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穢れ【後編】
* * *
はじめて、栗花落が検診に来なかった。
官能はアスファルトを革靴で踏みにじるようにしながら歩き、栗花落のアパートの前まで来ていた。花咲く前の三月の夜、気温は冬のように低く、怒りにも似た嘆息が白く浮かんだ。
いつもは『明日が休診日なので、検診に来てください』と伝えると、怯えと期待のこもった瞳で、おずおずと休診日の札が掛かった歯科医院の扉をノックするのに、連絡すらなく彼は来なかった。
今日は口の中をどう弄ろうか、いっそ歯列矯正の金具でも嵌めてやろうかと計画していたのに、そのすべての愉しみが無となり消え失せた。“約束”という不確かなものに対してドライだという自覚がある官能が、控えめなノックの音を数時間も待ち続け、何かあったのではないかと心配までする有様だ。
同じく、退屈そうに栗花落を待っていた鮫島はしばらくケータイをいじり、上がりますねと帰ってしまった。平素なら『どうして来ないんでしょうか、事故にでもあっているのでは』と率先して医院の外にまで見に出かけるというのに、いやにあっさりしていると思ったら、どうやら連絡を取り合いアパートにまで押しかけているようだ。鮫島の表情は豊かだ。隠しているつもりなのか分からないが、暗い炎を宿した瞳でケータイ画面を見つめていたので、気が付いてしまった。
銭湯で激しく嘔吐した栗花落をアパートまで送ったことがあるので、場所は知っていた。送ったとは言っても、アパートは銭湯のすぐ隣であったし、朦朧とする栗花落を適当に部屋に転がしただけなのだが。
今にも崩れそうな安アパートに、インターフォンなどある筈がない。ドンドンと扉を叩くが、中でもがくような音がするだけで反応はない。官能はズレてもいない眼鏡を中指で押し上げ、再度扉を叩いた。先よりずっと、苛立ちを込めた音が響く。
「はい、はい……!」
「こんばんわ、栗花落さん」
扉を開けた栗花落が、瞳を見開く。ぽかんと空いた唇が赤く充血しているのが、やけにに目に付いた。
「官能、せんせい……」
「鮫島君も来ているのですね」
小柄な肩越しに、鮫島が居心地悪そうに首を摩っている姿を見止め、小さく息を吐く。
「栗花落さんがいらっしゃらないのでお体でも悪くしているのではと心配して来てみたのですが、どうやらお邪魔だったようですね。気が利かず、すみません、ではこれで」
「あ、あの……!」
つっけんどんに答えながらさっと踵を返すと、去ろうとする手を栗花落の熱い手に掬い取られた。
「なんですか」
「あの、俺、……今日は、その」
バツが悪そうにしどろもどろに瞳を泳がせる表情に、なおのこと得も知れぬ感情が湧いてくる。予感が的中した苛立ちと、気まずいような視線を疎ましく思う感情と、すこしの依怙地。まるでのけ者にされた子供のような疎外感さえ感じているかもしれない。
「別に、いいですよ。強制ではないのですし、弁解などなさらなくても」
払うようにして掴まれたままの手を振ると、傷付いたように表情が歪んだ。
「せんせ……、おれ、う、」
こぽ、と空気の上がってくる音。目を見張る間もなく、目の前で栗花落が嘔吐した。
「ぉえぇ……ッ!」
喉元を押さえて、形ばかりの玄関の冷たいコンクリの上で、びしゃびしゃと。
「つゆ、りさん……?」
「や、見ないで、先生。ぅ、きたなぃ……、みら、見られたくないっ……!」
「潤くん……!」
鮫島が駆け寄ってきて、栗花落の痙攣する背中を撫でさする。ひどく心配しているようで、眉根は寄って眉尻はかわいそうなほど下がりきっている。手が汚れるのも厭わず、栗花落の手を握って落ち着かせようとしている姿を目の前でまざまざと見せつけられながら、官能は胸に込み上げる高揚に小さく身震いした。
見ないで、と泣きじゃくる顔と、饐えた匂い。あまりごはんを食べていないのか、吐瀉物はさほど多くはなく、水っぽい。胃がやられているのか、胃液の匂いがきつかった。
「せんせ、すみませ……! こんなの、見せ……」
「あ、ああ。いえ。やはり具合が悪いのですか。熱はありますか」
「だいじょ、ぶ……、うぅッ」
また、言葉の合間にこぽ、と空気の音がする。官能は唾を飲んだ。
ぐぐ、と喉が震え、背中が痙攣する。一拍置いて、荒い息をぜぇぜぇと繰り返す姿をしっかりと目に焼き付ける。
「潤くん、一度うがいしよ。ね?」
鮫島は甲斐甲斐しく背中をさすりながら、身を縮めて吐き気を堪える体を労わるように先導した。なおもびくびくと胃の収縮により痙攣する背を見送りながら、おとなしく言われるがまま介抱される栗花落に、思わず「介抱なら私が」と口走りそうになり、慌てて言葉を呑み込んだ。
なにをやっているんだ、私は。
一人でにパタンと閉まる、うすいうすい木製の玄関扉の向こうの水音を聴きながら、官能は天を仰いで熱い息を吐いた。
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