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九夏【前編】

 人の性癖というものは、多種多様でまさに混沌。悪辣なものから常識の範囲内のものまで秋の空のごとき移ろいを見せる。一人の人間につき数種の性癖を持っているのかと思えば、複雑怪奇なまでに一種を極める猛者まで存在している。  様々な変態性癖を極め尽くし、最終的に栗花落(つゆり)が辿り着いたものは“抜歯”だった。  なぜこれほどまでに、抜歯というおぞましく悪辣な性癖に傾倒していったのかはおいおい紐解くとして、まずは過去の性癖をかいつまんで紹介したいと思う。     今でこそ恥辱に身を焦がし、涙と鼻水を垂らしながら官能の夜を飲み干してはいるが、栗花落は元来いたって一般的な性欲求しか持っていなかった。シャワーの水圧をひたすら股間へと集中させた事はしばしばあったが、そこまでだ。ウォッシュレットは便利だと思いこそはしたが、それが何か後ろめたい悪癖を産んだりはしなかった。極めて一般的だ。このまま何の性的弊害もなく一生を終えるのだと思っていたが、安寧であるべき未来が一人の男によって粉々に粉砕されてしまったことをここに告白したい。  その男の名は何だったか。高校へ入学すると同時になんとなく始めた部活の顧問だった。剣道部の、そうだ、佐戸先生だ。有名な戯曲と絡め、心の中で“侯爵”とあだ名していた事をようやく思い出した。名前に違わずひどくサディスティックな人間で、事あるごとに、事がなくても竹刀を振り回していたクズ教師であった。若さと体力だけが取り柄のどうしようもない人間だった。  端的に言えば、栗花落はそのサディスティッククズにぶたれる快感をみっちりと仕込まれた。  それだけならば、ただ単に被虐思考だけで生きる肉塊として止まれたのかもしれない。が、やがて侯爵の竹刀がハーフパンツの中の下着のふちを潜った瞬間、栗花落は己の性癖をアップデートせざるを得なくなってしまった。  部活はすぐに辞めてしまったが、侯爵には半ば望んで犯され続けた。女性との幸せな未来はもうやってこないのだなと、顔中に精液をこびりつかせながら諦念した。  毎日のようにルイス・キャロルの鏡の国のアリスを読みながら、春の体育倉庫でサド侯爵の登場を待った。環境に馴染むためには、自ら適応しなければならない。進化するしかない。出来なければ忘れ去られ、淘汰される。赤の女王が言う、「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というのはこのことだろうと賢明な栗花落は悟った。  まだ季節は夏を迎え切っていなかった。        それから数年経った、梅雨のことだ。  栗花落は大学で文系を専攻し、ゼミとかいう訳のわからないことで暇をつぶしながら、日がなスカトロについて頭を悩ます青年へと変貌していた。侯爵との淫靡な密会以降、紆余曲折を経て頭から尿を被ることを好むようになったのだ。その手の掲示板ではちょっとした有名人になるくらいであった。  尿を被ることで快感を得るには一つの条件がある。相手が複雑そうな表情を浮かべながら、己に放尿することで興奮値を飛躍的に伸ばす事ができる。妙に乗り気で便器代わりにされるのはなんだか興奮しなかったし、無理矢理の呈でひっかけられるのも御免だった。そこまでノリノリで来られても戸惑うし、引いてしまう。  恍惚として尿を被る人間を奇異な生物を見るような視線で見下げるくせに、その睥睨の中にわずかに混じっている高揚と優越感を見つけ、陶酔しながらも逆に嘲笑してやるのが、栗花落はこの上なく好きだった。 『いくらか金を払うから、小便をかけてほしい。』  夜の歓楽街で、栗花落は唄う。案外多くの男がともに安く汚いホテルへと向かってくれた。狭い浴室に服を着たままもつれるようにして転がりこむ。本当にするのか、と今更渋る男のチャックを口で下ろし、その布の谷間へと鼻を擦り付ける。まるで犬のようで、これが殊の外たのしい。いつかの顧問がそうしたように、人差し指で下着のふちを掬った。  尚もしぶる男を無言で促し、ようやく熱く臭う液体がつむじから流れる。熱い息を吐いて無心で尿をかぶる。うなじからシャツと背中とのあいだを流れ、ひざまずく尻の間に染み、踵をぬらして排水溝へと吸い込まれていく。湿った黴くさいタイルを黄色い液体が網目模様を描いて泳ぐのを、うつむいて眺める。美しい流線形。恍惚の小さな波間。湿気のこもる、狭く古い浴室に尿の匂いが充満する。  唇を噛みして伏し目がちに放尿する男の体温が高まったのか、いやに尿が熱い。溺れてもいいとすら思う。尿で溺死。それもいいかもしれない。ろくでなしの人間はやはり、ろくでもない人生しか送れないのだととうに知っていたので、せめて死に方くらいは選んでやろうと思っていたところだ。かの有名な文豪だって、入水自殺だ。尿で溺れて何が悪い。洗面器いっぱいほどあれば、こと足りる。そう難しい事じゃない。  やがて尿が尽き、見上げると背徳感いっぱいに染まった男と視線がかち合った。やはり、後悔と奇異のまなざしの奥にじっとりとした恍惚が胎動しているのを感じた。お前もか、唇だけでそう呟くと、男はぎこちなく首を傾げた。いい顔だったから、そのまま萎えている肉を口に含んだ。赤く剥き出しになった亀頭からぶらさがったシトリンの粒のような水滴は、やはり苦かった。頭頂部の髪を掴む手が熱くて、この男もすぐにギラギラとした図々しい眼光を光らせながら好んで尿をかけるようになるのだと悟り、尿を詩的にシトリンに例えて高揚していた気持ちはどこへやら、すこしだけ哀しくなった。  ずっと今のように、二律背反の間で揺れていればいい。他人に尿をかけるという異常性と、尿をかけて確かに興奮しているということ。どちらも正しく、また二つは明らかに矛盾している。この世はおかしいことばかりだ。           盆を迎えた。  あっという間に他人の尿にも飽きてしまって退屈していた栗花落は、何を思ったか精飲にハマった。この際常軌を逸脱していたら、内容は何でもよかったのかもしれない。やけっぱちだった。が、これも長く続かなかった。  変人が集まる変てこなパーティーの壇上で、スパンコールがびっしりとついた大きな蝶ネクタイをした司会者に、盛大なドラムロールの後に「利きスペルマをして下さい」と言われた瞬間、正気に戻った。こんなところで、こんな変態達に混じっていったい何をしているんだろう、と頬をつねった。頭も殴った。床に大の字に寝ころんで泣いたし、心の中で何度も自分を詰った。  まろぶようにして会場を後にし、とぼとぼと帰路に付く。すっかり陽は落ちており、紺色の空にじわっとした湿気がまとわりついていた。盂蘭盆特有の濃い空気を掻きわけるようにして歩く。ぽつぽつと雨も降ってきて、もうどうしようもない。夏の雨は心地良く、不快で、複雑だ。この匂いの持つ郷愁感とせつなさは人類共通だろう。きっと。  やがてか細い雨は、盂蘭盆の抹香臭い空気を撹拌するように雷雨へと変わって行った。空気さえビリビリと震わせるような稲妻と雷鳴に、栗花落の育ち盛りの親知らずが脈打つように痛んだ。  雨の夜は逃げだしたくなる。特に夏のそれは、顕著だ。夏の夜は、けっこう遠くまで見える。田舎の縁側をふと思い出した。蛙の音と夜の空気がフラッシュバックして、震えた。星は無い。濃い、夏の深夜だ。草いきれ、街灯、なんの変哲もない夜道。  暗がりの細道を幾度か曲がり、地下映画館の前でふと足をとめた。 (――――何か、見て行こうかな)  万年湿っているのではないかと疑いたくなるほどにカビが浮いたコンクリの階段を下り、古ぼけたポスターを眺める。 (B級ホラーか、ピンク映画しかないな)  あまり趣味ではないが、少し迷ってホラーを見ることにした。かなり悪趣味なやつをわざと選ぶ。カビ臭いレイトショー。小さな箱にいやな匂いのする椅子が点々と鎮座していて、すこしそわそわしてしまう。   妙にぺたぺたした床を踏み、後ろの方の座席へ座った。二席ほど離れたところにひとりの男が座っているのを認め、小さく舌打ちをする。五十代だろうか、太っていて、腋臭の臭いがひどかった。席を移ろうか迷い、結局は面倒くさくてその場に留まることにした。いやな臭いに耐えるというシチュエーションもなかなか被虐的で悦い。  ジジッ、という音と共に唐突に映画が始まり、ぼんやりと眺める。あくびが出るほどの、いかにも作りモノめいたストーリーと効果に、栗花落は暫く無心でスクリーンを見つめていた。いつの間にか隣の席に男が移動してきていたが、放っておいた。なんだか全てがどうでもよくなっていた。  映画がはじまると、はじめは女優の派手な喘ぎ声に呆気に取られたが、その後はきちんと“グロテスク”をしていたので安心した。付き合いたてのカップルが頭のおかしい男に捕まり、なんだかんだと拷問されては治療をされ、また拷問されるという、ただそれだけの話だ。付き合いたてのカップル、というのがミソになっていて、素直に面白いと感じた。ふと、ねちねちという音が聞こえると思ったら、隣の男がマスを掻いていて、なんとなくそれを横目にチラチラと観察しながら、そういえば、と物思いに耽った。  “グロテスク”と“エロティック”をより一層際立たせるには、“医療行為”を加えればいいと常々思っている。白々しいほどの清潔さ、それこそがエロスの真骨頂だ。施術者は淡白でなければならない。全ての不潔をはねのけそうな、あの手術着。薄くすべらかな手袋に、感情を見せぬ大きなマスク。目だけはやたらと真剣で、もうどうにでもしてくれという気分になるのも仕方があるまい。  それこそ、B級ホラーではよく医師などが出てくる。器具も出てくる。が、その器具や着衣が血や錆にまみれていたり、いかにも血みどろで残虐な表情を浮かべた人間が、さも「今からこれで痛いことをするぞ」というようにおぞましい器具を掲げていたりするが、あれは興冷めもいいところだ。何も分かっていない。無表情に、無口に、清潔な器具を持って、機械的に捌かれる。それこそが、エログロの極みだ。  そういう意味では、拷問と治療を繰り返すこの映画は栗花落の好みに掠っていたのかも知れない。医師は淡白ではなかったが、それなりに楽しめたと思う。  腋臭の男に腕を引かれたが、突き飛ばして地下映画館を出た。なんだか、次の悪癖がむくむくと頭を擡げかけているような気がしたのだ。        地下映画館で妖しいレイトショーを見た日から、栗花落は“医療プレイ”に明け暮れた。  巡り合わせとは不思議なもので、軽い尿漏れを診てもらいに泌尿器科を受診したら、若い雇われ医師が同類の人間だった。つまり、そっちの世界、という意味で。栗花落の陰茎をしげしげと眺め、 「もしかして尿道に変なものを入れるのが趣味の人?」  とのたまった。目だけは驚いていうふうを装っていたが、口角が上がっているのを見逃さなかった。医師のかさついた掌がわずかに膨張した己の陰茎を上下に擦るのを、栗花落は唾を飲んで見下ろしていた。午後の太陽光線がまぶしく鮮麗な昼下がりのことだった。  泌尿器科の花崎医師は栗花落の尿道にカテーテルを差し込みながら、穏やかな口調でいつも文学の話を繰り広げた。萩原朔太郎の詩を暗唱してみせ、涎を垂らしてむせび泣く栗花落に感想を問うては意地悪く笑った。“いぢらしき感傷の手”とは、どんな手だと思う? と問われ、それはこんな手だ、と花崎の手をひっかくと、彼は満更でもなさそうに笑顔を浮かべた。  下半身から根のように這う快感をセンチメンタルと言わずして、どう表せばいいだろう。むずむずとした、まるで空気の層を挟んだ向こう側で蠢くような快楽は遠い夏の日への逸るような追慕に似ている。 「少し、皮がだぶついているね」  ぐにぐにと包茎のやわらかい皮を指先で捏ねられ、犬が鼻を鳴らすような声が出た。観察するかのようにまさぐられ、下手に追い立てられるよりも羞恥を煽られる。性的な意味合いを持った愛撫ではなく、あくまでも診察だとでもいうような手淫がまどろっこしく、ねちっこく、そしてもどかしい。 「きみ、皮オナ派? どうせ毎晩してるんでしょ。こんなふうに」 「い、あっ……!」  花崎は熱っぽい目で栗花落の赤い顔を覗き込み、手の中で膨張したかわいそうな包茎をねちねち嬲る。埃を浮かび上がらせる光の矢が剥き出しの性器を照らし、どうしようもなく後ろめたくなる。不自然に力が入った足が込み上げる射精感に跳ねて、簡素な丸椅子の足を蹴った。不自然に伸びてしまった皮を指先でつまんで、痛いほど亀頭にぐりぐりと押しつけられる。腰が砕けそうになるとは、このことか。やわらかい皮の内側がぬめる亀頭を執拗に擦る。視線を下げた先には彼の言う通り、だぶついた皮から真っ赤に熟れた亀頭が覗いては呑み込まれている様がありありと晒されており、栗花落は恥ずかしさのあまりぼろぼろと大粒の涙を流しては花崎にすがって泣いた。  近くなる顔と顔の距離を詰めようとし、栗花落は我に返って瞼をきつく閉ざした。  キスをしそうになった。  完全に無意識だったが、あとほんの数センチで唇が重なりそうだった。そういえば、色々なことをしてきたが、キスの経験は未だに無い。それを、自らしそうになった。  戸惑う栗花落をよそに、花崎は彼の唇のわななきを見つめながら、ただ瞳を細めるだけであった。        今までには経験しなかった、穏やかに追い詰めるような快楽をくれるこの医師を、栗花落は気に入っていた。花崎もそう思ってくれていたようで、ズボンのジッパーを下げずに黙々と詩や小説について語り明かすほどの仲にまで進展したのだから、人生何が起こるか分からない。とはいえ、その進展の仕方はやはり常人とはまるっきり逆の順序をたどっているのだが、栗花落はそんな重大なことにこれっぽちも気付いていなかった。          そんなある日、花崎は突然数冊の小説をプレゼントしてきた。県外の病院へ移動する事になったので、最後の思い出に、ということだった。栗花落はそうですかと声を落として、少しだけ涙ぐんだ。  最後に、とは言わないで欲しかった。距離と管轄を理由に自分を手放すことに、勝手ながら落胆したのだ。舞いあがって彼の言葉にとろけていたのは自分だけだったのだと知り、初めて失恋というものを経験した。おもえば、恋というのも、人生で初めての経験だったのかもしれない。  元気でね、と手を振る医師の晴れやかな笑顔を瞳に焼きつけながら診察室の扉を閉め、あの人の事が好きだったのではない、ただあの人の語る詩と、特別な愉悦を与えてくれる手が好きだったのだと無理やり納得し、気持ちに蓋をした。そうして壊れてしまった恋慕を誤魔化すことしか出来ない距離感が、また哀しい。わがままを言えるほどに親しい関係ではなかった。  夏の死をこころで感じながら、やはりあの手こそが“いぢらしき感傷の手”だったかと、一人ため息を吐いた。   

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