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エス【後編】

      *   *   *        ぱくぱくと湯気を食べていると、官能に目線で咎められた。別に悪い事はしていないはずなのだが、気圧されついスミマセンと小さく謝ってしまった。小学校の修学旅行のとき、同じように湯気を咀嚼していると担任に怒られたことがあった。ふと、思い出した。  ザーメンをがぶ飲みしようと、本質はあの頃から何一つ成長していないのかも知れぬ。夏祭りの思い出だって、考えてみれば今現在もずっと迷子を続けているようなものだ。もしかしたら、この先も――――。  がらんとした銭湯に、大して仲の良くない、親しくもない歯科医と二人きり。湯気ばかりがもうもうと立ち込めてやるせなさばかりが募る。 「銭湯には生まれて初めて来ましたが、なかなか良いじゃないですか。気に入りました」  眼鏡をかけていない官能からは多少険が抜け、好ましいと思う。しかしそれでいてどこか物足りなさを感じるのだから、眼鏡と言うアイテムはつくづく不思議なものだ。いつもは細い銀のフレームでちらちらと見え隠れしている泣きぼくろが惜しげもなく晒されている。気持ちよさそうに閉じられた睫毛に湯気の粒がきらきら付着していて、朝露に濡れる若草を思い起こさせた。  どうしてだろうか。まるで官能を崇拝しているかのように叙事めいた印象ばかりを連想してしまう。  この人は、綺麗だ。  綺麗だからこそ、余計に怜悧な印象を与えるのだろう。高嶺の花という言葉がこれほどまでにしっくり和合する人は早々いまい。  花崎はもっと柔和だ。とびぬけて顔が整っているというわけではないが、優しそうで柔らかい物腰は随一だ。官能と花崎は対極にもほどがある。それが旧知の仲というのだから面白い。 「それよりも、鮫島くんが心配してるんじゃないですか? コンビニへ出かけて何十分も戻らないのだとしたら、とても不安だと思うのですが」 「彼には後で事情を説明するので、大丈夫です」  後で説明しても無意味な気がするのだが。この医師、冷たい顔をしてあんがい天然なのかもしれない。  湯に浸かりながら肩をほぐす官能のこめかみを水滴が伝った。あれは汗だろうか、それともただの湯の雫だろうかなどと考えながら、ぼんやりと見つめる。あまりにも見つめ続けていると、官能が居心地悪そうにこちらを睨んだ。視力が悪い上に湯気で余計に周囲が見え辛いのだろう。険しい顔でこちらを睨み続ける。  しばしの見つめ合いののち、栗花落はばかばかしくなって目を逸らした。官能も顔を背けるのが気配で分かった。子供のようだ。  伸びをして、やはり相も変わらず花崎の事を反芻する。途端、胃の辺りがずしりと重くなった。まだ、ここにある。臓腑の中に、胃の中に、彼の精液がある。胃液と混ざっている。 「うっ……」  想像すると酸っぱいものが食道をせり上がった。慌てて口元を抑えて雑念を払おうとする。  考えるな、考えるな。しかし、そう念じるほどにどんどんいやな想像と嘔気が喉元からこみ上げ、何度も咳き込んだ。精飲なんて何度も何度もしてきたのに。今までは気持ち悪くなんてならなかったのに、飲酒後の入浴による急激な体温上昇、水圧による臓器圧迫、眩暈がして関取の壁絵が渦を巻いた。 「げほっ、うえ゛ぇ、きもち、わる……」 「ちょっと、大丈夫ですか?」  浴槽から身を乗り出して嘔吐(えず)く。異常を察した官能が面倒くさそうにざばざばと近づいて熱い手で背中を摩ってくれる。熱い手が、爪が食い込むほどに栗花落の腰骨を掴んでいた花崎の手を連想させ――――。  お゛え゛ぇぇ、と情けない声と共にすき焼きを吐いた。 「ちょ、ちょっと栗花落さん……!」  官能がぎょっとして手を引っこめた。それはそうだ、誰だってそうする。驚く。嘔吐は、汚い。 「ごほっ、すび、すみませ……ッ」  謝罪を述べるそばから嘔吐き、咳き込む。  見られた、見られた、見られた――――。  栗花落は何度も頭の中で“見られた”を唱える。裸を見られるより、後孔を拡げて観察されるより、吐瀉物を見られるほうがずっとずっと恥ずかしい。目頭が熱くなる。さらさらとした水のような洟が垂れる。唾液と涙が混ざり、先は官能のこめかみを見て汗か湯かと訝しんでいたのだが、それと全く同じ状況に自分が陥っているのだと思い、倒錯した。これは唾液か涙なのか。汗なのか。それとも湯なのか。  まだ胃の辺りがむかむかする。内臓がひっくり返っているかのように痙攣して、咽頭が悲鳴を上げる。犬のように舌を出し、そこから唾液が玉を作りながら幾重にも引いては落ちて行くのを呆然と見下げる。こんなにもどこから唾液が出ているのだろうというほどに出続け、だんだんと気持ちが悪くなってくる。悪循環だ。 「なんだかもったいないですね、せっかくの近江牛なのに」  官能はしれっと的外れなことを口の中で唱えながら、しげしげと栗花落の吐瀉物を見る。まるで検分するかのように。やめてくれと悲鳴を上げたかったが、代わりに出たのは汚らしい嘔吐きだけだった。 「栗花落さん、すき焼きの他に何を口にしたんですか……?」  カッと頬が赤くなる。分かったのか、バレたのか、あれが、精液が。  ぐるり、視界がマーブルに歪む。カタカタと音が鳴る。壊れた映写機のような音、フラッシュバックする炬燵での性交。ザーメン塗れの夕食。箸がそれを掴む。ねとりと糸を引く。唇に当たる。ぬめっている。温い。甘辛い。そして塩辛い体液の味。  もう一度、体中の力を振り絞って嘔吐した。胃の底が裏返しにでもなってしまいそうだ。喉が切れる。 「ハァッ、ハァ、ハ、うう、ううぅ……」 「……大丈夫ですか?」  全く心配していない声音で気遣われ、泣いた。どう思っているだろうか、官能は今、背を丸めて嘔吐をする姿を見て、何を思っているのだろうか。そればかりが気になる。 「よほど変なものを口にしたんですね。どうですか、それだけ吐けば多少は楽になったでしょう」  脂汗でこめかみに張り付いた短い髪を梳かれる。繊細な指先だけはひたすらに優しいのに、勝手に“楽になった”と断定され、憤慨する。官能は断定的な物言いしかできない。栗花落はいつもそれに流され、つい肯定してしまうのだ。  官能は、カランから汲んできた水をなんの予告もなく栗花落の頭上から浴びせる。ヒギャ、と潰れたような声を張り上げると、医師は愉快そうにニヤリとした。 「さっぱりしたでしょう」 「し、心臓発作を起こしたらどうするんですか!」 「その時はその時です」  ため息が漏れた。体力を消耗してぐったりとする栗花落の顎を取り、親指を歯の間に差し入れて口を開けさせる。 「ふぁ、ふぁに……?」 「口の中、見せてください」  相変わらず眇めた目で口内を上から下から覗かれ、戸惑う。また彼の病気が始まったかと好きにさせていたが、犬歯の辺りをうろうろしていた親指が次第に奥歯の方へ近付くにつれ、にわかに焦り始める。 「……ッ、へんへ、おく、いれすぎ……!」  いつもは薄いニトリル製の手袋に覆われているので、今日初めて官能の素手の味を知った。  無遠慮だが慎重に侵入する指に対して舌で抵抗するが全く意に介さず、最後には噛んでやったが、それをもものともせず奥までぐいぐい押し入ろうとする。  たまらず泣きながら腕を掴んだけれど効果は薄い。何を考えているのか知らないが、冷たい瞳が栗花落の咽頭を熱心に観察している。震える口蓋垂を視線で嬲る。わななく舌を悪戯に指で撫でる。  湯気の向こうで官能が静かに興奮している。切れ長の瞳の中で、ギラギラとした炎がチラつく。イドを見せつけられる。 「う、え゛ぇ゛……、ひゃ、ひゃめて、また、またはきそお……」 「それを期待しているんですけどね」 「へっ!? な、なんれ……」 「なんでも。……残念、もう出ませんか」  官能はつまらなそうにパッと手を離すと、さっさと湯船から出て行ってしまった。熱い湯船に一人取り残された栗花落は暫く放心していたが、すぐに我に返ってその後姿を追った。なぜ、なにが、今の間にいったいなにがあった。  胸がどきどきしている。見たかったのか、官能は。栗花落が嘔吐する姿を。  先生がそれを望むのならと濡れた指を二本、喉奥に突っ込んでみた。しかし、やはり馬鹿みたいに唾液がだらだらと流れるばかりで空っぽの胃からは何も出てこなかった。まるで出来損ないにでもなった気分だ。望まれているのに、嘔吐を望まれていたのに、応えられなかった。  頭の芯がぼおっと熱く、膨張してぶれる。くらくらする。もう一度指を咥えてみたが、やはりもう何も出ては来なかった。そうしたところでふと我に返り、一体自分は何をやっているのかとゾッとしてしまった。望まれれば、そう望まれたのなら嘔吐するのか。  まるで何かに憑りつかれた気分だ。自分で自分が分からなくなる。制御ができない。イドばかりが先行する。何を考えているのかもよく分からない。  分からない事ばかりだ。自分のことも、官能のことも、そして花崎、鮫島――――。  倒錯するばかりの夜に、しかし栗花落は確かに高揚していたのだった。  イドが暴走する。      

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