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 中に入ると視界は赤い岩で満たされた。他には何もない上に、高すぎる岩でわずかな光も遮られ、暗闇に近い。天を仰げば空は白いが、明かりを届けるにはあまりに遠すぎる。一度背後を振り返ると、背丈の低い岩に繋いだ白い愛馬がぶるる、と鳴いた。  こんな場所で矢を放ったら岩に跳ね返ってまともに狩ることもできないばかりか、自分が負傷してしまいそうだ。ブラッドは弓を背負い、腰に差した短剣を抜いて先へ進んだ。  ひとつひとつ掌で岩を確かめながら歩く。ひんやりとした感触が肌に伝わってくる。高さはどれも大差はないが、太さと幅は不均等で、広く薄い板のようなものもあれば、太い柱に近いものもあった。それらが無秩序に入り組んで聳え立ち、ブラッドを覆っている。  自然に形成された迷路のようだった。振り返ればすでに入り口だけがもたらしていたわずかな光は途絶えている。  赤い大地にこんな場所があるとは知らなかった。当然だ。ダイハンに嫁いで以来、婚姻の挨拶のための巡回以外で長く外に出たことがないのだから。  これからは外へ出て行動するに当たって不自由をすることはない。両親を殺したアステレルラとブラッドは違うのだとクバルは理解した。ブラッドがダイハンの民を傷つけることはないと知ったのだ。  手で岩を辿りながら慎重に進んで行くと、少し開けた場所に出た。人がふたり並んで通れるほどの間隔しかなかったのが、ここは馬も数頭並べそうだ。  そこに蠢く影を見た。追っていたガンバスだ。獲物はブラッドの気配を悟ると、小賢しく岩の迷路の中へ姿を隠した。今度は見失わないように、太く長い尾を視界から消さないように素早く後を着けた。俊敏さでは獣には敵わない。ブラッドは途中から道を逸れ、ガンバスが出てきそうな箇所へ急いで回った。ちょうど鉢合わせた敵は、暗闇の中で光る大きな目玉をギョロリと動かして瞬時に方向転換した。胴体目掛けて短剣を投げつけるが、刺さったのは獣の肉ではなく硬い大地だった。  獲物を追い回すうちに、いつしかその姿を見失ってしまった。再び開けた場所へ出て、ブラッドは上がった息を整えた。  落ち着いて呼吸を繰り返すと、徐々に冷静な思考が帰ってくる。 「……戻った方がいいか」  あのガンバスを仕留めるのには時間がかかる。外ならまだしも、この岩の要塞の中では困難だ。  革の水筒の中の果実酒で喉を潤し、ブラッドは上空を仰いだ。空がとても遠い。周囲は岩だらけで、どの方角からここまで入って来たのかも、定かではなかった。  だが歩き続ければ、東西南北のいずれかには出られるのだから問題ない。出たら外周を歩いて馬を探せばいい。  そう考えて岩に囲まれた道をひたすら歩くと、再び開けた場所に出る。それを通過し、聳え立つ岩たちに左右を固められながら進み、開けた場所に出る。途中で爪先がカラン、と軽いものを蹴ったが、何かはわからなかった。  同じ場所に戻っているように思うのは気のせいだろうか。まさかな、と思いながら、試しに背負っていた弓を置き去りにして迷路に身を滑らせる。気持ちが急いて速足で進み、息を切らせて辿り着いた先で悪い予感が的中したことを知った。無造作に放られた自分の弓を目にして、ブラッドは辟易して掌で額を覆った。 「まずいな……」  どうやら、迷っているようだ。  真っ直ぐ進んでいるのだから、同じ場所へ出る筈もないのだが、上手い具合に岩に誘導されているらしい。  誰も聞く者がいないから、嘆息を飲み込む必要もない。中央に立ち尽くし、途方に暮れた。重い息を吐き出すと、音を吸い込むような静寂が訪れる。  自分としたことが、深入りし過ぎたことに気づけなかった。久々に外での自由な行動が許されたことに、もしや浮かれていたのか。浮かれていたのだろう。閉塞感から解放されて高揚しない訳がない。冷静であれば、このいかにも怪しげな岩の要塞に入る前に踏み止まっただろう。  己の迂闊さに呆れながら、落ちている得物を拾い、適当な岩に背を預けてずるずると腰を落とした。日が当たらない背もたれは想像以上に冷たくて、一瞬心臓が跳ねた。  自力で脱出できないのなら、誰かが見つけてくれるのを待つしかない。ブラッドの姿が見えないと知れば、クバルは戦士を遣わして探してくれるだろう。彼に間抜けな様を知られるのは嫌だったが、今はじっとしているしかない。  澄んだ沈黙の中、ガリガリと岩の擦れる音がした。ガンバスか。姿を探そうと視線を巡らすが、迷路の中に隠れていてわざわざ敵の前に現れたりはしないだろう。今はもう体力を消耗してまで動こうという気にはなれない。果実酒を煽りながら、どこに潜んでいるのか見当をつけようとしたが、聞こえてくる音がひとつではないことに気づいた。  爪で岩を削り取ろうとする、その耳障りな音の出所は複数あった。ガリガリ、ガリガリ、徐々に大きくなる。ブラッドは息を潜めて立ち上がった。見渡すが、音の数が増えすぎてどこから聞こえてくるのかわからない。目を細めて警戒した視界に、白いものが漂った。 「霧か……」  足元から、白く濃い空気が這い上がってくるが、唐突すぎる。暗闇に近かったのが、ますます視界が悪くなる。霧が辺りを満たすまで時間はかからず、すぐに数歩先も見えなくなった。 「!」  判然としない中、蠢くものの気配を感じた。ぼんやりとした輪郭が浮かび上がり、遠ざかり、かと思えば視界を横切る。ガンバスか。ブラッドは汗の滲む掌で、滑らないように短剣を強く握り締める。  気配はひとつではない。複数あるが、その数もわからない。 「ブラッドフォード」  誰かが呼んだ。咄嗟に背後を振り返るが、あるのは岩だけだ。  ブラッドフォード、と今度は前方から声がする。聞き覚えのある、低い、張りのある声だった。 「ブラッド」  まただ。それは確かにクバルの声だった。  だが、クバルはブラッドをブラッドとは呼ばない。呼ぶ筈がないのだ。ダイハンの誰も、アステレルラの本当の名前を知らないのだから。  ブラッド、と名前を呼ぶ声が、空気へ霧散して溶けていく。白い視界の中、浮かび上がったいくつもの影が蠢いている。ガリガリと不快感を煽る音がいつまで経っても消えない。ひそひそとした、人間の声のようなさざめきが足元へ押し寄せて這い上がってくる。  衣服が肌に貼りついて気持ち悪い。いつの間にか、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。  ――ガンバスではない、何かがいる。  渇いた唾を飲み込んだ時、何かが肩に触れた。ブラッドは短剣の先端を突き出すようにして、背後を振り返った。  そこには、赤い目を見開いて男が佇んでいた。 「……アステレルラ?」  緊張が溶けると、吹き出した汗の冷たさを全身に感じた。詰めていた息を吐き出すと、無意識に呼吸を止めていたことに気づいた。 「なぜ……」  短剣を下ろす。喉から絞り出した声は枯れていた。 「森の前にお前の馬がいた」 「……森? ここが?」  ああ、とクバルが頷きを返した。目を瞬かせながら周囲を見渡すと、今まで感じていた影の気配は遠ざかっている。霧は変わらず立ち込めていたが、しん、と静寂が戻っていた。 「森と呼ぶには、草木はないが」 「ここはトゥグリの森だ」  確かに、ブラッドも外から見た時に大樹の群かと思ったが。実態は、すべて岩だ。巨岩の森か、と呟くブラッドの肩からクバルは手を下ろした。 「姿がないから、まさかと思って探したら」  淡々とした低い声に呆れるような色はないが、ブラッドは自分の油断と迂闊さを指摘される前に口を開いた。 「俺としたことが迷った。明らかに異様な場所だったのに足を踏み入れた。悪い」 「知らなかったのだから仕方ない」 「お前はどこから入った? 出口はどっちだ」 「わからない。出られない」 「……は?」  クバルの返答に、ブラッドは間の抜けた声を出した。 「霧が出ている間は出られない」 「……確かに、視界が悪くて危険だな」 「いや、出してもらえないんだ」  ガリガリ、と再び岩が擦れる音が聞こえてきた。無意識に、緊張で肩が強張る。 「出してもらえない? ガンバスにか?」 「ガンバスじゃない」 「この音は一体何だ?」 「亡霊が出している」  突拍子もない答えだった。からかっているのか、とクバルを凝視するが嘘を吐いているようには見えない。そもそも彼は冗談なんて言う性質ではない。 「トゥグリの森で死んだ者の亡霊だ。森で迷い、出られずに餓死した者の亡霊が漂っている。道に骨が転がっていなかったか」  彼の語る言葉が真実だとブラッドは気づいていた。今も聞こえる不気味な音や、さざめき、息苦しさは、そうでなければ説明がつかなかった。爪先が蹴ったものは、死んだ者の残骸か。背中を冷たい滴が流れていった。 「脅しには聞こえねえな……」 「脅しじゃない。ダイハンだけでなく、赤い大地で暮らす民全員が知っている」  トゥグリの森には怪物が住んでいる。恐ろしいものが岩で蓋をして閉じ込めてしまう。悪い子どもは夜眠っている間にトゥグリの森に捨てられてしまう。子どもは皆、夜眠りにつく前に母親から聞かせられるそうだ。それは決して子どもを躾るために紡ぎ出した物語ではなく、真実なのだという。 「入る前に知っておきたかったな」 「俺も油断していた。目を離してしまった。まさかこんなに遠くまでお前が来るとは思わなかった」  クバルは単に自分の思ったことを口にしただけだ。夢中になって馬を走らせていた自分を思い返し、耳が熱くなる。 「悪かったな……。じゃあ俺たちは出られずにここで餓死するってのか?」 「餓死はしない。亡霊の気が済めば霧を晴らしてくれる。霧が出ている間は、どう歩いても抜けられないようになっている。霧が晴れれば出口に辿り着ける」 「その言い方じゃ、亡霊の気が済まない限りは帰してもらえないみてえだな」 「そうだ」  そうだ、って。何の感慨もなく、大した問題とも捉えてなさそうにクバルが頷くのを、ブラッドは呆然と見つめた。折角自由を縛られることがなくなったのに、外に出た途端に巨岩の森で彷徨って餓死だなんて、そんな間抜けな死に方はしたくない。 「そんな顔をするな」 「出られた前例はちゃんとあるんだろうな」 「帰ってきた者もいる」 「……も?」 「ひとりで彷徨い、生還した者はいる。迷った者を探しに入ったが見つからずに戻った者もいれば、見つけて戻った者も。両者とも戻らなかった時もある。お前を見つけられたのは運が良かった」  その言葉を聞いて、本当にヘリオススに帰れるのかブラッドは不安になってきた。  というか、クバルは森へ入る危険性を承知の上でここまで来たのか? ブラッドを探しに?  

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