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穢れ【前編】
あの日から、頭の中まで湿気ってしまったような気がする。いつまで経ってもびしょ濡れのまま、銭湯に取り残されているような心地で、栗花落は目の前のコロッケをただ茫然と見つめていた。
田舎からの仕送りで生活をしているいま、贅沢はできない。元より、食に頓着しない性格だ。目の前の皿に同じステーキを出され、高い肉と説明されれば美味いと感じるし、安いぼろ肉だと言われれば、なんとなく美味しくないかな、と感じてしまうような、そんな鈍感な感性と舌を持っている。とりあえず腹が膨れればなんでもいいと、ほぼ毎日、同じ店の同じコロッケを買い、それと米だけを無心に食べている。
今日も、昨日と一昨日と同じコロッケを前にして、冷や飯のよそってある茶碗を左手に持っているのだが、いまいち右手で箸を取る気にならない。食欲が、まるで無いのだ。
(ああ、ちがうな。昨日は、コロッケじゃなくて、メンチカツだった)
奮発した記憶を思い出し、頭の中で誰にするわけでもなく弁解する。
昨日までは、ふつうに食欲はあった。珍しくコンビニでホイップが乗ったプリンを買って、食後に楽しんだ。
昨日と今日で何がちがうのか。地続きの日々で、何が変わったのか。
官能歯科医院からの電話。官能巽医院長みずからコールした電話を取った、あの時から栗花落のからだは完璧に作り替わってしまった。
『もしもし、栗花落さんの携帯電話でよろしいでしょうか。わたくし、官能歯科医院の官能、と申しますが……』
電話越しでも、相変わらずの硬質めいた声で語尾を下げて伺いを立てる官能医師の声に、スマートフォンに当てた耳がぞわりとする。こころから身震いした。
内容は、ただの予約日の確認だった。明日が休診日なので、そろそろ検診に来なさいとの案内で、医師の声に耳を痺れさせたままの栗花落は、あいまいに返事を返した。ああ、はい、いえ、はい、は、ええ……、他人にでもなった気分で、同じようなことばを返す自分を俯瞰していた。もはや何を聞かれ、何を答えているか分からないまま、事務的な通話を終え、その直後にその場ですこしだけ嘔吐いた。受話部の無数に空いた穴から、嘔吐したあの銭湯の湯けむりが染み出してきているのではないのかと想像してしまうほど、栗花落は耳から鼓膜から肺の奥にいたるまで、霧のように広がる塩素臭に溺れ果てた。
「う、げほっ、……」
胃の底から急激に吐き気が込み上げてきて、栗花落は玄関から飛び出て、アパートの共同トイレに走った。あまり衛生的とは思えない水洗トイレの便器にしがみ付いて、酸い胃液を吐く。ずっと、官能の声と冷たい表情が耳から頭から消えなくて、痺れた舌には、医師の指の味がふいに乗る。心臓がどきどきと暴れ、舌を突き出すようにして喘いだ。
なぜだろう、官能を思い浮かべると、心臓がぎゅうと痛くて、胃がひっくり返ったようにそわそわと落ち着かなくて、どうしようもなく吐き気がするのだ。
翌日、栗花落は歯科検診をすっぽかした。何も食べる気がしなくて、官能医院に行かねばと思うと、いてもたってもいられないほどの不安に陥った。電話をして、行かない旨を伝えようとは思ったのだが、電話口に官能の声が聞こえようものなら、正気を保てないほどに取り乱して泣きわめいて、嘔吐する自信があった。
そんな想像をするだけで縮み上がって痙攣してしまう胃のあたりをさすり、湧いて出てくる唾を何度も何度も繰り返し嚥下する。
官能医師に激しく嘔吐している姿を見られた時、栗花落はどうしようもない羞恥に駆られ、そして興奮してしまった。汚いものを、あの美しく気高い官能医師に見られ、あまつさえ奥歯の奥の奥にまで親指をつっこまれ、嘔吐を期待されたことに心が飛び跳ねてしまった。それが、ゴム毬のように四方八方に暴れるものだから、栗花落自身もすっかり感情を持て余してしまっているのだ。
見られたいけれど、見られたくない。
みっともない姿を引き出してほしいのに、そんな姿を、美しい官能の前に曝け出したくない。
尿臭い浴室で二律背反に苛まれていた、はじめて出会った頃の鮫島も、今のような心境だったのだろうか。それなら少し悪いことをしてしまったなと思う。この感情は、当事者になってみると、とてつもなく苦しい。
「潤くーん、いるー?」
布団の上でまどろんでいると、無遠慮にガチャガチャとドアノブが回される。尾を引く眠気に抗いつつ眼をこすり、枕もとのスマートフォンを手繰り寄せた。十八時すこし前。ぼおっと白霞む頭が、鍵の差し込まれる音を認識する。
「上がらせてもらうよ。……潤くん、寝てるの?」
「ん……。あれ、仕事は?」
我が物顔で合い鍵を使い入ってきた鮫島に、栗花落は仕方なく起き上がった。頭を掻き、腹を掻く。
暦は三月に入ったのだが、いまだ春の兆しは見えぬ。鮫島も冬のコートを着込み、寒そうに両手をこすり合わせている。暖房もない部屋だ。呼気も凍る。
「今日、休診日だよ。少し、買い物してきた。どうせ、ろくなもをの食べていないんでしょ?」
ディスカウントストアの袋を掲げ、小首をかしげる。透けて見えているのは、青菜と、卵と、牛乳。あとは、三個パックの緑色をした柔らかいゼリー。
「……ありがと」
「潤くん、どうして検診に来なかったの? 待ってたのに」
勝手知ったるふうにそれらを小さな冷蔵庫に仕舞いながら、鮫島が問う。しばしの間が空き、べつに、というあいまいな返事を返した。栗花落のそっけない態度にも慣れたもので、別段気にしてないような素振りでいる。
「……官能先生と、待っていたの?」
「まあね。……気になるの?」
べつに、と同じように返した。一瞬だけ交わった視線に、冷たいものが混じっていたような気がして、居心地の悪さを覚える。
「潤くんこそ、この間、航さんの家で何をしていたの?」
思わず、無意味になぞっていた指の動きを止める。
ワタルサン、という声の連なりが、一瞬、それが花崎医師のなまえであることに直結しなかった。鮫島と花崎医師は、互いの事を『ワタルサン』、『ケイクン』と呼び合う間柄で、それもまた栗花落に一瞬の思考の間を授けるのだ。どうしてそんなに親し気なのか、と。
「なにって、べつに、スキヤキ食べて……。それから、帰って……途中で官能先生に出会って、一緒に銭湯に行って……」
「仲がいいんだね」
感情のこもっていない声で、まったく羨ましそうでもない声音でそう冷たく言われてしまうと、怖くなる。まるで悪いことをしているような……。悪いこと、なのだろうか。特定の相手を作らず、鮫島と医師と医師の間でふらふらと、絶妙に距離感のある関係をつないでいる。
そんなことは、と小さく声を漏らし、頭を振った。
冷蔵庫を物色する鮫島が無言で料理の準備をしている音を、背中に聞いて気まずい間をやり過ごす。
「……、何か、作るの?」
「うん。潤くんは、何がいい?」
「ハンバーグ」
「それは……、無理かな。たまねぎもパン粉も、肉もないし。また今度、一緒につくろ。チャーハンでいい?」
無言を肯定と受け取ったらしい。きっと端からメニューは決めていたはずなのに、一応はリクエストを聞いてくるところが、すこし面倒に感じる。恋人でもあるまいに、恋人ふうの雰囲気を出してくるところが、鮫島のきらいなところだ。
ちらりと様子を窺うと、セーターを腕まくりしている鮫島の姿が目に入った。あの細く長い指が、執拗にからだをまさぐり、暴き立てることを知っている。花崎の追い立てるような意地悪い執拗さとは別次元の、発情した犬のような執拗さ。短く切られた爪を切る時、栗花落の狭い穴のことを考えているのだと聞かされたのは、つい最近のことだ。
休日に街頭でスカウトされ、読者モデルをしていることも、ついこの間知った。赤茶けた髪を現代的にセットし、女の子の羨望を一身に集める彼が、垢ぬけない栗花落に執心していると世間が知れば、きっと仰天するだろう。
あの鮫島君が、こんな野暮ったい大学生に。
そんな架空の声を想像し、栗花落はため息を吐きながら布団をたたんで隅に避ける。避けた布団の先、毛羽立つ畳に、ぽつんと小さな染みがひとつ。これは、拭き忘れた精液のひとしずくだ。丸一日放置していたら、こうなってしまった。跡になり、布団をたたむ栗花落の毎日を、鮫島は知らないうちに穢す。穢している。爪を切りながらも、想像で穢している。
ハムを刻む後姿の、空気を孕んだ髪の毛の造作に胸がきゅっと締め付けられる。
「潤くん、卵、割ってくれる? ふたつ」
「んー、うん」
「……割れる、よね?」
「たぶん」
困ったように微笑まれ、さっと視線を逸らす。
割れない、ことはない、と思う。たぶん、二回に一度くらいは成功する。裏を返すと、二回に一度くらいは、失敗するのだけれど。
「だいじょうぶだよ」
不安げな鮫島を尻目に、卵を手に取る。かっかっと狭いシンクの縁に打ち付け、慎重に割り開く。
「で、きた……」
「すごい! 潤くん、すごいよ!」
ばかにしているのか、と言いたくなるほど大げさに喜ぶ鮫島にうなずき、もうひとつ手に取る。
かっかっと小気味いい音と、くしゃりとした破壊音が同時に混ざり合った。
「あ」
「あ~、残念」
力加減が強すぎたせいで潰れてしまった卵の中身が、ステンレスを伝う。無駄だとは知りつつも、あわててそれを掌で追った。どろんとした透明な白身と、でろんとした潰れた黄身とが、シンクはおろか、栗花落の手まで汚す。
しゃがみこんで、床を汚そうとする潰れた卵を、滴る前に両手を器にして受け止めた。おろおろと泳ぐ視線は、助けを求めるようにして鮫島に行きつく。
すっぽりと彼の陰に入り、見上げた先の鮫島は、赤い顔で眉根を寄せていた。
「鮫島く、ティッシュ……」
「……」
布巾を取るわけでもなく、呆然と息を荒げるだけの鮫島が、すっとかがむ。陰が引く。視線が正面からかち合い、いやな予感に怯む。
「潤くん、すごく、……えっち」
え、と思う暇もなく、卵白にぬるつく手をきつく握られ、口付けられた。
「ん、ぅん、ん~……っ」
異常なほどに熱い舌で口の中がいっぱいになり、唸ることしかできない。両手を絡め取られ、すり合わせられる指と指の間で、粘つくとろみがねちねちと音を立てている。泡立ってしまいそうで、鮫島の卑猥な指の動きを止めようと力を入れようとするが、敏感な指の股と股同士が合わさり、腰のあたりがぞわりと震える。
この部屋の物の配置と同じくらい、勝手知ったる栗花落の性感帯。合わせる唇が、ふっと笑ったような気がした。下腹が重くなり、もっと触ってほしい、もっと舐めてほしいと、快楽に身もこころも委ねたくなる。
「んぁっ、待って、手、やだっ」
息継ぎの隙を見計らって口を放すと、同じくとろついた唾液が下唇からたらりと垂れた。鮫島の舌なめずりに、唾液の糸が切れる。
「ぬるぬるしてる」
唇を大きな舌で舐められた。ぬるぬるしている、とは、唇のことなのか、絡められたままの指の事なのか、栗花落にはわからない。
卵白まみれの鮫島の親指が、はぁはぁと大きく呼吸する唇の隙間から、奥歯の方にまで侵入してくる。反射的にその指を舐め、はっと我に返った。
「潤くん、かわいい」
うっとりと呟く鮫島は、瞳を細めてしあわせそうに笑う。薄いピンク色の唇から、白い犬歯が見えた。尖った犬歯に、抗えないほどの野生の色気を感じてしまう。
身を乗り出すようにして唇を合わせてくる鮫島を拒むすべはない。すっかり唾液にまみれた唇がじんじんと熱と痺れを帯び、栗花落の貞操観念を崩す。
勢いで尻もちをつき、膝立ちの鮫島を見上げるような形で深い口づけを受ける。必然的に、唾液も栗花落の方へと一方的に流れる。何度も喉を鳴らして、それを飲んだ。頭の芯がぼんやりとぶれる。
いつも乱暴で執拗な鮫島に辟易することはあるものの、決して嫌いというわけではないのだ。二人きりで性の戯れに興じている時以外は、とてもやさしくて、不覚にもドキリとする瞬間が多々ある。紳士だし、気配りもできるし、困っている素振りを見せる前に察して救ってくれるような、いいひと。
「潤くんは、誰がいちばん、好きなの?」
「え……」
目が泳ぐ。てらてらと光る鮫島の薄い唇が、歪む。
「俺は潤くんが一番だけど。たぶん、潤くんは俺のこと、一番どうでもいいと思っているんじゃない?」
「そんな……、違う、よ」
「俺と付き合ってよ。俺だけを見て、俺とだけ一緒にいて」
いいひと、だけれど、鮫島はやはり危険だと思う。
甘くとろけるような桃色のマスクの下は、煮えたぎるマグマだ。
官能は、銭湯への道すがら、『鮫島は脇道に逸れているだけ、いつか何食わぬ顔で女性との“本物のしあわせ”を掴むだろう』と表していたが、果たして、鮫島はまだ、その地点にとどまっているのだろうか……?
本当はもう、彼こそ後戻りのできない、性衝動と愛憎の坩堝にはまり込んでいるのではないのだろうか……?
力強く握られたままの手首から、宙をさ迷う指先を通って爪の先からつうつうと糸引き、床に垂れ滴る卵白。
ああ、また、穢れの染みが、こんなにも……。
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