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晩餐【後編】

     *   *   *        てっきり高級マンションにでも住んでいるのかと思っていたのだが、花崎家は新規開拓された住宅街でぽつねんと、隣家に埋もれるようにして建っていた。周りがほとんど積み木のおもちゃのような家なのに対して医師の家は今では珍しい純和風の平屋で、独特の翳りを帯びていた。漆喰の壁に、カナメモチの生垣に切妻屋根。表札は出ていない。  車一台分の駐車スペースに国産の高級車を駐車し、まるでエスコートするようにして栗花落をわが家へ引き入れる。門灯が自動で灯り、少し驚く。 「おじゃまします……」 「そんなにじろじろ見られると、恥ずかしいですね。男やもめですから少々散らかっていますけど、見て見ぬふりでお願いしますね」  照れたようにはにかむ医師に頷き、びしょ濡れのスニーカーを脱いだ。土塊ひとつ転がっていない玄関が、栗花落のせいで早くも汚れてしまった。なんだか申し訳ない。  玄関の靴箱の上に文庫本が二冊投げてあり、彼らしいと思った。文庫本片手に朝支度をし、名残惜しげに玄関に置いて出る。そんな彼の日常が伺えた。 「では、私は夕飯の準備に取り掛かりますから、栗花落くんはその辺りで適当にくつろいでいてください。書架を漁っても構いませんよ」  リビングに通され、くつろげと言われて本当にくつろぐ人間はいないだろう。栗花落は落ち着かない気持ちで言われた通り書架に収められた本たちの背表紙を眺める。  詩集に、エッセイに、分厚い全集。映画のムック本まで綺麗に仕舞ってある。炬燵の上にも数冊の文庫本が投げてあり、これはいつでも読み返したい部類の本なのだなと気付いた。綺譚集と、萩原朔太郎。それと古い映画の批評本。彼が大好きな、三冊。 「スキヤキ、お好きですか?」  本をぱらぱらとめくっていると、キッチンから声がかかった。 「あ、好きです。……俺も手伝いましょうか?」 「結構ですよ。出来たらそちらに運びますから、ゆっくり待っていてください」  そう言われれば、待つしかあるまい。それにしても、彼は料理をするのか。一人やもめだし、それもそうか。彼女は、いないのか。婚約者は。彼ももう三十路を過ぎているわけだし、収入も大いにあるだろう。容姿も良いし実年齢よりも若く見える。柔和な雰囲気も好ましいし、服だってシンプルだが仕立ての良いものを着ている。彼と結婚したい女性だって、掃いて捨てるほどいるだろうに。  考え始めるとぐるぐると止まらなくなり、手持無沙汰に読んでいたノヴム・オルガヌムを繰る指も止まる。文章を追っているはずが、目が滑って内容が全く頭に入らない。 「ベーコンは、絵の方により興味をそそられます」  頭上から声が降り、驚いて肩が大きく跳ねる。ベーコン、ともごもご呟くと、花崎は栗花落の手の中に収まっている文庫を指さした。フランシス・ベーコン。読んでいる最中だというのに、栗花落の頭の中には真っ先に美味しい方のベーコンが思い浮かんでいた。それを悟られまいと、ああはいベーコンですねと何の意味も持たないうわごとを返す。花崎が笑う。栗花落は俯く。弁明する。 「……俺はすこし前まで、フランシス・ベーコンという人物は、絵も哲学も説くのだと思っていました」 「同一同名ですからね。私も初めて美術館で画家の方のベーコンの絵を見た時、混乱したものです」  負を一身に纏ったかのようなインノケンティウス十世を前にして佇む彼を想像して、声を漏らして笑った。きっと彼はその時、迷子のような顔をしていただろう。 「ふふ。恥ずかしいですから嗤わないでくださいよ。さ、鍋を持ってきますから、本を退けておいてくださいね」  素直に返事をして炬燵の上に積んでいた本を片付ける。そういえば、画家の方のベーコンも歯に執着していた。奇妙な符号がとぐろを巻く。内側に、内側に。ぐるりと巻いていく。  天板の上を布巾で綺麗に拭き終わると、見計らったかのようにくつくつと音を立てる鍋が運ばれて来た。鍋敷きの上に置かれたそれは、彼の宣言通りスキヤキだった。豆腐が美味そうに震えている。 「つくづく、醤油とみりんと酒の三種の神器には、頭が上がりませんねえ」 「はは、そうですね。俺もそう思います」  楽しげに湯気を嗅ぐ花崎はずいぶん幼げに見えて、好感が持てる。 「近江牛ですよ。地元の友人が誕生祝に贈ってくれたんです」 「は、あ、という事は、今日が誕生日で……?」 「そういうことだねえ。今日で三十六歳! あと四年も経てば、四十路よー?」  先生、こう見えてもうオジサンなの。と、わざとらしくしなを作る。  そう言われると、なんだかおめでとうも言いづらい。女性ではないのだから別に歳なんて気にしないだろうけど、一応気は遣ってみる。友人ではないのだから。かつての主治医と、患者なのだから。 「燗。萩乃露。近江の地酒なんだけど、これが美味しいんだよ」  ずいと突き出されるは蛇の目猪口。下戸ではないので素直に受け取り、ぐいと煽る。美しい銘柄とは裏腹に、思ったよりも辛い。けれど、米特有のうまみと甘味もきちんと残っていて香りも良い。燗でこそ映える酒なのではないだろうか。空腹に酒が沁みる。ほう、と吐き出した息が生ぬるく、酒臭い。 「はいはい、もう一杯」 「先生、もしかして料理しながら呑んでいましたね?」 「味見だよ。味見はね、重要だから。栗花落くんのこともー、味見しちゃったね、そういえば」  ため息が出る。肝心のスキヤキを食べる前からこれでは、先が思いやられる。栗花落はへらりと笑う花崎から目を逸らし、鍋をつついた。 「美味しいですよ」 「そ、良かった」  白滝が好きなのでそればかりごっそりと取る。酔っぱらいはさして気にしていない様子で、はふはふ言いながら豆腐を食している。 「美味しい?」 「美味しいですよ」  さっきも言ったような気がするけれど。夢中で白滝を啜っていると、席を立った花崎が覆いかぶさるようにして背後から腕を絡めてきた。ぎょっとして取り落とした肉が、ぽちゃんと呑水に落ちる。 「な、ど、どうしたんですか」 「いーやー、べつにー」  楽しそうに首筋を嗅がれ、鼻をこすり付けられる。まるで犬のようで、いつもの柔和で穏やかな彼とはイメージが違う。酒が入るとこうなるのか、この人は。 「本当に久しぶりだよねえ、夏以来。僕が君を引き留めなくて、どう思った?」 「え……っと」  一人称も、“私”から“僕”へと変わっている。 「少しは、寂しいと思ってくれたかな。少しは、僕に何かを期待してくれていた?」  古傷をえぐられた気分だ。それも、治りかけのかさぶたを無理やりはがされるような。じゅくじゅくとした傷口が、傷を拵えた本人によって力任せに暴かれる。  栗花落は抵抗しようと身を捩るが、なかなかうまくいかない。それどころか、より一層体をきつく抱かれて息苦しささえ感じる。酒のせいで体も熱く、だるい。 「今までは子供同士みたいなお触りばっかりだったけど、今夜、もっと恥ずかしいこと、しよっか」  耳に息を吹きかけられ、耳朶を熱い舌で獣のように舐められる。低い笑いを含んだまま耳を食まれ、じゅっと吸われる。呼吸が乱れる。 「うぁ、そ、そんなこと……!」  しませんよと言い切る前に、顎を掴まれる。爪が食い込んでとても痛い。 「君もそのつもりで着いて来てくれたんだと思ってたんだけどなあ」 「あれは、明らかに命令口調だったようにっ、思えますが……」 「そうだったっけ」  熱い舌が耳から顎を通り過ぎて、ようやく唇まで到達する。思わず息を飲んだその一瞬を見計らったように、花崎の舌が栗花落の唇を舐める。ひん、と情けない声が漏れた。 「ちょっと膝立ちになってくれますか?」  拘束が解かれて腕を引き上げられる。医師に命じられるとついつい応じてしまうのは、元患者の性か。大人しく言われた通りに膝立ちになるとベルトに手がかけられ、あっという間に引き抜かれてしまった。 「えっ、え、あの、あの、すきやき……」 「食べるよ、食べるから、大人しく射精して下さいね」  なんだそれはと思う暇もなく、下着ごとズボンをずり下ろされ、垂れた陰茎を右手で扱かれる。いきなりのことで、跳ねた膝が炬燵の天板を蹴った。ガチャンという食器のぶつかる音にハッと我に返る。分が悪い。動けない。 「相変わらず、散々弄り倒しましたっていうペニスをしてるんだね。気持ちいい? 久しぶりの僕の手は、気持ちいいですか?」 「あ、っは、はぁ、あ……」  口を塞ごうとするけれど、止められる。ねちねちと陰茎が嬲られる。すでに知っている弱点を突くように鈴口を爪先で引っかかれると、もはや抵抗する気も失せた。 「栗花落 潤。綺麗な名前ですよね。それがこんなに下品な子だなんて、まさかカルテを見た時には気付きませんでしたよ」 「あっ、せ、せんせっ、やめ、やめて……っ」  乱暴な手つきで何度も何度も扱かれ、気が遠くなる。太股が震え、ひざ裏に汗が溜まるのを感じた。炬燵布団が足回りに纏わりついてもどかしい。熱い。暖房が煽る。呼吸も熱い。酒が香る。 「あ……ッ、く、や、りょ、料理にかかっちゃうからっ」 「かけてください。僕が友人から貰った祝いの品に、射精してみてください」  どうして。悩む思考を無理やり攪乱させるように強く扱き上げられ、栗花落は辛抱の甲斐なく吐精した。案の定、呑水に取り分けていた食べかけのすきやきに精液がかかり、箸までをも汚した。とてつもない罪悪感やみすぼらしさに苛まれて目頭が熱くなった。 「な、なんで、こんなことっ……」  振り仰いで花崎の顔を見るが、彼は満足そうに笑むだけで答えてはくれない。栗花落の充血した瞳からぽろりと零れた涙の粒を指で掬い、嗚咽にわななく唇に塗りこめる。そしてようやく、口を開いた。 「さあ、食べてください」 「……え?」 「あなたのザーメンに汚れた料理。食べてください」  衝撃が走った。鳥肌がぶわりと立ち、酔いも一気に醒めてしまった。この期に及んで、まだそんな辱めを、そんな非人道的な、むごい事を―――――。 「いやです、ぜったいに、嫌だ!」 「食べなさい」  ぐっ、と言葉に詰まる。命令口調には、弱い。  精飲に耽溺した時期もあったけれど、それをこの人に強要されるのは、すこし違う。怖い。純粋な恐怖が襲いくる。  新しい涙の筋を残す栗花落にわざとらしくため息を吐き、花崎は精液でぬめる箸を器用に使って白濁が糸を引く肉を摘み上げた。 「くち、開けて」  無言で首を振ると鼻をつままれた。本気だ。花崎医師は、冗談ではなく本当にしてみたいのだ。ザーメン塗れの料理を、栗花落に食べさせてみたいのだ。  ぷは、と息継ぎに開けた口に肉が押し込まれる。吐き出そうとするが、すぐに口を大きな掌で塞がれて叶わなかった。 「ぅぐ、うう、ううっ……」  涙が浮かんでは零れ落ち、花崎の手を濡らした。彼の手首をひっかくが、全く意に介していないようで、ただ冷淡に吐き気を堪える栗花落を見下ろしている。 「はい、噛んで。十回噛んだら、飲み込まずに私に見せて」  何が楽しいんだか。  一人称も戻っているし、正気なのだろう。正気がこれとは、よけいに性質が悪い。  口の中がぬめっている。考えたくもない、白い粘液と、唾液と、甘辛いスキヤキの味。肉の舌触り。全てがない交ぜになって、渦巻く。 「うっ、ぇ……ッ」 「吐かないでね。吐いたら、それごと食べさせますよ」  言っていることは滅茶苦茶なのに、花崎はいつものようにやさしげに微笑む。楽しげに、少し自慢げに詩を諳んじる時と同じ笑みで、栗花落を苦しめる。そのあまりの倒錯感に、栗花落の股間は知らず知らずの内に熱を持ち始める。  恐る恐る、僅かに口を開けて肉を転がす。奥歯の上に乗せて、渾身の力でそれを噛む。力を籠めないと今にも嘔吐してしまいそうだからだ。噛みしめると、じゅわっと牡臭く甘辛い味が広がり、一層臭いも沸き立つ。吐き出したくて唾液ばかりが溢れる。 「今ので、一回だね」  まるで子供を褒めるかのように、ゆるりと頭を撫でられる。その手はやさしいのに、相変わらず口を押さえつける手の冷たいこと。 「美味しいですよね?」  こくこくと頷く。また涙がじわりと滲む。  どうしようもないから、また顎を上下させる。二回、三回……、無心で顎を動かす。肉の味も、スキヤキの味も、精液の味もよく分からなくなってしまった。ぬるぬるした肉を十回噛み終わったところで、ようやく口を塞いでいた手が外される。えずきそうな感覚と、胃の底がねじれるような強烈な嘔吐感を必死にやり過ごす。ふぅふぅと荒く鼻で息をして、咀嚼したものを彼に見せるために栗花落はボロボロと泣きながら口を開けた。 「うん、よく噛めたね。飲み込んでいいよ」  許しが出たところで、こみ上げる吐き気とともに肉を飲み込んだ。はぁはぁと息を荒げ、わななく唇を手で拭った。気持ち悪い。気持ち悪いけれど、栗花落はたしかに興奮していた。 「……栗花落くん、やっぱりかわいい」  火照る眦を丁寧に拭われ、優しく口づけられる。今の一連の変態行為で、花崎の心に巣食う“何か”を満たせたのだろうか。 「せっ、せんせぇ……」 「うんうん、よく頑張ったね。じゃあ次はこの豆腐、食べようか」  そしてまた精液のこびり付いた箸で、同じように精液を纏わりつかせた豆腐のかけらを器用に掬い上げる。ぬとっ、と豆腐からザーメンが糸引き垂れる。栗花落は目の前が暗くなるのを感じた。          「あ、あッ、んぁ、せ、せんせっ、せんせぇ……っ」  必死に炬燵の天板を掴み、後ろから犯される衝撃に耐える。お尻に挿入てもいい?と耳朶を嬲られながら問われたとき、すこしの間隙もなく、嬉しさと高陽でこころすべてが欲情色に弾けた。腰骨を掴まれ、男の硬くなった性器で直腸を突き上げられる。指が白くなるほど力を入れて天板に縋りつくけれど、前かがみになるとすかさず花崎の手が伸びてきて、顎を持って引き戻されてしまう。苦しくてもがくと、その分花崎は歓んだ。 「栗花落君、自慰でイク時、いつも息を詰めてるんじゃないですか。無意識に呼吸、止めてますよ」 「はっ、は、ぁあ、あっ……! くる、し、……っ」  顎を掴んでいた手がするすると下りてきて、無遠慮に首を押さえられる。喉仏にグっとと力を入れられると視界がちかちかと眩んだ。酸素を求めて大きく開けた口に、またザーメン塗れの肉が押し込まれる。 「もっ、もぉッ、いらないっ、ゆる、許して……」  首筋に花崎の荒い息がかかる。胎内で暴れる熱も、出たり入ったり、摩擦で無理やり快楽を引きずり出される。亀頭で何度も前立腺を捏ねられ、足が引き攣れたように伸びて爪先が震えた。やりきれない快感が土踏まずを熱くさせる。 「ぅん……ッ、あ、はっ……! イク、イキますっ、イキますッ……!」 「ん、どうぞ……」  背中にぴったりと覆いかぶさって、花崎は腰を強く打ち付ける。肌と肌がぶつかる音がこんなにも卑猥だなんて。栗花落は唇から精臭い唾液を垂らしながら太股を痙攣させて、過去最高の絶頂に上り詰めた。長い射精は炬燵布団や天板を汚して、ようやく止まった。 「ああっ、はー、はっ、ぅう……」  鼻をすすりながら泣きじゃくり、胎内を圧迫していた熱が引き抜かれる感覚に耐える。ずるりと引き出されたあと、涎に汚れる顎を掴まれ、顔に向けて射精された。  せめて一言くらい言ってから出してくれとは思ったけれど、喋る元気は残されていない。まだ奥歯の上には飲み込めなかったスキヤキの肉が残されており、仕方がないので花崎の精液と一緒に飲み込んだ。狭い食道を押し広げながら嚥下していく感触は、つい今までの性交を想起させる。 「美味しかったですか?」  花崎は別段悪いとも思っていないという調子で、乱れた髪をかき上げて笑った。いつもの柔和な笑顔ではない、それは支配欲に満たされた雄の獣の顔であった。栗花落は睫毛の先から垂れる精を指で弾き、黙ってうなずいた。  きらいではない。こういうのは、きらいではない。  だけれど、頬を伝う涙は一体どういうことなんだろう。むわっと香る精液を洗い流そうとするかのように、涙がぽたぽたと零れて止められなかった。花崎はそれを怪訝そうに見下ろしながら、ひとつ、ため息を吐く。  嗚咽する栗花落に手を伸ばしかけ、やめた。行き場を失った手で頭を掻き、すっかり冷めきってしまった鍋を見やる。深々と降り積もる、珍しい雪と泣きじゃくる青年を前にして花崎は途方に暮れていた。  それこそ、新緑の美術館でフランシス・ベーコンの絵を前にした時と同じ種類の困惑だった。  

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