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5-HT【後編】
花見エリアからずいぶんと遠いところに設えられた公衆トイレは、栗花落の知っているものよりもかなり清潔だった。定期的に手入れされているのか、入り口近くには清掃担当者のチェック表が貼り出されている。エスコートされるような丁寧さで押し込まれる合間にちらりと見るが、見間違いでなければ先刻に清掃されたばかりだ。きれいでよかった、とどこか他人事のような己に頭をふった。どうにかしてこの状況を躱さなければ。
「おれ、そういうのはもう……」
不明瞭な小声に男はくるりと振り返って、
「そうなんだ」
と素っ気なく答えた。まるで栗花落の事情には興味なさそうだ。表向きのポーズだとでも誤解されたか。人の性癖、悪癖はすぐには変わらないと思っているらしい。その考えには素直に賛成しておく。
「おれ、ほんとうに……」
「まあまあ。ちょっと試させてもらうだけでいいからさ。ほら、入って」
「え、いや、だから」
退路をあらかじめ断ってから追い詰めてくる花崎や官能、鮫島とはちがい、この男はすべての選択肢を残したまま押し切ってこようとするのでたちが悪い。はなから縛って殴って脅されていれば、潔く諦められたものを。
とん、と胸を押され、蓋を閉じたままの水洗便座に座り込む。おそるおそる見上げると、目の前の男は前髪を揺らして満足げな息を漏らす。白々しい白熱灯が逆光となって、闇を生み出す。相変わらず男の瞳には露ほどの光も灯っていなかった。
「下、脱いで」
「え……」
「中に入ってるの、見せてよ」
かけるだけじゃなかったのか、と言い返す間もなく、前髪を持ち上げられた。
「おまえやっぱ、最近になって変わった? いいじゃん、垢抜けたよ」
まさか、この期に及んで容姿を褒められている? 鮫島が部屋に来るようになってから眉の手入れをされたり、服を貰ったりしていたからだろうか。手料理を食べさせて貰うようになって栄養がよくなったのも関係しているだろうか。
「さっきから、なんのこと……」
「画像見せてもらったんだよね。お前の。 ションベンかけられる趣味の変態なんだな。マジ?」
画像……、歓楽街で遊んでいた頃にでも撮られていたのだろうか。あずかり知らぬところで自分の写真が出回っているのだとしたら、かなり気味が悪い。居心地が悪い。ばつが悪くなって瞳を伏せると、男は喉で嗤って栗花落の股間を手のひらでさすった。
「やっぱり。ザーメン出てんじゃん。はは、すげーな。さっきからちょっと匂ってたよ」
手のひら全体で布の上から押されると、ぬかるんだ感触と音が下着の中の惨状をありありと伝えてきた。長い指がジッパーをつまむ。
「ま、まって。待ってよ」
解放を阻止しようと手を伸ばすと、頬を張られた。高い音が鼓膜にぐわんと反響する。
「へ……」
驚いて目を見張ると、もう一度同じ頬を平手で打たれた。眼鏡が飛ぶ。懲りずに男の顔を見詰めると、男も栗花落を真正面から捉えていた。
「……いいなぁ、お前の音」
困惑と恍惚。はあ、と湿度の高いため息が狭い個室の湿度を高める。興奮から白目が桜色に染まっている。目の際の赤みが薄く張った涙で淡く溶かされて滲んでいるようだった。その顔は、栗花落のすきな顔。
男の行動は早かった。焦らしなど一切感じさせない手つきでジッパーを下げ、ズボンを引き下ろす。下着とのあいだに薄い精液が糸を引いている。むわっと広がる栗の花のかおり。だらんと垂れ下がった陰茎が半透明に濡れそぼっていた。
「自分で入れてきたの、これ」
冷たい指が尻の間から垂れたわっかをつまみあげる。紐に指をひっかけて引っ張られると、小さなうめきが零れた。
「リモコンどこ。鞄?」
「す、すまほ……」
「ああ、そういうタイプね。高級なの使ってんじゃん。じゃあほら、早くアプリ開いて」
う、と口ごもると幾分か強い力でわっかを引っ張られた。出口辺りを捏ねるように震えられると、弱い。
「あっ、あ、……あ、あの、おれのスマホにはぁ、ぅ、はいって、な……」
男の動きが止まる。しゃがみ込んでいた顔が緩慢に上がる。前髪が瞳の上をさらりと流れて白い頬が露わになる。冷たい表情をしていた。
「あ、そう。なるほどね、そういうこと。へえ。カレシとプレイのためにわざわざ花見に来たんだ」
「ち、ちがっ」
さすがに濡れ衣だ。
「ちがくて、来る前に急にっ」
三回目の破裂音。また頬が張られた。倒れかけた体を胸ぐらを掴むことで戻される。涙目で見上げると、今度は拳で殴られた。わけがわからない。
「ぃだ、いだいよ……」
「ムカつくんだよ、色欲魔。よかったな変態仲間に可愛がってもらえて」
わけがわからない。なぜ急に怒気を露わにしている?
「だったら最初から、付き合ってるヤツいねえなんてウソつくなよ」
「は……?」
付き合ってなどいない。真実をきちんと述べている。恋人でなくとも、こういった遊戯はするだろう。いや、するのか? わからない。栗花落は恋人などいたこともない。いたのは、……いたのは、いるのは、これは……。
瞳を泳がせる栗花落に、図星を突いたとでも勘違いしたのだろう。男は嘲るように唇を歪ませ、栗花落の顔面に唾を吐いた。それは頬を滑って肩口に落ちる。狼狽する栗花落の鼻のあたりに拳が落ちてくる。鉄の匂いが広がり、黒っぽい鼻血が塊のように落ち、男の唾を洗い流した。また桜色が栗花落を汚す。
「っが、……っひゅ、は、」
鼻から空気を吸えず、大きく口を開けて喘いだ。さらさらとした唾液がつうつうと流れていく。官能巽の前で嘔吐したことを思い出した。あの清廉潔白な神の尊顔が恋しい。
「う、うぁ……っひ、ぅぐ」
急に心細くなって、たまらなく怖くなって、栗花落は大粒の涙をこぼした。しゃくり上げる度に固まらない鼻血が流れ、口の中まで血の味でいっぱいになる。
「泣くんじゃねえよ、カス」
掴まれたままの胸ぐらを引き寄せられ、拳が振り上げられる。また痛いのがくる、そう身構えた瞬間――――。
ガンッ!
「ひっ……!」
突然の轟音に、限界まで縮こまった身体が飛び上がった。おそらく、個室の扉が誰かに殴られた、はたまた蹴られたのだ。息を潜めて押し黙る栗花落たちに苛立つように、更に二、三度大きく扉が叩かれる。
「チッ、んだよ」
聞こえよがしの舌打ちとともに扉を開けた男が、瞬きするまもなく引きずり出され、押し殺した悲鳴が空気を震わせた。一体なにが起こっている。混乱に次ぐ混乱の中、とりあえずズボンを履き直して扉からそろりと顔を出してみた。あれは……、
「さ、鮫島くん!」
彼だ。鮫島慶が男に馬乗りになって頭部を押さえ付けていた。
「なん、どうして……」
ゆらりと擡げられた鮫島の顔。眼球だけが呼び声の主たる栗花落を捉える。鬼の顔をしていた。
「さめじ……」
もつれる足で近寄ると、男は気絶していた。うつ伏せの状態なので顔は分からないが、思い切り床に顔面をたたきつけられたのだろう。白いタイルの上に血が広がっていた。
「し、」
死んで……はいないようだ。ぴくんと男の指先が動き、緩慢な動作で鮫島を振り仰ぐ。粘性の血液が口から垂れていた。歯でも折れたか。
「あ、あ、ああ……」
言葉にならぬ声を上げ、赤子のように地面を這って逃げようとする男の頭部を再度押さえ付け、床に何度も打ち付ける。ご、が、と鈍い音が連続し、このままでは本当に殺してしまいそうで、慌てて鮫島の腕に縋った。
「し、死んじゃう! 殺しちゃうよ!」
「うん。……そうだね」
栗花落の必死の形相に熱が冷めたのか、ようやく力を緩めるとゴミでも放るかのように男の体を投げ捨てた。あまりのことに腰が抜けてしまい、栗花落も這うように男の側面にまわって呼吸を確かめた。きちんと呼吸をしている。ああ、本当によかった。この様子ではしばらくは起きられないだろうが、傷を見る限りでは栗花落のほうがひどい怪我をしている。やはり自分はある程度の経験から、痛みに多少なりとも耐性ができているのだなと妙に納得した。
「潤くん、こっちおいで」
「え、」
鮫島はいつもの大型犬のような優しい瞳で、へたり込む栗花落に手を伸ばした。しばし逡巡し、その手を取った。優しい力で引き寄せられると、背の高い鮫島の腕に抱き締められ、ようやくほっと息を吐くことができた。汗と混じり合い甘くなったアンバーの香り、高い体温と労りながら抱く力強さに酔いしれる。つむじに長いため息がふりかかる。顔を上げると、見慣れた鮫島の犬の瞳にあたたかく見下ろされ、すこし涙がにじんだ。
「かわいそうに、ひどい目にあったね。俺のせいで本当にごめん。ごめんなさい潤くん」
「あ、いや……」
「潤くん、潤くん。あぁよかった、まさかこんな血だらけになっちゃうなんて。無事で本当によかった……」
頭を撫でられ、ようやく痛みを思い出した。すん、と鼻をすすると、まだ止まらない血が喉の方にまで降りてきた。そのまま嚥下すると、胃の辺りがぐんと重くなる。おえ、と餌付きながら手洗い台に嘔吐すると、胃液の中に血が混じり排水溝に吸い込まれていく。泡立つ胃液に混じる血は桜色だ。体の中にまで老木の呪いが……。
嘔吐する合間、ふと顔を上げると背中をさすってくれていた鮫島が鏡に映っており、その表情を見た栗花落は殴られていたときよりずっと強烈な衝撃を受けた。
(どうして……)
どうしてそんな、うれしそうな表情で笑っているの。
* * *
「アイツ、篠ヶ瀬っていう奴なんだけどさ」
鮫島に手を引かれながら半歩後ろを歩いていると、鮫島が口火を切った。いまだにムカつくみぞおちから視線を上げ、無言で続きを待つ。
「付き合った彼女たちはみんなDVで壊されてるっていう話だよ。傷害でしょっ引かれたこともあるくらいヤバイ奴なんだって。あいつも最近まで雑誌のモデルとかやってたからさ、噂はイヤってくらい耳に入ってたんだけど」
モデル仲間……。いや、杞憂だ。そうに違いない。
「まさか篠ヶ瀬が潤くんとおなじ大学だったなんて」
「うん……」
鮫島の表情は見えない。幼子のように手を繋がれ、他に縋れる者がいないので黙って背中を追いかけている。眼鏡はフレームが歪んでしまったので、適当に鞄に放り込んだ。0.1程度の視力で見る桜並木は失敗した水彩画のようにぼやけ、大雑把な靄のように見える。
「……鮫島くんは、俺の居場所わかってたの」
歩みが止まる。ぎゅっと手に力を込めるが、鮫島は微動だにしなかった。
「鮫島くんさ、よく俺のスマホいじるじゃん。難しい設定とかしてくれたり、ゲームとか入れてくれたり。そのときにさ、なにか、いじった?」
位置情報を知らせるサービス、遠隔で起動できるアプリ、機械音痴な栗花落ではあったが、このあたりのことを弄られていることは知っていた。知っていたけれど、鮫島のいつもの病的な独占欲に起因するものだと察して好きなようにさせていたのだ。とくべつ咎める理由もない。
「その、ササガセっていう人が、俺の画像を見せてもらったって言ってたんだ。誰にとは言ってなかったけど、鮫島くん、そのことについて知っていること、ない?」
杞憂だ。きっと杞憂だ。考えすぎだ。考えすぎ……。
瞳を伏せながら振り返る鮫島の明るい髪が、真昼の陽射しを浴びて怖いくらいきらきらと光っていて目が眩む。伏せた長い睫毛が持ち上がる。
「ごめんね。俺にはわからない」
かちあった瞳は、優しい色をしていた。ブラウンの瞳は虹彩と瞳孔の境がはっきりとしている。
うそだ。優しい瞳がどうしてそうも寒々しく見える?
栗花落は知っている。今日の約束を反故にした渡久山と鮫島が、一度だけ栗花落のアパートで鉢合わせたことを。そして、持ち前の快活さですぐに打ち解け、連絡先を交換していたことを。
栗花落は思案する。一時、鮫島からメッセージの既読が付かなかったことを思い出す。たんなる意地悪だと思っていたが、もしも鮫島がそのときに手を離せない状況であったのだとしたら。誰かと会っていたのだとしたら。それが渡久山だったとしたのなら――――。
まるでパペット人形だ。繊細な指使いで糸を繰るのは、恨みがましい桜ではなく鮫島だった?
押し黙る栗花落に陰が落ちる。ざわざわと桜が枝を揺らす。
「色々あったから怖くなっちゃったよね。潤くん、だいじょうぶだよ。俺が守るから。これからも俺がずーっと、そばに付いててあげるからね」
何度目かになる抱擁。毛布のようにふわりと包まれる抱き方。ほっとできる体温と軽い圧力なのに、栗花落のこころには黒い墨が落とされたまま、血と胃液の泡立つ臓腑でぐるぐると回り続けている。
「桜、きれいだねえ……」
満開の桜を眺めてそう呟く鮫島はやはり、ひどくうれしそうに、ひどく満足げに笑っていたのだった。
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