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九夏【後編】

 死にかけている夏の残滓を拭いきれぬ、九月の初旬。悪あがきのような暑さが溶けたタールのように凝っている。  じめっとした熱い湿気を閉じ込めたような暗いアパートの一室で、栗花落は文庫本を眺めていた。読んでいるわけではなく、ただ表紙を眺めているだけで目はうつろだ。醤油のしみが付いたままの汚いテーブルには無数の傷が付いていて、それは栗花落の生涯初めての失恋に窶したこころにも似ていた。切り傷に、塵が溜まっていく。熱気に粘つく唾液が喉を滑ってゆく。舌で親知らずをなぞると、もうすっかり大きく育ち切っており、口腔を厳かに圧迫し始めていた。ずくずくと痛む。抜いたほうがいいのだろうか。あまりの暑さと歯の鈍痛に、栗花落はイライラと舌うちを放つしかない。  弱々しい油蝉の声をBGMにしながらそろそろと一冊の表紙を開く。新品の本は固く、手に馴染まない。  結局、栗花落にとって花崎とは、新品の本のようなものだったのかもしれないと、ふと思いついた。開きにくく、馴染まない。白々しいくせに全神経を奪う。夢中にさせて少しの知識と余韻を授けるくせに、読み終えてしまえばそれで終わり。それ以上の親和は永劫に無い。きっともう会うこともないのだろう。さよなら。  唯一、彼との実態ある思い出の文庫本。その中に萩原の詩集があり、栗花落は一瞬苦い顔をした。当てつけだろうか。なんにせよ、性格が悪い。そしてルイス・キャロルのアリス。懐かしく、これもまた苦々しい。  暇つぶしにでも読んでやろうかと、万年床の上で寝ころびながら見知らぬ一冊を手に取った。初めて聞く小説家の本だった。いかにも薄くやわらかそうな瞼を閉じた、美しい女性を描いた表紙に興味を惹かれた。  どうやら短編集のようだったので、適当なところから読むことにする。読書なんていつぶりだろう。思春期のころはそれなりに読んでいたはずなのだが、大学生になってからはからっきし時間も余裕もなくなってしまい、性戯に明け暮れるしか出来ない、最低な人間になり下がってしまった。かつての部活の顧問が悪かったのではない。遅かれ早かれ、普通ではない性癖に目覚めてしまう性分だったのだろう。そういう質の人間だったのだ。きっと生まれた時から。ふと、花の香る体育倉庫で嗅いだ精液の匂いを思い出した。     気が付くとすっかり日が暮れていた。空に赤いものが混じり、いつしかトラックは油蝉から蜩へと切り替わっていて、もぞもぞと布団から這いあがると強張った肩の筋肉をほぐした。  夢中で本を読んでいた。こめかみから下りた汗の粒が喉元を滑るのも厭わず、ぼんやりと空を見上げながら、舌先をめいいっぱい伸ばして親知らずをなぞった。唾液が甘く感じるのは気のせいだろうか。この高揚は、レイトショーを見た帰り道でのそれとまるっきり同じだった。つまり、またもや栗花落の中で新たなる悪癖の兆しが見えたのだ。  それこそ、最終的で、究極の悪癖を。       「栗花落さん、どうぞ」  冷たい声にか細く返事をして診察室へと入る。夜中の暗いロビーと違い、診察室は白熱灯が煌々と照っていた。光の洗礼に痛む歯が悲鳴を上げた。と同時に、白々しい、他人事のような光が薄闇に慣れた瞳を焼き、立ち眩んだ。 「こちらの診察台に……、大丈夫ですか?」  目頭を押さえて立ちすくむ栗花落に、歯科医が怪訝そうな目線を送る。大きなマスクで口元が隠れているので、目元で感情を推し量るしかない。眼鏡の奥できらめく瞳は涼しげだ。薄情そうな印象を与える。  栗花落はこの医師に好感を持った。なぶられたくなるような、そんな雰囲気を纏っていた。 「大丈夫です、すみません」  あわてて取り繕いながら指定された寝台の上に座ると、いきなり背もたれを倒された。驚いて小さく声を上げる。まったく悪いと思っていないような声音ですみませんと矢継ぎ早に言われ、すこしドキドキした。こういう扱いを受けるのはきらいではない。この人になら、嘲笑され詰られながら尿をかけられたってきっと幻滅はしないだろう。むしろ、望んでつむじを彼の陰茎の下へと差し出すはずだ。  視界を奪うほどにきつい複眼に似た光の下、栗花落は瞳を閉じた。  今から抜歯が始まる。一番奥の、存在意義がひとつもないが、健康で丈夫な歯を割られ、そして抜かれる。この冷たい人の手で。 「麻酔をかけますからね。少しチクッとしますけれど、まあ一瞬ですので」  軽くうなずき、口を開ける。遠慮の無い動作で歯茎に針が刺さり、緊張感に欠けるきらきら星が流れた。麻酔薬がじわじわと粘膜に浸潤する様を夢想しながら、これもあの日の快楽と少し似ていると思った。根を伸ばすように広がる、麻酔薬。苦味が舌の脇に触れて、つい足が小さく跳ねた。 「大丈夫ですか?」  まったく心配してないような声音でそう問われ、なんだか面白かった。歯科医は歯茎に刺さったままの注射針をじっと見つめながら、ぽつぽつとマスクの中で声を吐く。 「栗花落さん、珍しい名字ですね」  ふぁあ、と間抜けな返事を返しながら、そういえばこの医師も変わった名字をしていたな、と思い出す。予約表に記されたその名が目を引いたのだが、何と言ったか。 「かく言う私も、“官能”なんていう名字でして。なんというか、変わった名字というのは、苦労しますね」  ああ、そうだった。官能さんだ。官能巽先生。初診の時、官能という響きが妙に似合う人だと、施術への説明を聞き流しながら納得したことを思い出した。泣きボクロも、潔癖そうなマスクの上で伏せられた目も、そう言われるとどことなく官能的だ。  抜歯。歯を抜くこと。この行為の重大さ、そしてリスク。かけがえのない大切な歯を、あのいかにも清潔然とした器具で抜かれてしまう。麻酔の苦みを舌で舐めながら、ぶるりと大きく体を震わせた。やはり、すごく、性的だ。  官能は栗花落の歯茎をぐにぐにと押し、麻酔のかかり具合を確かめる。 「これ、触っているのが分かります?」 「いいえ」 「そう。じゃあ、早速抜きますかね。……鮫島くん、補助」  受付の奥から、鮫島と呼ばれた青年が憮然と肩を怒らせながら歩いて来る。男の歯科助手は珍しいような気がした。彩度の低い、褪せた茶髪が衛生的で白々しい歯科には似つかわしくない。やってきた鮫島某の方を何気なしに見やり、思わず息を詰めた。  いつかの夜、汚いボロホテルの浴室でいやいやながら栗花落に尿をかけられて、あまつさえ陰茎を咥えられたあの青年だった。嫌悪と冒涜と情欲とを一晩にして味合わせられた、あのいたいけな。 「栗花落さん、鮫島君に見惚れず、まっすぐ向いていてくださいね」  顎を掴まれ、思いの外強い力で顔を固定される。気まずい思いをやり過ごす栗花落の顔をまじまじと眺め、鮫島は一人頷いた。どうやらあのカビ臭い浴室でのことを思い出したようだ。 「ああ、お久しぶりですね。……大きな口を開けると、唇が裂けますので、クリームを塗りますから」  ひやっとしたゲル状の潤滑油を唇の端に塗られてすこし怖くなった。そんなに大きな口が開けられるだろうか。顎関節症の気があるのだけど。 「心配しなくても、割と簡単に抜けるものですよ。じゃあ、口を開けていて下さいね。痛かったら、手を上げて」 「ふぁい」  いよいよ始まるか。ジェットコースターやお化け屋敷の順番待ちをしている時の気分だ。楽しみだけれど、やはり怖い。心臓がきゅうっと冷えていくような感覚。ああ、怖い。ああ、楽しみだ。 「少し押される感じがしますけど、我慢して」  ペンチに似た形状のぴかぴかした器具が栗花落の口内に侵入し、歯を掴む。そのまま官能は腰を上げ、渾身の力を込めて体重をかけた。少し押される、というかわいい言葉では済まされない圧力だ。てこの原理で抜くのだろうが、正直、抜かれる感覚うんぬんよりもこれが辛い。唇に思い切り器具が当たっているので、前歯の先で下唇の裏側が切れそうだった。  痛い! 唇の裏側が痛い!! 「鮫島君、唾液取って」 「はい」  じゅごごごご、という音と共に、おそらくは血と唾液だろう、体液がバキュームで吸い出されていく。壮絶なる圧迫感と唇の痛みに耐えながら、なんとなく、その器具で陰茎の先を吸われたらとてつもなく気持ちがいいだろうな、と考えていた。官能か、はたまた鮫島と関係を持てば、して貰えるだろうか。そんな邪な。 「根元が太いですね。栗花落さん、もう少しですからね」  よほど抜きにくいのか、官能はすこしだけ卑猥な言い回しをしながら片膝を診察台に乗り上げて更に力を強めた。返り血が医師の眼鏡に数滴、跳ねる。  めき、ごり、と聞こえてはいけないような破壊音を栗花落の耳に刻みながら、やがて官能医師がふっと力を緩めた。 「抜けた抜けた。ね、簡単だったでしょ? さ、軽くすすいで下さいね」 「ふぇあっ、ふぁい」  ようやく終わった。とても簡単そうには思えなかったが、医師が晴れやかな目をしていたので抗議はしなかった。曖昧に頷いていると、鮫島が頭をぽんぽんと軽く叩いてくれた。労いのつもりなのだろうが、なんとなく馬鹿にされているような感じも否めない。あの夜と違い、優位に立っていることが嬉しいのだろうか。  抜歯後の妙な余韻に浸っていると、丸めた脱脂綿を突っ込まれてとうとう処置が完了した。 「それ、親の敵のように噛み締めていて下さいね。中途半端に噛んでいたって、血は止まりませんから。それから、摘出した歯ですが、見ますか? ちょっとだけ割れちゃったけど」  見ますか? と選択肢を投げかけながら、ちゃっかりピンセットでつまんだ無残な歯を見せびらかしてきた。患者がうら若き乙女だったらどうするつもりなのだろうか。  最初のころと比べて官能が饒舌なのは、彼も興奮状態にあるからなのだろう。きっと、彼の職業選択は趣味を兼ねている。栗花落には判る。 「では、明日また消毒しに来て下さいね」  目礼をしてから冷たいユニット・チェアを下りる。すっきりとした顎を擦りながら、そういえば診察券を返してもらうのを忘れたなと、辞したばかりの診察室の扉を開けた。果たしてそこには、栗花落の歯を抜くために身を乗り出した時のように、椅子に片膝を乗せて反対側にいる鮫島の唇を吸う官能医師の姿があった。ああ、そういうことか、と納得して、今度こそ栗花落は官能歯科医院を後にした。  よく考えてみれば、医師の名は頭の中をまさぐらずとも、すぐそこに記してあった。思わず嗤ってしまう。ぽっかりと穴の空いた歯茎がどくんと脈打った。夜中に急患として治療をして貰ったのだが、なぜか時間外手当は含まれていなかった。代わりに、予約表と一緒に官能医師の名刺が挟んであって、裏側には小さく手書きで携帯番号が記入されていた。これはつまり、そういうことだろうか。               *   *   *           赤い部屋で体いっぱいに降り注ぐ蜩の声を、文庫本片手に呆然と聞いていたあの日、“抜歯”という性癖を手に入れた。  花崎が餞別に寄越した短編集、あのやわらかい瞼の女性が眠っている表紙の本の一作が、栗花落の根底を揺るがした。抜歯をテーマにした短編小説で、頁をめくる毎に鈍痛が増すような圧倒的すぎるほどの文章で、栗花落を消毒液の香る歯科のユニット・チェアへと落とし込んだ。  これほどまでに、“抜歯”とは人の最深部をまさぐる行為だったのか。改めて天啓を受けたような心持ちで、親知らずの鈍痛と、歯茎から沁み出る生臭い血と混ざり合う唾液とに思いを馳せては股間を膨らませた。  その小説の中で、主人公の女性は、“歯の一本一本には自身の体験した思い出が宿る”として、歯を抜くことによって記憶を抹消するという“儀式”を行っている。栗花落は妙に納得し、自身の奥歯のその先に存在を主張している親知らずを抜いてしまえば、いまだ燻る花崎への想いを廃嫡してしまえるのではないだろうかと淡く期待していた。  薄い手袋に包まれた無骨な指で、歯と歯をこじあけられ、隙間に手を入れられ、冷たくおぞましい器具が舌を押さえつけ、一番奥の、大切な、どれよりも丈夫で大きな親知らずを抜かれる。抜かれてしまう。大切な歯を、見ず知らずの人間によって。これ以上に濫りがわしい邪淫の行いを知らないような気さえした。それこそ、今までソドミーに耽溺していたことさえ、なんてことのない、ただの子供の戯れのよう感取してしまう。  抜歯こそがこの世で一番の性行為だ。抜歯は、処女の破瓜だ。虚偽の破瓜によって、初恋は消え去る。     悩みの歯は消え失せた。もうどこにもない。火傷のような失恋を刻みつけた花崎医師との思い出も、もはや文庫本ひとひらしか存在しない。その本に宿った思い出さえ、すでに栗花落が吸いつくし、今こうして昇華させてしまった。これで前に進める。  当面は官能医師と鮫島の二人掛かりで口内を淫猥にまさぐられ、昏い肉の穴を診て貰わねばならぬだろう。それが楽しみで、怖くもあり、期待で胸が張り裂けんばかりに疼いている。新たなる性癖が、今まさに頭を擡げ始めている。これは終わりの無い晩餐だ。永遠に続くお茶会のように、果てがない。正しくアリスの世界そのものかもしれない。一人ぼっちで競いあう、赤の女王仮説。性の飽食。 「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」  夏は完璧に死んだ。              

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