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晩餐【前編】

     東京の冬は寒いばかりで雪など降らぬのが常だと思っていたのだが、どうやら今年の冬はどこか狂っているらしい。傾いた西日が雪まで溶かしてくれたらよいのだけれど、これがなかなか。  足首の方まで到達する雪を蹴りながら歩き、栗花落は表情を変えぬまま、人知れずはしゃいでいた。履き潰して薄くなってしまった靴底を抜け、厚手の靴下まで冷たい水が浸入してくる。雪の筈なのに、あたかも浸水しているかのような有様だ。凍てつくほどの浸水。もうすでに足先の感覚は無くなってしまい、一体どこを歩いているのか、何を踏んで歩いているのかもよく分からなくなっている次第だ。  濃紺のマフラーにひりつく鼻をうずめて目を瞬かせる。雪粒が目に入った。目玉まで侵すのか、今年の雪は。  栗花落の頭の中は、淫靡な歯科医院のことでいっぱいだった。もうすっかり肉が出来上がってしまった親知らずの痕を舌でもごもごとなぞり、悩ましく眉根を寄せた。見慣れぬ白に染まった住宅街は、まるで知らぬ土地のよう。意味もなく子供のようにきょろきょろと軒先やら電柱に絡まる雪粒なんかを見回しながら、栗花落はのんびりと歯科に向かう。  定期検診と称した、診察。休診日に行われる秘密の処置。  歯を診られるよりも、下肢を触診されることの方が圧倒的に多く、むしろそれが全てだったのだけれど、泌尿器科でもあるまいに。ひにょうきか、という独特のニュアンスから、詩を諳んじる雇われ医師をふと思い出した。あの時の親知らずの痛みを思い出す。何もなくなったはずの、わずかに窪んだ歯肉が疼いたような気がした。  官能歯科医院はすっかり馴染みの場所となっている。院長の官能巽は三十路そこそこで独立したのだから、相当なやり手なのだろう。よく分からないが、大きな親知らずを抜いたにも関わらずこれといった後遺症もなく、驚くほど傷跡も綺麗に完治したのだから、そうなのかもしれない。栗花落はただの抜歯好きな素人だ。インプラントもブリッジも知らない。奥歯のインレーがセラミックだという事をついこの間官能医師に教えられたのだが、それがどういうものなのかもよく分からない。何も知らない。それでも抜歯だけは相変わらず好きで、レントゲンでもう一本親知らずが生えそうだと告げられたときには涙を流して喜んだ。そのうち、何の問題もない歯まで抜いてしまいそうで、自分でも空恐ろしい。  そして官能歯科医院にはもう一人、鮫島某という青年が勤務しているのだが、これがまた見かけによらず院長以上の曲者で、三日に一度は栗花落のぼろアパートに乗り込んでは困惑する栗花落を組み敷いて腰を振ったり、己の内部に栗花落の陰茎を潜り込ませたりしているのだから侮れない。それも、官能医師と鮫島との間にも体の繋がりがあるようだし、そして栗花落と鮫島の関係を官能自身も諾了しているようだし、なんとも爛れた絵図が出来上がっている。巷で言うところの、三角関係だ。  ひどく冷え切った、互いが互いに無関心の三角関係。爛れている。性の飽食は終わらない。たとえ夏が死んだとしても、春が生まれようとしても。          *   *   *       「栗花落さん、ちょっと歯を磨きすぎですね」  マスクを人差し指でくいと下げ、能面のように冷たい顔をした官能医師が言い放つ。ニコリともしない表情のせいか、なんでもない忠告のはずなのに妙に責められているような気になる。動作も機敏で、委縮する栗花落になど目もくれず返答も聞かず、奥歯のレントゲンを持ったまま奥へと消えてしまった。  ユニットチェアに取り残されたままなすすべもなく、ひとまず体を起こして口をゆすいだ。水に薄く溶けたマウスウォッシュがいつまでも舌に残った。 「先生は、ああ見えて潤くんのことを気に入っているんだよ」  こちらもこちらで手持無沙汰に器具を磨いていた鮫島がフォローするように笑った。ずいぶん親しげに栗花落を下の名前で呼ぶが、栗花落は彼の姓しか知らぬ。まるで弱みを握られているようで、少し気に食わない。 「そうですかね。俺には、よく分かりませんが」 「そんな。わざわざ休診日に潤くんの予約を入れるのは、君を待たせるのを偲びないと思ってのことなんだから。それに、いろいろとできるしね」  いろいろ、という発音が艶めかしい。わざとだ。目が笑っていない。  いつぞやのホテルでの純朴な鮫島はどこへやら、連夜の獣のような性を勝手にぶつけてくる彼の姿を知っていると、きりっと上がった口角やすらっとした鼻筋さえ、爽やかさよりも粘つく濃厚な卑猥さを感じさせる。  居心地が悪くなり、栗花落は首筋を摩りながら彼から目を逸らす。どうも、苦手だ。蛙の気分になる。鮫島が蛇で、栗花落が蛙。官能は洗練された孔雀か、はたまたベンヌ。美しい羽根を畳み、何にも侵されぬ気高き鳥。まるで信仰のようだ。夢見がちな思春期の少女でもあるまいに。  そして、花崎医師は――――。  は、と思考を閉ざす。もう忘れたはずなのに、巨大な親知らずと共にこの身から消え去ってしまったというのに、官能の手で、官能医師の手で。  得体の知れぬ口惜しさに拳を握るのと、背後の鮫島が右足を踏み出す微弱な気配と、引っ込んでいた官能が相変わらず冷たい表情で姿を現す三つの動きが重なる。ち、と鮫島が小さく舌を打つ音にぎょっとして振り向くが、彼は既にいつもの清々しい笑顔で官能に笑いかけていた。  短い言葉を重ねたのちに、官能は栗花落に向き合う。 「ご都合が宜しければ歯磨き指導などをしますが、どうしますか」  下げ調子の問いは有無を言わせぬ力強さで、居丈高に早くも新品の歯ブラシを開封している。はなから栗花落の都合など聞いていない。問いの姿勢はあくまでも建前。本音は、栗花落の口腔を侵略したい。それだけだ。栗花落には判る。同趣向の思考など、手に取るように判る。 「……お願いします」  すべては官能医師の采配のまま、玩具は持ち主には逆らえぬ。捨てられては困る。今一番の愉悦と悩ましい困惑を与えてくれるのは、この人である。 「くち、開けて、大きく。綺麗な舌ですね。口蓋垂も良い形だし、犬歯の尖り方も美しい。扁桃腺が大ぶりなのも好ましいです、かわいそうで」  普段冷たい官能医師が早口で饒舌に捲し立てる様は、毎度ながら圧倒される。この人は口腔に狂っている。いくらなんでも、好きすぎる。同意しているのかどうなのか、鮫島までうんうんと頷きながら栗花落の口の中を覗き込み、楽しそうに鼻を鳴らしている。狂っている。容姿を褒められるのとは全く別次元の賞賛に、栗花落は何も答えることが出来ない。 「白が映えそうな口だ」  鮫島がうっとりと呟く。先週、そういえば彼のザーメンと己のザーメンとを混ぜ合わせたものでうがいをさせられた。傾いた夕陽がまんまるで、燃えるように赤かった。  しかし、精液でうがいなど土台無理な話で、案の定栗花落は噎せて危うく呼吸困難で死ぬところだった。鼻にも器官にも臭い精液が入り込み、二進も三進も行かなくなった彼を、鮫島は心配するわけでもなくただ犯した。畳に擦れる膝が痛かった事も、いま思い出した。  アパートの側道を子供たちが駆けて行く、眩しい笑い声と靴音がいやに息苦しく思えて、栗花落は赤い部屋で喘ぐ。スクールゾーンの隣でこんな、壁一枚のこんな隣で。こんな。こんなただの薄いコンクリートに阻まれた同空間で、いわば見ず知らずの子供たちの隣でこんな。  ぼおっと呆けていると、しゃかしゃかと小気味のいい音が下方から聞こえる。すっかり歯磨き指導は始まっていた。 「ブラシを入れる角度は、斜め四十五度が最適です。栗花落さんの歯肉はそこまで強くありませんから、毛先が細くて柔らかいものを使ってください。ああ、血が。お疲れですか。疲れていると、炎症を起こしやすいですから」  淡々と、抑揚のない声の連なりが降ってくる。栗花落の本質になど一切興味がないのだろう。好意的に思っているのは、あくまでも栗花落の口腔に対してだ。たとえば、扁桃腺の摘出手術でも受けてしまえば、きっともう官能からは一切興味を示されないだろう。舌がもう少し薄くても厚くても、長くても短くても、きっとダメだっただろう。犬歯の尖り具合も、一ミリでも彼の好みとの差異があれば、それだけでこうした休診日の診療を受けることなど一生無かったに違いない。  しゃかしゃか、大の男が、同性に歯を磨かれている。指導だとか言っていたが、説明もなにもなくただ一方的に磨かれているだけだ。  営業時間内に診察を受けると、僅かにチェロアンサンブルのクラシック音楽が流れているが、休診日のせいか今日は無音だ。アリオーソやヴォカリーズに乗せて厳かに歯を磨かれるのも嫌だが、無音もまた居心地が悪い。しゃかしゃかと、磨かれている。  絶妙な力加減は、やはり歯科医の為せる技か、だんだんと眠たくなってくる。子供に返ったような錯覚。子供のころは親に歯を磨いて貰っていたのかもしれないが、記憶にない。とにかく歯磨きが嫌いだったことだけは覚えている。あれは、えずくからだ。今は、えずくのも嫌いではない。苦しいのも、どちらかと言えば好きだ。 「気持ちいいですか?」 「ふぁい……」  とろん、と微睡む。ふ、と官能医師が笑ったような気がした。目を閉じていたから確信はないけれど、確かに笑ったような気がした。空気が柔和に振動した。薄目を開けて伺えど、表情はマスクに隠れていてやはり判別できない。代わりに、鮫島のとろんとした目線とかち合った。鮫島に手袋を嵌めていない人差し指で口の端をぐいと引っ張られ、少し塩辛い、指の味を感じた。不快だった。 「潤くん、潤くんかわいい」 「……鮫島くん、唾液拭いてあげて」  ちら、と一瞬だけ官能医師が鮫島を見やり、すぐに興味を失ったように顔を背けた。その一瞬の間に、医師の冷ややかな眼差しが戸惑うように泳ぐのを視止め、栗花落は目を見張った。  栗花落の声帯が震えたのと、官能医院の電話が鳴ったのはほぼ同時だった。半ばベルに邪魔される形で、栗花落は出掛かった声を引っ込める。代わりに小指が僅かに震えた。行き場を失った声は小指に行き着くのか。 「せんせぇ、ワタルさんですけど、スキヤキの肉、いるかって。どうしますー?」  受付の奥で電話対応に励む鮫島が、受話器を抑えながら声を張った。語尾が伸びて、すこし可愛いと思ってしまう。いや、彼はもう栗花落の知っている純朴な青年ではない。すっかり性に取りつかれた、彼こそがインキュバスそのものだ。 「貰いましょう」  官能の瞳が輝く。この九割がた鉄面皮の彼でも、肉にはしゃぐのか。そしてスキヤキを食うのか。想像が出来ない。  鮫島は大きく「わかりましたぁ」と返し、また電話の向こうの誰かと問答を始める。 「今近くにいるから、持ってきますって」 「はあ。今日は本当は休診日なんだけど、あの人はいつまで経っても曜日が覚えられないみたいですね。栗花落さんの診察がなければ、玄関で肉を持ったまま立ち尽くしていたことでしょうね」  話題を振られ、栗花落は居心地の悪さを感じた。肉を寄越すその人物は、栗花落のまったく知らない人間だ。会話に引き入れられても困る。 「さ、大体は分かりましたか? もう力を入れて磨かないように。もっとも、それに快感を感じているのならば無理に止めはしませんけどね」  もうすっかり興味を失ってしまったかのように、官能医師はぞんざいに歯ブラシをゴミ箱に投げた。極端だ。もういっそ、口腔模型とでも結婚してしまえばいい。夜な夜な作り物の歯を舐めていればいい。  こちらを見るそぶりすら見せぬ医師に捉えどころのない憤りを感じながら、栗花落はわざと大きな音を立てながらうがいをした。ハンカチで口元を拭いながら、つまらなそうに手袋を嵌めたままの指を組み替える官能をねめつける。 「……俺、べつにこんなふうに休診日に特別診察して貰わなくても。今度からは、他の患者さんと同じように扱ってください」 「それは困ります。私は栗花落さんの口腔を、時間をかけてじっくり診察したいのですから」  よくもここまでしれっと言い放てるものだ。呆れと照れ半分で顔を背けると、奥でごそごそしていた鮫島がひょこりと顔を出した。 「先生、先に上がらせて貰ってもいいですよね」  いつの間にか彼は私服に着替えていて、ケーシー型白衣を着ている彼より幾分幼く見える。  ファーの付いたモッズコートと色あせたジーンズはいかにも学生然としているし、赤いチェックのハイカットスニーカーも彼によく似合っている。なんの躊躇いもなく赤チェック柄を選ぶ辺り、やはり鮫島とは合わないとも思った。嫌味がないが故に、よけいな劣等感を勝手に感じてしまう。栗花落は色落ちしたセーターを隠すように急いで一張羅のジャケットを羽織った。マフラーをぐるぐると巻く。 「会計済ませて、一緒に帰ろう?」  鮫島は、まるで女の子を誘うようにやわらかく笑った。これで真っ逆さまに落ちてしまう女の子もいるだろうけれど、残念ながら、彼はもはや男しか抱けぬ。栗花落がターニングとなった。前途有望な若者が一生を持ってしても気付かなかったであろう心の奥深くに眠っていたインモラルと途方もないサディズムを、何者でもないこの栗花落が揺り起した。 「いや、俺は……」  有無を言わさぬ力強さで手を握られ、引きずられるようにして歩く。そのままあれよあれよと財布を奪われ勝手に会計され、指を絡められ、横目でねっとりと視姦される。小さな甘い静電気が首筋を走って、びくんと身を竦める。  そういう視線に、よわい。陶酔してしまいそうになる。  このまま彼に引きずられていけば、いつものように体を暴かれ、揺すられ、気絶して一日が暮れるだろう。それも仕方がないかと無意識に諦めかけたところで、大股で先を歩く鮫島の足が止まった。 「あ、航さん」  件のスキヤキの君か。淫靡な交わりを目前にして俯いていた栗花落は、何気なしに顔を上げて絶句する。 「おやあ、誰かと思えば、お久しぶりですね、栗花落さん」 「は、なさき、先生……」  くらくらと目が回り、絡まったままの鮫島の指をぎゅっと握った。  一瞬にして蘇る、盂蘭盆を過ぎた夏の泌尿器科、埃を浮かび上がらせる光の矢、快楽に跳ねた足が蹴った椅子の感触、色、におい、空気、夏の。  親知らずの痕がしくしくと痛んだ。ねじれた恋慕は、歯根を伝って歯肉にまで浸透したのか。まるで東京の雪のように、靴下を侵す歩道の濡れ雪のように。  夏に会った時より、髪が伸びていた。やわらかそうな猫の髪がふんわり跳ねていて、それが彼の気質をよく表している。  花崎医師は、僕と鮫島の絡まった指をじっと見つめ、にやりと笑う。カッと頬が充血し、慌てて鮫島の手を振り払った。 「お邪魔しちゃったみたいだね。……巽くんは、中かな?」 「ああ、はい。たぶん診察室でぐーたらしていると思うので、どうぞ上がってください」 「どうも。またね、慶くん」  ひらりと振られる手は、栗花落には向いていない。眼中にないのか、それっきり何の言葉も生まれず、花崎医師は軽い足取りで診察室へ向かった。鮫島の名は、ケイというのか。まさか花崎医師にそれを教えられるとは、因果なものだ。  すっかり消えてしまった後ろ姿を名残惜しむように見つめる栗花落の指をくいと引き、鮫島は怪訝そうに首を傾げた。 「知り合いだったの?」 「え? ああ、いや、その、少しだけ病院でお世話になったことがあって……」 「ふうん。診てもらったんだ、性器」  いやな言い方をする。泌尿器科なのだから、当然のことだろう。  それにしても、奇妙なめぐり合わせもあったものだ。揃いも揃って、変態性欲を持て余しているだなんて。  病院を出ると、すでに夜一歩手前という日の暮れ様で、濃紺の空に憂鬱な気分になる。夜の雪の匂いがする。夜気に湿った夏草とは真逆の、冷たい匂い。  それにしても、鮫島と指を絡めている姿を見て、彼はどう思っただろう。あの笑みは、明らかに蔑視を含ませていた。栗花落の心にじんわりと黒い墨が垂らされる。寒い。なぜだろう、とても、寒い。墨が渦を巻きながら浸潤する。内巻きにうずまいて、ぐるぐると、マフラーのようにぐるぐると、内側に向かって渦を巻く。ミルクを垂らした珈琲。あれも渦巻きだ。眩暈のように体が傾ぐような、意識が体からすり抜けてどこかへと遠のいてしまう感覚。 「だいじょうぶ? もしかして、風邪でも引いた?」  額に鮫島の熱い手が押し付けられる。友達でもあるまいに、ベタベタと無遠慮に触れてくる鮫島にイラついて、叩き落とすようにしてその手を払った。 「それよりも、花崎先生は、ここによく来るの?」 「いやあ、よくってほどでもないけど。俺もよく知らないけど、官能先生と医大時代の同期らしくって。たまに高級な肉や酒なんかを土産に持ってくるよ。俺もそこからおこぼれをもらったりするんだ。官能先生は航さんをただの同期って言うけれど、俺からしたら立派な友人だよ、あれは」  栗花落にぞんざいに叩き落された手を嬉しそうに摩りながら、鮫島は人好きのする笑顔を浮かべた。 「官能先生、友達いたんだ」 「本人は否定してるけどね」 「ふうん……」  すたすたと歩きだした栗花落を追い、鮫島も一歩遅れてぽてぽてと後ろを着いてくる。まるで犬のようだ。ふと悪戯心でぴたりと足を止めると、鮫島も同じように足を止めて首を傾げた。まさに犬。鮫島という名を返上して、犬島姓と改めばいい。そういえば、必死に腰を振る様も犬そのものだ。漏れる嘲笑を、性格が悪いなと戒めつつ慌てて打ち消した。 「ごめん、鮫島くん。俺、ちょっと花崎先生に用事があったから」 「えっ、え、え……」  目に見えて狼狽する鮫島に一瞥をして、来た道を戻る。まさか彼が後を着いてきたらどうしようと思ったけれど、鮫島は数歩だけ栗花落の後を追い、やがてしゅんとしながら伸ばしかけた手を引っ込めて、己で慰めるように摩っていた。また手を叩き落されるとでも思ったのだろうか。奇しくもその手は、先ほど栗花落が叩いたほうの手だった。 「潤くん……」  かなしそうな声は無視する。そこまで落ち込まれるとなんだか可哀想な気もするけれど、鮫島はすぐに増長して大柄になるから、これで良いのだと納得する。あれは明らかに、暴力を振るタイプの人間だ。いわゆる、DV。目覚めさせたのは、やはり栗花落に他ならないのだけれど。           官能医院が遠目に見えてきたころ、大粒のぼたん雪が降り始めた。さして長くもない睫毛に雪が乗り、栗花落は忙しなく瞬きをする。目薬もこのように固形にすれば、二階だろうが三階だろうが点すことができるのではないだろうか。でも、さすがに固形を高いところから落として眼球に点せば、さすがに痛いだろうか。取り止めの無い戯言の海に沈みながら機械的に足を動かす。ぐもぐもと雪を踏み、同じく前方から聞こえてきたぐもぐもという足音に顔を上げた。デジャブだ。 「おや、また栗花落くんですか」 「……」  何も考えず、勢いに任せて後戻りしてみたけれど、彼と対峙して何を伝えたらいいのか分からない。軽率な事をしてしまったと後悔がちらりと浮かんだが、花崎医師は相変わらずの柔和な笑顔で栗花落の腕をやさしく取る。悪魔のささやきを耳に吹きかける。 「おいしいお肉、ごちそうしますよ。先生のおうちに来なさい」  子供に言い聞かせるような言い回しをするくせに、問い方はぴしゃりと強気でこちらの意思など窺ってはいない。良くも悪くも花崎医師と官能は“同類”なのだと思い知った。        

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