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花腐し【後編】

   *   *   *  布団の上でぺしゃんこに潰れていた。今夜は鮫島も来ない。コンパがどうのこうのと言っていた気がするけど詳細は知らない。興味がないわけではないけれど、たいてい鮫島は執拗な口付けを施しながら日程や予定を伝えるので、栗花落はいつも酸欠でぼーっとしながらそれらを聞いていた。  鮫島が来ない部屋はいやに静かだ。寂しいといえばそうだし、解放されたといえば心情は限りなくそれに近い。なのに、――――こんな夜に限って、鮫島の重すぎる愛情にぐずぐずに甘やかされたいと思ってしまう。穢れている。こころが。精神が。  前立腺を知らない場所から押し上げられて強制的に放尿させられた陰茎は、まだ重だるく痺れている。鈴口がすこし赤くなっていたが、花崎医師が丁寧に軟膏を塗ってくれたので痛みはない。腫れるのは花崎医師のせいじゃないかと思う。嵌められた。 「先生……、」  口から衝いて出たのは、やはりどちらの医師とも取れぬあいまいな言霊だった。もそりと寝返りを打って枕元の携帯端末を取った。連絡をすれば、強請ればきっと鮫島は飛んできてくれる。潤くん潤くんと頭を撫でて、好きだ好きだと頬ずりをしてくれる。剥き出しの嫉妬をしてくれる。  嫉妬をされると、安らぐ。求められているのだと安心する。 (鮫島くんは、……こんなふうに思われていて失望しないのかな)  我ながら最低だ。自己嫌悪で胃がムカムカしてくる。  性に耽溺さえしていれば良いと思っていたのに、醜く、そして浅ましくこころまで求めてしまう。すべてのこころを手に入れたいと思っているのかもしれない。わからない。枕に顔を埋めた。 ――――さん、――――さん、いますか。  ぼうっとしている間に眠っていたらしい。うすい扉を叩く音に一気に覚醒した。そして、無意識下で来訪者の声音を検分し、ぐるんと景色が回った。きつい目眩。胃の底が震える。 「せん、せ……?」  思わず毛布を抱き寄せた。官能巽の潔癖な声だ。 『栗花落さん、いるんでしょう』  どんな状況であっても変わらない、下げ調子の問い。こちらに拒否権などまるでないと言わんばかりの問い方が彼のクセだ。 「いっ、いません……っ」 『なにを馬鹿なことを。大した用事ではありません。すぐに帰りますので早く開けてください』  大した用事ではないのなら来ないでほしい。栗花落は何度か嘔吐きながらおそるおそる這い、ドア越しに歯科医の気配を探った。こころなしかクチナシが香る。香水を振っているのか。今日は休診日だ。 『もしかしてまた吐きそうなのですか?』  お見通し。いまこの瞬間もコポコポと食道が痙攣する様が。  とりあえず要件だけ聞いて早く帰って貰おうと、ほんの少しだけ扉を開けた。瞬間、高そうな革靴の先が隙間に侵入してくる。ぎょっとする間もなく医師の細く繊細な指先がうすい煎餅のような扉を掴み、あんがい強い力で引かれる。 「ぁわ……っ!」  前のめりにつんのめる栗花落の肩を官能医師が抱いた。 「ふん。顔色は良いですね」  近い。顔が。うすいくちびる。白い顎。怜悧な見下げる視線。 「ぅぐっ、……!」  慌てて両手で口を覆った。せり上がる。胃の内容物が、出そうなのは午後に食べた梨のゼリーか。それならまだ大丈夫か。いや、大丈夫だろうか。なんにせよ吐瀉物は汚い。それを見せるのか、この人に。この美しいベンヌに。  扉を閉めようとする栗花落に、官能は静かに抵抗した。 「どうして。見せればいい、私に」  無理だ。 「ゲホッ……っうぇ、」  激しく咳き込み、さらさらとした粘性の少ない唾液が栗花落の唇のあわいから糸引き垂れた。 「んぐ、うェ、ぅ、うう~……」  洟をすすりながら涙をこぼして必死に吐き気を嚥下する栗花落にため息を吐いて、手袋越しに背をさすられる。抱き込まれるようにしてさすられるものだから、まるで恋人に甘くやさしく介抱されて射るような心地になってしまう。この間とはまるで逆だ。この間は、鮫島の手が栗花落の背を撫でていた。この医師は蚊帳の外だった。こころなしか、医師は満足げだ。 「落ち着いてきましたか。とりあえず中に入りましょう。タオルはどこです」 「はぁっ、は、……う、すぃませ……んっ」 「いいですから。――それにしても寒い部屋ですね。外と変わらない。布団も敷きっぱなしですか。まあいいですけど」  小言が多い。医師は床に散らかっていたティッシュ箱や文芸雑誌を長い足で蹴り歩いた。なんて強引な。 「まだ吐き気がするでしょう。吐きますか?」 「いえ、なんとか……」 「そうですか」  感情が見えない。眼鏡のレンズに阻まれてしまう。医師がこの部屋に来るのははじめてだ。平素よりは片付いている方だが、自慰に使ったティッシュが屑箱からこぼれ落ちているのが見えてまた吐き気がした。この底抜けの嘔吐感は、羞恥心に引き起こされている?  医師は物珍しそうにきょろりと見回した後、ぐったりと布団に尻餅を突く栗花落に目線を合わせた。キャメルのロングコートの裾が床の埃を拭うのを申し訳なく見守る。 「具合は、どうですか」 「あの、まだ。なんだかむかむかして吐き気が。それに熱くて、でも、……おぇ、でも指が寒い……っ」  何度も嘔吐きながらそう述べると、医師はへぇ……と相づちを打った。何かを考えるように宙に視線を投げる。もとより三白眼気味の瞳の、白目がくっきりと露わになる。一本、繊細な血管が浮かんでいることに胸が殴られたような興奮を覚える。人間だ。当たり前だが生きている。感動すら覚える。偶像が人間に成り下がった。成り上がった? どちらにしろ、栗花落と同じ土俵にいる。生物上は。 「嘔吐恐怖症というわけではないのですよね。吐くことに抵抗は」 「いえ。吐くと楽になるので……っ、でも、見られたくないっ」 「鮫島くんには?」  言葉に詰る。鮫島は手厚く介抱してくれる。大丈夫かと顔をのぞき込んで、はらはらした表情の合間に熱をちらつかせながら、吐瀉物にまみれた栗花落の手を臆することなく握ってくれる。 「さめじま、くんは……、」 「きっとあれは歓んでいますよ。きみの世話役を独占できて。ちなみに、私も世話を焼くことは嫌いではありません」  何を言っているのだろう、この医師は。 「つまり、心情的には私と鮫島くんに差違はないということです。どちらもあなたの吐瀉物を片付けることに抵抗はない。いいですね」  こうして目の前にいるだけで胃が震える。いまにも彼の眼前に吐瀉物をぶちまけてしまいそうで体が震える。恐怖心でいっぱいになる。たすけてと目の前の男以外に誰彼かまわず縋りたいほどに。 「要は、あなたの吐き気は、あなたの心情に起因するということです。あなたの問題です」  そう言われても困る。 「栗花落さんは鮫島くんには吐瀉物を見られても抵抗感はない。しかし、私には見られたくない。むしろ私という存在に嘔吐感を誘発される。どうしてです? どうして、私にだけ抵抗するのです?」 「どう、して……?」  どうして。 「官能先生は……、潔癖だから」 「そんなことはありませんよ」  違う、そういう意味ではない。 「そうじゃ、なくて。先生は、穢しちゃいけない気がする。汚いものを見せちゃ、だめな気がする……」  はぁ、と官能医師は気のない返事をした。伝わっている気がしない。 「……っ、見られたくない。先生には、嘔吐いているところも、吐いているところも、見られたくないっ、やだぁ……」  子供のように膝を抱えると、医師がたじろぐ気配がした。  もういいから帰って欲しい。栗花落の気持ちなど紐解かなくていいから、解説しなくてもいいから放っておいて欲しい。人生の外側にいてほしい。彼の人生と、己の人生が交わっていることにすら畏れを抱く。神秘に触れている気がして怖い。 「栗花落さん……」  たどたどしく頭を撫でられて驚いた。とてもではないが、慰めるように頭を撫でるタイプではないと思っていた。もしくは、彼も自身でそう思っているのかもしれない。だからこんなにも、たどたどしい。 「しばらく診察には来なくてもいいです」  心臓に氷が落とされる。え、と小さく息が漏れ、この瞬間だけは吐き気を忘れることができた。交わりたくないと思った直後に傷付いている。呆れる。 「私が来ます。さすがに、吐き気がするひとの口を弄るのは無理ですから。いいですね」  有無を言わせぬ問いをするくせに、何をいまさら。はなから栗花落の意思など、官能には関係ないのだ。いたずらに髪を梳いていた手が止まり、前髪を掴まれて引き上げられる。ぐじゃぐじゃの面を見据えられる。 「これだけは覚えていてください。あなたの気持ち次第ですよ、栗花落さん。早く気付いて」  え、と僅かに開いた口に、医師の薄い唇が重なった。ほんの一瞬のことだった。やわらかい薄皮に包まれたくちびるだった。体中の血液が頭に集まってくるのを感じた。 「あ、……せんせぇ……っ」  栗花落の瞳がひしゃげる。わけのわからない涙が、顔に集まる熱に押し出されるようにしてぼろぼろと零れた。医師はそのままにこりともせずに立ち上がり、勝手知ったるふうに汚い部屋を辞した。あとにはクチナシの香りがほんのりと香るだけだった。  栗花落はしばらく放心したのちに唇の熱を舐め、そしてその場で盛大に嘔吐した。

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