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花腐し【前編】

 なるほど、と鹿爪らしく頷いて見せる花崎医師はその実、なにも分かっていないのではと勘ぐってしまう。春はまだまだ当分先で、花の香りすらしない銀色の冬がいつまでも尾を引いている。暦はもう三月を終えようとしているのにこの気温、時折かさばる降雪、みぞれや濡れ雪。栗花落は相変わらず毛玉の浮いたセーターを着て、新調した野暮ったいフレームの眼鏡を所在なさげに押し上げる。触診台に寝転がりながら、そわそわと花崎医師に魔が差すのを待っている。 「それにしても、巽くんの声を聞くと具合が悪くなる、ですか……」 「姿を見ると、メシを戻します」 「ふぅん……」  いっそ興味すらなさそうに見える。ふぅんと再度頷いて、花崎はつるりとした顎を中指で撫でた。その動き。中指のかすかな動作にぼうっと見惚れる。暖房があつい。待合室で座っていた時から触診台の上にいたる現在まで、ずっと熱に浮かされている気がする。 「慶くんは?」  医師の指が降りてきて、セーターをたくし上げる。かすかに触れた指先はざらついていた。相変わらず自炊をする日々なのだろうと察した。すこし安心する。 「鮫島くんは、ぜんぜん平気です。……、ただ、戻したものの処理を何度もさせてしまっているので、申し訳なくてここ最近は顔を合わせていないんですけど」 「彼はすきでしょう。そういう世話を焼くのは」 「そ……、うですかね。そうかな……」  心当たりは大いにあるが、肯定してしまうとひどい自惚れ野郎になってしまうような気がして曖昧に否定をした。本当はこころのどこかで、『こいつは喜んで嘔吐物を掃除する奴なのだから、むしろ慈善的嘔吐をしてやっている』という意識があるのかもしれない。分からないけれど、もちろん栗花落にはそんなつもり、ひとかけらだってないはずなのだけれど。けれど、第三者に『本当にその意識はないのか』と詰問されれば、口ごもってしまうかもしれない。  こんな話がある。殺人事件の目撃者が逃亡する犯人について供述するシーンだ。目撃者はえらく自信たっぷりで、犯人の特徴について実に多くの証言をしてくれた。容貌はもちろんのこと、仕草や逃走経路に到るまでそれはそれは如実に。しかし、すべてを語り終えたのち、警察官に『それは本当ですか?』と確認されると、途端に自信を失ってしまい、ひどく曖昧な調子で『たぶん』と答えたのだ。もちろん、目撃者が意図的に虚偽の証言をしたのではない。たしかに、警察官に確認されるまではすべてのビジョンが目撃者の脳内に正確に浮かんでいたのだ。それがただ一言、真実かと念押しされただけで揺らいでしまう。ひととはきっと、そんなものだ。自分の見たもの感じたものは他者にすぐ揺さぶられる。そして栗花落もまた、そんなものだった。  押し黙る栗花落を一瞥して、冷たい指がベルトにかかる。 「すこし、痩せましたね。そんなに吐いてばかりいるんですか?」  片手で器用に栗花落のチノパンを寛げながら、もう片方の手は薄い腹をいたわるように撫でる。ひやりとする。この男は燃えるような瞳をしながらも冷え性か。 「……っ、電話が、かかってくるんです。官能先生から。取らないわけにはいかないので一言二言やりとりをして、吐いてしまうのでそのまま……」  切っちゃいます。 「切っちゃったんだ。へぇ……。このあいだ巽くんの機嫌が最高に悪かったけど、もしかしてそれが原因かな。きっと彼のことだからしつこくまたかけ直してくるんでしょう。用件を聞き届けるまで、何度でも」  他人事のように嗤いながら同時に脇腹を浅く押され、ひん、と犬のような声が出た。 「出しますよ、性器」 「は……、い」 「定期検診ですよ。あなたは擦りすぎてすぐに炎症を起こすんですから、いいですね」 「はい……っ」 「二週間後にまた、私に性器を見せに来るんですよ。わかっていますね」 「……ッ、は、いっ」  熱に浮かされる従順な瞳を、医師は舐めるように見上げる。 「……あんまり頻繁に腫らすようなら、私の前でしか自慰できないようにさせましょうか」 「え、……?」  動揺して聞き返すが花崎医師は口角を持ち上げるだけで答えてはくれない。露わになった陰茎を握られ、くびれを親指で押される。芯のあるそこをぐにぐにと力強くあやされると、それだけで膝が笑ってしまう。 「あんまり勃たせちゃダメだよ。今日は久しぶりにこれ、入れるからね」  医師の手にあるのは外径四.五ミリの導尿カテーテルだ。知っている。夏に、花崎は光の中でこれを栗花落の陰茎に差していた。 「ふっ、ふ……っ、」  荒い息を噛みしめながら垂れるカテーテルを見上げる瞳は蕩けている。まなじりが下がって、鮫島に手入れされた細い眉尻も下がっている。医師はひそめくように嗤う。視線が焼けるほど熱い。 「すごい目。栗花落くん、期待しちゃってるでしょ?」  あなたもすごい目をしている、と言えるほど栗花落は豪胆ではない。ただ諾々と従うのみで、期待値がとんでもない方向に跳ね上がってしまい胸がざわめくように冷える。高揚は、度を超すと冷やっこく感じるらしい。  医師は肌の色がわずかに透ける白い医療手袋を嵌め、見せつけるようにしてカテーテルにゼリーをまぶした。 「入れちゃうね、入れちゃうから」  舌なめずりをする花崎は温厚とはほど遠い。かつてこの場所で陰茎を擦り上げられたときは、もっと理性的で微温的で、一方的に翻弄されるだけであったのに。  熟れた亀頭を摘ままれ、尿道口を指で開かれる。たくさん弄ったせいで人より鈴口が広い自覚はある。くぱくぱと息衝く昏い孔を凝視されている。尿道にカテーテルの先端が宛がわれる。ポリウレタンの侵入。喉が鳴る。両手で触診台の端を力いっぱい握りしめた。 「いッ……たぃ、いたい、痛い、です……!」  尿道にモノを入れるのは初めてではない。しかし、自分で加減を見ながら慎重に入れるのと、知覚の違う他人に押し進められるのとではまるっきり感覚が違う。びりびりとした痺れにも似た脈動する痛みが下半身を襲う。下半身というより、はっきりと尿道の壁が痛い。ズキンズキンとした硬質な痛み。激痛。進行するカテーテルの位置に合わせて壁が裂けるように痛む。  夏に入れられた時は、こんなふうに痛まなかった。わざと痛くされている。これはきっと、折檻の意味を含んでいる。――――何に対して? いったいいつ、医師の気に障ることをした? 「ぃだ、イッ……っ、せん、せ、……っ」  白くなるほど掴んでいた台から手を離し、抱っこを強請る幼子のように両手を医師に伸ばした。 「キシロカインゼリーには麻酔成分が含まれています。そんなに痛くは、ないでしょう」  容赦がない。くん、とチューブがうねり、わざと壁を擦られる。高い悲鳴が漏れた。 「もうすこし、したら、……っ、いいとこ、たどり着きますよ」  ぎらぎらと輝く瞳。完璧なる男の顔。縋り付こうとする栗花落の右手を取り、指にキスをしてぱっと突き放す。 「やっ、も……っ、もうぅっ」  一人でしたときは、こんなところまで入れなかった。もっともっとずっと手前で断念した。満足した。医師は止まらない。手の甲で額に浮いた脂汗を拭ってくれたけれど、肌の感触がしないその愛撫はむしろ無慈悲に思えた。体温でも分けてくれたらきっと安心できるのに。冷たいひとだ。 「ぅう、ひ……っ、ん、えぁッ!?」  ぐすぐすと嗚咽を漏らす栗花落の泣き声がふいに跳ねた。 「前立腺、着きましたよ。ここ、栗花落くんのだいすきなところだよ」 「ぅん――――――ッ」  声にならない悲鳴が喉の奥底から沸き立った。足が大きく跳ねる。のたうち回る。鳥肌が浮いて背筋が痙攣するように震える。腹のうすい筋肉がうねった。 「あっ、あ、あ、ぁ……っ」  痛みなんてどこかへはじけ飛んでしまった。なかば無理やりこじ開けるようにして突破された一点。体内の抵抗など素知らぬ顔で、とびっきりの弱点をダイレクトになぶられる感覚。いままで触られたことのない場所から撫でられ、突かれる。目の前で火花が散った。ちかちかと明滅するフラッシュの感覚が狭まるとともに、ぐぐっと首筋が持ち上がる。ぶわりと湧いた汗が散る。 「好いみたいですね、……はぁ、すごいな……」  感心したような熱に浮かされた声。恍惚の表情を水面から見上げる。まばたきをすると水面から浮上した。涙か、これは。鮮明な医師の表情は、むしろ見なければ良かったとすら思う。なんという顔をしているのだ。医師は、そして医師の虹彩に映り込む自分は。 「よだれ。……そのうち巽くんに、歯列矯正とかされちゃうの? この歯に、ワイヤーを巻かれてさ」  下唇を濡らしている涎を拭う手つきのまま親指が口内に侵入してくる。弾力のあるニトリルを舐めてぞくりと背筋が泡立った。この味は、官能先生の味。あの怜悧で冷たい眼差しがフラッシュバックする。白々しい複眼のライトの下で、目元だけで栗花落のこころを掻き乱すあの男。 「ふぁ、ッあ、……、ゃら、いや、ら……ッ」  でこぼこした奥歯の腹を撫でられる。湧き出る涎を大きな音を立てて飲み下す。官能先生。官能先生。銭湯のカルキ臭い湯気を一緒に嗅いだ。こうして奥歯を撫でて、その奥まで指を突き入れて嘔吐を促してくれた官能先生。 「せん、せぇ……っ」  どちらの医師を呼んだのか、蕩けきった栗花落の脳では判断できなかった。ただ、花崎医師はほんの少しだけ目を眇めていくぶん乱暴にカテーテルを押し込んできた。 「んぐ、ぅうぁ……ッ!」  「もっと奥、入っちゃうよ」  繊細な指使いでするりと入り込むポリウレタンのカテーテルは、陰茎の中で柔らかくぐにぐにと曲がった。ぷちゅ、と尿道口からゼリーが押し出される。 「ひぅ……ッ」  ずるりと無遠慮に入り込んだそこは、たぶんきっと――――膀胱だ。 「ぁ……」  みじかい呼吸音。スパーク。  なにも考えられない。解放される。  医師が触診台の下に置いてあった尿瓶を取り、挿入されている方とは逆の先端を尿瓶に差し込んだ。 「ぁ……っ、あ……、」  しょわ……と音を立てて尿瓶に流れ込む黄色い液体、アンモニア臭のきつい尿が勢いよく放たれる。性感にも似た爆発的な開放感は放尿によってもたらされた。もはや栗花落の意思などまったく存在していなかった。止めようとは思うのだが、尿が止まらない。 「栗花落くんのおしっこ、熱いですね……」  花崎医師の熱い眼差しは手の中の尿瓶にのみ一心に注がれている。しげしげと興味深そうに見つめている。もう見ていられなかった。 「、ふ……っ」  両腕で顔を覆って涙を流す。  栗花落の心情などお構いなしにうれしいうれしいと騒ぐ胸が、ただ無垢に暴れていた。

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