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5-HT【前編】

 ようやく三月が死んだ。  季節は桜の開花とともに新たな姿へと脱皮した。例年よりずいぶん遅い開花だというが、そもそも群衆は本当に桜へ真摯な愛と親しみを持っているだろうか。あまりの美しさに畏怖した古人が、桜というただの花木に妖しい怪談をいくつも付与しては春に焦がれたものだが、果たして本当に、そこまで心酔するほどの神秘性を秘めているだろうか。変性しやすく人の手も加えやすいうえに品種改良もさかんで、はらはらとした儚さよりも、どこか後ろめたいような無機質さを感じ取ってしまう。現にいま目の前で死にかけのていで頭を垂れているしだれ桜の巨木の根元、苔と砂利の混じる土塊には真緑の栄養剤が幾本も差し込まれているではないか。張り巡らされる提灯の群れとコードは、さながら臓器の替わりとなるチューブか? 瀕死の病人を春のなまぬるい陽気の中、永遠の責め苦で延命させているように見えるのは、栗花落の卑屈さのせいだけだろうか。 「ねえおい、君さ、熱でもある? 顔、やばいよ」 「らい、じょぶ……。きにしないで」  ぐるぐると攪拌されていく取りとめのない思考は無垢な声で断然された。隣でハイボールの缶を傾けていた男子が、栗花落の顔を無遠慮にのぞき込んでいた。やばい、という現代の若者らしいたとえ。死人に見えるのか、腐って見えるのか、はたまた美しすぎて〝やばい”のか。なんて。どうとでも受け取れるその文言の意味を揶揄しているあいだに、俯いた顎先から垂れた汗がブルーシートの上でふるふると震えた。いっそ染み込んで消えて欲しいと願う。男子はすでに愛想の悪い栗花落に興味を失ったのか、別グループの女子の群れへと渡り歩き、アルコール濃度0.18パーセントの呼気に下心を溶かして吹きかけていた。    栗花落はアパートに帰りたいと念仏のように唱えながら、すでに小一時間ブルーシートの上に座り込んでいた。恒例の花見だ。横のつながりが強いいくつかのゼミで行われる、呑めや唄えや触れや抱きつけの酒乱の宴だ。大学生になりたての時分の、飲み盛りのそれだ。まさに酒がなくて何の己が桜かなといったところだろうか、しかし誰ひとりとして、頭上のしだれ桜に目をやる者はいない。赤い顔同士を突き合わせ、呼気と呼気を混ぜ合わせてはアルコール濃度を高めていくばかりで、咲く話題といえば取るに足らぬ戯言に尽きる。これでは延命に継ぐ延命のなかで命を燃やす桜も浮かばれないだろう。さながら脇役のスポットライトだ。春なのに、花見なのにとうに主役ではない。引きずり下ろされたのだ、この老体は。そう思うと、先まで桜の神秘性を懐疑していた卑屈さはどこへやら、栗花落は桜のことが少々気の毒になってしまった。 (帰りたい……)  大きいため息を吐きながら、もぞりと身じろぐ。  本来ならこういったコミュニケーション能力の到達点たる会合に栗花落が参加するのは場違いも甚だしいが、数少ない友人と久々に会えるのならと勇気を出して参戦したにも拘わらず、その友人はなんと当日になって用事ができたとかなんとかで突然不参加を表明したのだ。なんという裏切りであろうか。関ヶ原の戦いで寝返った小早川の魂を受け継ぐ者であったのだ、彼奴は。と、手のひらの中で温めるように握っていたスマホがかすかに振動する。受信されたメッセージは、鮫島からだ。 『どう?』  平素なら大量の絵文字やスタンプの追撃でやかましく連投してくる鮫島にしては珍しく、ただそれだけのメッセージ。しかし、この三文字だけで栗花落は彼の聞き出したいことを瞬時に悟った。 『あつい。もう帰ってもいい?』  震える手で打つ。同じ箇所で何度も誤字し、少々苛立った。 『もうちょっとがんばって』  更に苛立ち。これはおぼつかぬフリック入力への怨嗟ではなく、他人事のように応援を投げかける鮫島に対しての苛立ち。そして、直腸の中でいつまでも存在を主張し続ける玩具への最大級の苛立ち。     *   *   *  昨晩から泊まりにきていた鮫島が、珍しく手を出してこなかった。何やら彼も読者モデルとしての仕事が忙しいようで、本格的に先輩モデルから芸能事務所への所属を後押しされているらしいのだ。はにかみながら、俺は教師になりたいんだけどな、と頬を掻いていた鮫島の満更でもなさげな顔を真向かいで眺めながら、胸中に正体不明の黒いもやが広がるのを感じていた。 「教師になりたかったんだ、鮫島くん」  意外。そう漏らせば、困ったように笑う。 「これでも一応教育学部に在籍してるって、前に話したよね。潤くん、忘れちゃったの?」 「あ、ああ。いや、えっと……」  犬の目から繰り出される無言の責め。逃げたい。  忘れていたわけではないのだ。おそらくたぶん、聞き逃していた。彼が饒舌に夢を語るのは、やはり性欲をぶつけてくる時なのだ。失禁してしまうくらいに強烈で派手な性行の最中に、少年のように瞳をきらめかせ、現実的な夢を語る彼。犬のように腰を振りながら、教師を志すのだと戯言を吐く彼。そういえばそんなことを言われたかも知れない。忘れて欲しくないのならもっと正気の時に話せと文句を言いたくなったが、それもまた、鮫島の中に秘められた変態的で〝終わっている”性癖のうちの一つなのだろう。暴力的な性行中に、至極まっとうな未来を語り、予定や約束を取り付ける。そういうプレイなのだ。ずいぶん前から取り決めもなく勝手に強要されている。 「まあ、でもどうかな。このまま卒業して教員免許を取ったとしても、教師にはならないかもしれない。俺はたぶん、向いてないよ。指導することには」  教師とは真逆なところに己が存在していることを知っている鮫島。健気で懸命で、憐れなことだ。  鮫島は向いていない。それ栗花落もこころの底から肯定する。彼は確実に指導される側ではない。志を、価値観を、信奉するものを歪められたい欲求を抱えている。そして、現にパラダイムシフトを牽引した栗花落をこうして信奉して支配下に置きたがっている。アンモニア臭のひどい風呂場で会得した鮮烈なスカトロジー体験を与えた栗花落を屈服させたがっている。 「潤くんは、どう? 大学を卒業した後はどうするの?」 「おれは……」  夢を聞かれるのは好きではなかった。栗花落には、病的なまでに己の未来を想像する能力が欠如していたからだ。本が好きだからというおおまかな理由だけで文学部を専攻し、言語系統を学んでいる。ただそれだけなのだ。本好きが高じて小説を書いてみたこともあったが、それはついぞ作文や日記の域をでなかった。なにかを生み出す才能はまるでなかったと知り、どうでもよくなった。夢破れてすぐに逃げたのだ。挑戦すらしなかった。もしかしたら、胸の底で微熱を帯びたままの花崎への想い、いや、下心から小説を書き始めたのかもしれないと今では思っている。花崎の愛する詩や小説を生み出して、褒めて欲しかった? 稚拙だ。すべてがなにもかもが。 「おれは、卒業したらしずかな内勤がしたいよ。小さな会社で細々と働いて、食っていけたらいいかな」 「へえ。堅実だね。潤くんらしい」  ぐさ、と小さな幻聴が聞こえた。音の行方を捜して胸を撫でてみたが、とうぜん何も刺さっていなかった。おれらしいとは、……おれらしい、とは。 「……鮫島くんの方が、俺のことに詳しいみたいだね」  俺には俺のことがわからないのに。ぽつりと落とした言葉に、鮫島は困ったように首を傾げた。目を逸らして、当てつけのように毛羽だった畳を撫でた。陰鬱とした態度に、なにかしらの琴線に触れてしまったと考えたのか、鮫島は遊びを請う犬のように近寄ってきて、犬らしく栗花落の頬をべろんと舐めた。慰めているつもりか、いや、これは媚びているのだ。暴力的なイラマチオをさせるほどの横暴さを持つ彼は、そのじつ肝が細い。もしかしたら気分を損ねたと勘違いでもしたのだろう。腹を見せて服従を示す犬のように、下品な姿を晒すことで忠誠を見せつけているつもりになっている。健気だ。そして、――――やはり憐れだった。 「鮫島くん、今日は、頭が痛い。もう寝てもいいかな。泊まっていくならそれでもいいけど。ごめん、かまってあげられないよ。それでいいかな」 「……ん。わかった」 「泊まる?」 「……良い?」  いいよ。口に出すと、また頬を舐められた。そのまま厚い舌が下瞼のうすい皮膚の上を這いずって、栗花落が唇の緊張を解く気配を悟って口内を舐めてきた。前歯をぬるぬると伸ばした舌で撫でられる。ご機嫌を窺うような仕草に自尊をあわく刺激される。頭痛はうそだった。 「潤く、風邪? 頭痛のおくすり買ってこようか?」  妙な舌足らず。わざとらしいほどに幼稚な物言い。くすぐったいような優越感が更に倍増する。すてないで、と上目で訴求してくる鮫島はかわいい。結局栗花落は、憐れにすがってくる鮫島が好きなのだ。いつもは花崎や官能に捨てないで捨てないでと胸の内で懇願している栗花落が、こうして明け透けに心服されている。  かわいい犬。思い切り拒絶してやれば、どんな顔をするだろう。泣くだろうか、喚くだろうか、それとも殴ってくるだろうか、刺されるだろうか。今ならそのどれも受け容れてあげられそうだけど、一時の興味のために鮫島を手放すのは困る。  だって、栗花落は憐憫という感情がすきなのだから。    *   *   *  すこし射精してしまった。ぬめる下着の感触に、ねばる気泡がぐじゅと潰れる気配を皮膚で感じた。永遠に引き延ばされたかのような薄い快楽が膜のように脳を包んでいる気がする。花の香りに、青臭いにおいが溶ける。 『もういい? 帰りたいよ』  送信したメッセージに既読はつかない。まるで昨夜の意趣返しだ。少々後悔してしまう。  情交のない夜が明けたあと、台所で歯を磨いていると鮫島に腕を取られた。口から抜け出た歯ブラシが淡い桜色の泡を撒き散らしながら転がった。あいかわらず、強い力で歯を磨く癖が抜けていなかった。 「もう行くの? 花見」  うなずく。特に言及されなかったので、訝しがりながらも落ちた歯ブラシを拾い、口をゆすいだ。頭を垂れて水を吐き捨てると、三角コーナーの生ゴミがすこし臭った。  鮫島は元来真面目な性格なので朝が早い。日課のランニングも終えて身支度を済ませているあたり、栗花落とは真逆の生活スタイルだ。輝かしい。崇高な精神性に目もくらむ。 「潤くん、花見とか飲み会とか嫌いなのに、今回は行くんだ」 「え? あ、うん。久しぶりの友達に会えるからね。じゃなきゃ行かないよ」 「ふーん……、なんだっけ、トクヤマくん?」 「え、すごい。よく覚えてるね。そうそう、その渡久山」  銭湯に寄って汗を流してきたのか、湿った髪をタオルで拭きながら鮫島は妙な目線を寄越す。咎めるような、内面を探るような視線に居心地が悪くなる。浮気を詮索される気分はこんなかんじだろうか。トクヤマくん、トクヤマくんねえと思案を含んだつぶやきは聞こえないふりをした。  昨夜の殊勝な面影はすっかり形を潜めている。おや、と少々たじろぐ。あの生ぬるい水飴のような阿りは気まぐれであったか。それとも、他の感情に上書きされた? たとえば、栗花落が友人の誘いに乗ったことへの不快感とか、そういった類いのものの。健気なものだと、このときはまだ鮫島の妬心を楽観視していた。  結果、桜色の性玩具を尻に入れられ、二次会まで楽しんできてねと半ば追い出されるようにして送り出されたのだ。家主は栗花落であるのにもかかわらず。まあ、さしたる抵抗すらせず曖昧に困惑するだけの家主なのだから、横暴に扱われたとて文句は言えないのだけれど。  帰宅の許可を得ようとするのだが、返信はこない。監視されているわけでもあるまいに、適当に逸楽に耐える演技を続けながら勝手に引き上げればいいのだがそうしないあたり、栗花落も当然、屈服し、抑圧されることが好きなのだ。楽しんでいるわけではないが、好ましい。歓声のなかでひとり蚊帳の外。無意味で無価値な肛虐を享受する己の頭上には死にかけの桜。やはりこの桜はスポットライトだ。今こうして、栗花落は照らされている。熱い息を、頭を仰け反るようにして吐いた。ぬめる舌の上に花弁が乗る。一滴も酒を呑んでいないのに、この場のだれよりも桃色に酩酊していた。確実に。 「おまえ、全然飲んでねーじゃん」  栗花落の頭に影が差す。逆光のなか、名前も知らない男がへらりと笑い、隣に腰を下ろした。同じゼミの者ではない。ずいぶんと酒が進んでいるようで、無反応も気にせず酒缶を傾け、桜を飲む栗花落に倣うようにしてまっ赤な舌の上に最後の一滴落とした。鮫島が人なつこい犬のような雰囲気だとすれば、隣の男は爬虫類を思わせるような外見をしている。艶のある長い前髪が顎のラインで揺れていた。耳にかけた横髪の内側が、海水魚のような緑色に輝いている 「付き合ってるヤツでもできたの?」 「? いません、けど」  不思議な物言いをする。いるのか、ではなく、できたのかとは。まるで初対面での問い方ではない。 「そっか。ちょっと雰囲気変わったか? うーん、古い画像だったからそう見えるだけか?」 「……えっと、」  どうしていいか分からず言葉を詰まらせていると、口角を不自然なほどつり上がらせて男は栗花落の耳に唇を寄せた。サボン系の香水のにおいが香った。彼のもつエキゾチックなキャラクター性とは不釣り合いだった。 「お前、ちょっと前に歩いてたらしいじゃん。ションベンかけてほしいって声かけながら」 「っ!」  ばぐん、と心臓が跳ねた。呼吸がひきつり、吐き出せない。ひぅ、としゃっくりのような息を吸い込む。  耳元でささやかれたその言葉は思いも寄らないものだった。歓楽街で、たしかにそう吹聴していた。そして鮫島に出逢ったのだ。 「そ、た、っひと」  それは、たぶん、ひとちがいですよ。そう口にしたつもりなのにただの喘ぎにしかならなかった。息を吸う。更に吸う。肺がぱんぱんに膨らむ。呼吸を止めると、尻の中の玩具を思い出した。栗花落は呼吸を止めて絶頂を追うタイプだった。 「頭がおかしい奴がいるもんだなって思ってたけど、俺もそういうのけっこうスキなんだよね」  女限定だけど、かけるだけなら関係ねーわな、と男は嘲笑する。栗花落としてはそれに頷くことはできない。なにせ、いやがる相手に無理やり尿をかける背徳的な恍惚に目覚める者の、抗いがたい感情の揺れをなによりも尊んでいるからだ。瞳を揺らして玉の汗を浮かべる栗花落の背中をさする手。蛇のようだった。体温が低い。やはり爬虫類のそれか。 「今から、抜け出しちゃう?」 「ぃ、やだ……」  本質が見えない。本気か、それとも揶揄しているのか。深い闇色の瞳は桜の陰に沈んで光が映らない。ずり、と無意識に後ずさると、尻の中の異物がおかしな角度で内壁を押した。膀胱に染みる振動。茨のような尿意が背筋を駆ける。 「ッ、うぁあ……っ」  間延びした小さな悲鳴が漏れて、はっと右手の甲を唇に押し当てた。力の入れ方を間違えて、まるで己を殴ったかのような痛みを覚えるが、なかなか筋肉の硬直が取れない。ぶるぶると体が震える。 「なに、どうしたの」  些か驚いた様子で顔をのぞき込み、ああ、と天を仰いでへらりと笑われた。 「そういうこと? なんか入れてる?」  死にたい。死にたい死にたい。死にたい。あたまの中がデストルドーで支配される。  かつての栗花落なら、甘い水に引き寄せられる虫のように男の思うままに頷いて背中を追っていたのだろうが、今はまったくそんな気になれない。見知らぬ手が怖い。見知らぬ相手が怖い。なぜ。頭に明滅するようにうかぶ〝見知った人”は……。 「いこ」  まるでパペットだ。何かの発作のように震え、がちがちに体は硬直しているのに腕を取られて引かれればぐにゃんと立ち上がった。体温と同化して忘れていたが、そういえば下着が少し濡れていたのだった。  足を踏み出せばふわふわとした柔らかい砂糖菓子を踏んでいるようだ。向かう先はきっと地獄なのに、花吹雪の凱旋。死を許されぬ桜のいやがらせのような祝福がアスファルトの上で花風とともにとぐろを巻いていた。    

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