるつもりなのか。  クバルが矢をつがえ、引き絞る。張られた弦が軋む音を立てている。肩甲骨とその周囲の盛り上がった筋肉がわずかに緩んだ瞬間、矢が空気を裂いて飛んだ。 「……当たったのか?」  それさえもブラッドには見えなかったが、矢を放った本人は頷いている。戦士のひとりが馬に飛び乗り、巣の目印である岩へ向けて駆けて行く。 「親を一頭仕留めた。子どもはすぐに巣の中に隠れた」  突如親が倒れて驚いたのだろうが、そんなところまで見えていたのか。クバルは当然だとばかりに、普段と変わらない澄まし顔をしている。巣から戻ってきた戦士の手は、巨大な鱗の獣の胴体を大地に引き摺るようにして、男の腕の太さよりも幅のある尾をしっかりと握っている。分厚く硬い体の側面には、クバルの放った矢が深々と刺さり、赤黒い血が流れていた。 「……目が良いんだな」 「ダイハンの戦士であれば皆仕留められる」 「俺には無理だと?」 「やってみるといい。この辺りにはガンバスの巣が多い筈だ」 「二頭でも三頭でも仕留めてやる」 「お前なら問題ない。ただし、俺の目の届く範囲にいろ」  王城近くの森で大鹿に矢を放ち、格闘のすえ相手の角を折って首に突き刺し持ち帰ったこともある。ダイハンの戦士には敵わないにしても、狩りの腕に自信はあった。ガンバスの数頭くらい苦戦する相手でもない。  意気込んでクバルと戦士たちから離れ、鱗の獣を探した。探すまでは良かったのだ。 「どうして気づかれる……」  仕留める前に、というか矢をつがえる前にガンバスは吸い込まれるように巣穴の中に姿を消してしまうのだ。こちらの姿が視界に入るほど距離を詰めている訳でもない。離れた岩影から狙いを定めている間に、ガンバスは突然辺りにギョロリと視線を配って逃げるように走り去って土の中に潜ってしまう。しかしこれ以上離れようものなら的が見えなくなってしまう。ダイハンの戦士ほど視力が優れている訳でもないブラッドには、至難の技だった。  どうやって仕留めようか、いっそ巣の手前で待ち構えて出てきたところを素手で捕らえるかと思案していると、右前方の赤い大地から、茶褐色のものが頭を出した。 「随分とでかいのがいるな」  そのガンバスは、今日見たものの中で最も巨体だった。馬の胴体ほどの大きさで、手足がでっぷりと肥えている。大地に這い出て周囲をキョロキョロと見渡す仕草も、どこかのっそりとしている。  まさか収穫なしでクバルの元へ戻る訳にもいかない。あの図体と動きの鈍さなら仕留められるのではないか。走らせて疲弊したところを狙えば、チャンスはありそうだ。  ブラッドは愛馬の手綱を引いて速歩で獲物との距離を詰めた。巨体のガンバスはブラッドに気づくと、巣に逃げ戻るでもなく、慌てたように太い手足を動かし始めた。穴から這い出てくる時もやけにゆっくりとしていた。あの太く長い身体では入るのにも時間がかかるに違いない。  獲物は蛇行しながら赤い大地を逃げ回った。騎乗しながら放った矢は獣の尾の付け根辺りに命中したが、どうやら足を止める要因にはならないらしい。見た目に期待した通り、頑丈な奴だ。  ブラッドはどこかどんくさいガンバスの尾を追って馬を走らせた。ガンバスの足が緩む頃には、辺りの岩の数が増えていて、ブラッドの背を悠々と越す巨岩も多く見るようになった。ここまで来る途中、獣の巣穴らしきものを岩の下にいくつか見つけたが、それも徐々に少なくなってきているように思える。クバルからは目の届く範囲にいろと言われたが、すでにクバルと戦士たちの姿は遥か遠ざかっていた。  走ってきた方角は把握しているから、戻るのには問題ないだろう。それよりも、あのデカブツを仕留めなければならない。でないと、二頭でも三頭でもと豪語してきたのに恥を掻くことになる。 「……何だ、あれは」  懸命に逃げる獲物の揺れる尾を熱心に見つめていたブラッドの視線は、前方の大地へと移った。  辺りはまだ薄暗い光にぼんやりと包まれている。その中に、大樹の群が――いや、密集した巨岩の群れが浮かび上がった。赤く武骨な岩たちは、背丈はブラッドの三倍か、あるいはそれを越すものもある。それが隣との間隔を人ふたり分ほどまで詰めてひしめきあっている。まるで目の前に突如、要塞が現れたようだった。  目を奪われている間に、追っていたガンバスがのそのそと岩の要塞の中に入り込んで行く。 「下りるしかねえな」  岩と岩の間隔も狭く、馬では入って行けそうにない。巨岩群の前まで辿り着くと、ブラッドは馬から下りて改めて仰いだ。首が痛くなりそうだ。要塞を築く高さと厚さは威圧感を放っている。薄闇の中で見ると、突然現れた彼らは不気味にも見えた。

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