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エス【前編】

 覚束ぬ足取りで路地を抜けて大通りへと出た。朦朧としている。胃の中の肉を思い出す。舌の上にはまだぬめった体液が纏わりついている気がして、何度も咳払いをした。尻の奥もおかしい。落ち着かない。据わりが悪い。  霧状の雨が漂っている。降っているというよりも、微かにふらふらと漂っている。傘は必要なさそうだ。信号機の赤も青も、宝石のようにキラキラと浮かび上がる。六角形の光の筋。幾重にも折り重なる光暈に知らず知らずのうちに溺れていくようで、怖くなってすこしだけ呼吸を止めたけれど、すぐに息苦しくなってやめた。  細かい雨粒を透かす、イエローベリルの光を思わせるきらきらしたヘッドライトが夜気に薄ぼんやりと浮かび、走り去っていく。通りは少ないが途切れない。一定の間隔で、色も分からぬ車が栗花落の傍を通り過ぎて行った。スニーカーの布地に冷水が染み込む。ぐじゃぐじゃに濡れた靴下からいやな音がする。冷たい。溶け始めてはんぶん水になってしまった雪を豪快に踏み付けてしまったのだ。記憶の扉が開かれる。冷たい踵に誘発される。  遠い昔、夏祭りの会場で迷子になったことがあった。金魚の尾のように浴衣の帯を靡かせながら、黄昏の裏路地を彷徨っていた。太鼓の音が腹の底で響き、かき氷のカップを片手に焦燥を抱いて屋台の隙間を駆ける。右へ左へきょろきょろと目線を動かしながら母親を探す。ついさっきまで母のぬくい手に繋がれていたのに、既に持て余した左手が冷たい。氷のカップを不安げに握る右手と同じように凍えていた。蒸し返す夏祭りの夜、顎に滴る汗と冷えた手の極限までに相反する温度差に喉が詰まる。泣き出したい気持ちが咽喉につっかえる。  人がごった返していて、歩く傍から誰かにぶつかり、誰かに押され、誰かに舌打ちをされた。こんなにも人がいるのに、独りだ。幼い栗花落はよろめいた拍子にかき氷を路にぶちまけ、そのままぐじゃりと踏んでしまった。母親に買ってもらったかき氷。檸檬味の、きらきらした氷の粒。  遠く哀切に満ちた思い出を踵や濡れた靴下や歩道の濡れ雪と共に追想して、漏れ出たため息が薄く凍った。記憶はやるせない。呼気に混じった雄臭さに惨めさが募る。迷子になって泣いていた子供はもういない。ここにいるのは、男の精液を舐めしゃぶっては愛を渇望する、憫然たる影だ。          乱れた服のまま床に転がり息を整える栗花落を見下ろしながら、花崎は『送っていきますよ』と宣った。右手にはすでに車のキーが握られていたが、慌ててそれを制した。 「先生、お酒飲んだでしょう」 「あ……、そうでした」  バツが悪そうに頭を掻く花崎にため息を吐いてみせ、未だ収縮する後孔をそのままに身支度を整えた。一礼をしてから家を出ると、雪は止んでいたが夕刻よりもずっと冷え込んでいた。もう一度、花崎が『徒歩で送っていきます』と栗花落の手首を取ったが、振りほどいて恨みがましく彼を見上げ、すぐに視線を逸らした。 「女子供でもあるまいし、結構ですよ」 「でも、その、体はだいじょうぶですか?」 「……心配されるほどのことでもありません」 「そうですか。悪いことをしてしまいましたね。……すみません」  花崎は栗花落の皺になったマフラーを巻き直してやり、『気を付けて』と言って見送った。軽く肩を押される。追い出すという風ではなかった。行き場の無い言葉を選び続けている栗花落を逃がすように、押しやったのだ。促されるままたたらを踏むように数歩もつれ、背後で閉まる扉の音を聴いた。かちゃんと、静かに閉められる。その分厚い扉の向こうで、花崎はもう踵を返しているだろうか、それともまだその場に留まったままだろうか。栗花落はそんなことを女々しく考えながらとぼとぼと長い帰路に着いた。  それにしても、花崎はああいう人だったのか。確かに、以前軽い戯れに興じた時も少し意地悪だったが、普通の範囲とも言える程度のものだった。射精を遮られるとか、明確な刺激を与えられぬまま観察され続けるとか、そのようなことだけだった。それがどうして。いや、あれが彼の本性なのだろうか。酒のせいだけではあるまい。後半、彼の意識はしゃんとしていた。  人柄と育ちの良さが伺える穏やかな瞳は形だけで、その奥はどこまでもギラギラしていた。赤い舌で餓えたように口元を舐め上げる仕草も、栗花落を混乱させた。栗花落の中で構築された花崎のイメージとはどこまでもかけ離れているのに、哀しくなるくらい小慣れていて、それが彼の“常”なのだと思い知らされた。似つかわしくないけれど、様になっている。彼に染みついた恒常的な仕草なのだと知った。そのくせ、仕舞にはこちらを本心から気遣い、そして謝罪をするのだ。謝られてしまった栗花落は、困惑するばかりでどう返していいのか分からない。  なぜ花崎は自分を家へ招いたのだろう。そして、肉を食わせたのだろう。そして、なぜ犯したのだろう。ぐるぐる、ついさっきまでの交接が脳内を駆け、眩暈がする。精に塗れた牛肉の味を思い出す。ぬめる箸で掴まれた豆腐の柔らかさを思い出す。ねとねとしていて、ぬるぬるしていて、それを舌の上で転がしながら、狭い孔を押し広げられて――――。 「栗花落さん?」  ハッとした。よく見知った声と背丈。上等そうなコートと濃紫のマフラー。つやつやした革の手袋。眼鏡のレンズに雨粒が一滴付いていて、それがやけに気になった。 「官能先生。どうして……」 「煙草を切らしたのでコンビニへ。ほらそこ、医院の裏が自宅になっているんですよ」 「ああ……」  いつの間にか官能医院の近くまで帰ってきていた。花崎宅を辞してから四十分余り経っていたのだが、その間中ずっと花崎の事を考えていたことになる。ぐにゃりと表情が歪む。 「どうしたのですか、こんな時間に。花崎の家に行っていたのでしょう、車で送って貰わなかったのですか」  相変わらずの下げ調子の問いに、やっぱり責められているような気分になる。官能に他意はないのだろうが、その冷たい声が余計に尋問っぽさを引き立てているように思う。 「先生は、お酒を飲んでいましたから」  官能は驚いたように僅かに眉を上げた。 「珍しい。普段なら、食事時に酒は飲まない人なんですけどね。……よほど、酒の力を借りてでもやりたい事があったのでしょうかね」 「……」  言葉に詰まる。まるでお見通しだと言わんばかりの言い方だ。それにどう言葉を返せば適切なのかと懊悩し、視線をふらふらさせる栗花落の姿に口の端を上げて笑う。 「……まあそれは良いとして、これからおうちへ帰るところですか」  頷く。官能の能面のような顔から“おうち”なんて可愛らしい単語が出てきた事に多少ビクついたが、黙っておいた。官能が飄々とした様子で歩き出したので、栗花落も慌てて後を追った。家路はこちらで合っているが、果たしてコンビニもこっちの方向だっただろうか。  官能は腑に落ちない表情を浮かべながらも小走りで後を付いてくる栗花落を一瞥すると、そういえばと言葉を繋げた。 「食べましたか、近江牛」 「え? あ、ああ、はい……」  今も胃の中でザーメンと共に消化されている最中だろう。いやな事を思い出させる。 「美味しかったですね」 「ええ、まあ。……官能先生は、料理をされるのですか」 「いやまさか。鮫島くんに作らせました。今頃彼は、テレビを見ながらアイスでも食べているんじゃないですかね」 「鮫島くんが……?」  あの軽薄な彼は今も官能宅にいるのか。コンビニへ煙草を買いに行く官能医師の帰りを大人しく待っているのか。なんというか――――。 「勘違いされるとイヤなので断っておきますが、私と鮫島くんはそういう関係ではありませんからね」  想像していたことを釘を差すように否定され、栗花落は口ごもる。 「全く何もないわけではありませんが、いわゆる恋仲だとか情人だとか、そんな気色の悪いものではありませんので」 「そう、なんですか?」 「そうですよ」  そうなのだろうか。全く何もないわけではない、というのがどの程度のものを指しているのかが重要なのではないだろうかとも思ったけれど、人のことは言えない。栗花落だって花崎とは何もないわけではないけれど、恋仲というわけでもない。情人でもない。なるほど、そういうことか。 「それよりも、あまり鮫島くんを邪険に扱うの、やめてくれませんか? あの子はすぐに落ち込みますから」  官能にしてはずいぶん優しい事を言う。面食らっていると、不服そうに薄い唇をゆがめられた。 「そのせいで、貴重なプライベート時間を邪魔されるのはいつも私なんですから」 「……別に、邪険にしているつもりはありませんけど」 「あなたにそのつもりが無くても、実際、鮫島くんよりも花崎を優先したでしょう?」  優先したとかそういうことではない。ただ、ただ久しぶりに会ったから――――。  胃の辺りがむかむかする。たとえば、あのまま鮫島に引きずられるまま帰宅していたらどうなっていただろうか。どう、とは。ならば今は、今はどうなっている? 何か変わりがあっただろうか、花崎に会い、何がどうなった。わからない。先の一連の行為が、栗花落と花崎の関係を少しでも変えただろうか。  鮫島が官能に泣き付く姿を想像してもイライラする。栗花落の前で感情たっぷりに尻尾を振るくせに、構ってもらえなければ官能に縋りつくのか。そして二人で、栗花落の話をするのか。自分のあずかり知らぬところで、二人きりで。栗花落を話の肴に、官能は鮫島を甘やかすのか。もやもやする。気に食わない。どろどろと黒いものが胸の中でとぐろを巻く。いけない兆候だ。黒が内側に向かってとぐろを巻き始めた時は、いつも決まって自棄になってしまう。偏頭痛の兆候のように、渦巻きはエゴに失望を知らせる。そして超自我が、必死に黒を打ち消そうとするのだ。なんて虚しいんだろう、本能に狂えたらどれほど楽だろうか。  ――――失望。栗花落ははたと気づく。鮫島と官能に失望したのだ、先の一瞬に。二人に何を望んでいたのか。それはおそらく、二人にもっと自分を見ていてほしい、いや、見ているはずだという希望を抱いていたのだ。気付いた瞬間、栗花落は身の毛がよだった。おぞましくて烏滸がましい。自惚れにもほどがある。 「まあ、邪険にするなと言った後でなんですが、私も鮫島くんはあまりお勧めしません。特に、栗花落さんのような人には」  鹿爪らしく横目で断言され、慌ててナルシズムを打ち消して歩を速めた。考え事をしていると、どうにも歩調が乱れる。  官能はずれてもいない眼鏡を几帳面に直し、言葉を選びながらも滔々と語り始めた。栗花落の歩調なんてはなから気にしていない。ホッとした。 「あの子は、熱心すぎます。そのくせ不安定で、ふらふらと一貫性がない。子供の延長です。全てを白か黒かで分けようとする面もありますし、それを疑ってもいない。そして誰もがそうだと思っています。執着すると、こうです」  官能は顔の横で立てた両腕を前に突き出した。猪突猛進を表しているらしい。  歩調が緩やかになる。いつしか二人は隣同士に並んでいた。 「鮫島くんは男とは幸せになれない。今は少し、脇道に逸れてしまっただけです。そのうち、きっと、あの子はなんでもない顔をして、いつしか当たり前のように女性と幸せを掴むでしょうね。本当に、なんでもない顔をして」  冷淡を張り付けた顔が、ふっと寂しそうに翳る。拗ねたようにも、落胆したようにも見えた。置き去りにされたような、むしろ突き放したような――――。  決して、官能が鮫島に恋慕していたということではないだろう。気を揉んでいた問題児が我が手から去り、見事に己だけの力で更生していく達観を得たのではないだろうか。官能は鮫島を可愛がっている。真っ当な道に戻れるのならば、それは喜ばしいことだろう。しかし、もう常識は戻っては来ない。境界線は濃く、深い。背中など見えないほどに遠くへ行ってしまう。置いて行かれるのか、放逐するのか、どちらにも取れる。受け取り方は様々だ。官能もまた、鮫島に失望したのだろう。一心に見詰め続けてほしいわけではないけれど、よそ見をされると苛立ちが募る。承認欲求は誰にでも存在する。  ――――特に、栗花落さんのような人には。  先のことばを反芻する。暗に、お前と鮫島は根本が違うのだと言われているような気がした。おまえに更生などあり得ない、栗花落に用意された真っ当な道など端から存在しないのだと、官能は識っているのだ。  不思議な連帯感を感じる。官能医師もまた同じく同調を感じているはずだ。我々のような除け者と、鮫島は違うのだと。そうでなければ、言葉の端に寂寥感など滲ませない。  それっきり、会話を失った二人のあいだには車の走行音ばかりが行き交う。眩しい。夜なのに、光がこんなにも明滅している。信号も、ヘッドライトも眩しい。官能医院のロビーに置いてある、クリスタルビーズのハイドロカルチャーを思い出す。きらきらしたビーズの合間から植物がうねうねと伸びているのが不思議で、そして美しくて、気に入っていた。あれは鮫島が飾ったのだろうか、それとも官能が? ぼんやり連なる夜の光に目を眇めていると、歯科医が優雅に首を傾げる。 「栗花落さんのおうちは、ここからまだ遠くにあるのですか」 「あと十分程度ですかね。その前に銭湯に寄ってから帰りますが。風呂、無いんで、うち。安いアパートですから」  風呂なし共同トイレの安アパートの隣には、古ぼけた銭湯がある。普段はコインシャワーや大学のシャワー室を利用しているのだが、生憎コインシャワーは二十時には閉まってしまう。時刻は優に二十二時を回ってしまったので、日付が変わるまで開いている銭湯に行くしかないのだ。四百六十円。それさえ惜しく感じてしまう。恐らく、目の前の歯科医には想像もつかぬことだろう。  案の定、大して興味無さそうに『そうですか』と上辺ばかりの相槌が返される。  コンビニはすぐそこだ。てっきりそこで別れるものだとばかり思っていたのだが、官能はコンビニの看板に目もくれず、ずんずん進んでいく。 「あの、先生? 煙草は……」 「帰り道でいいですよ。私も行きますから」 「は? え、どこに……?」 「銭湯へ」  なぜ。   

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