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のいばら【前編】

 口の中が腫れるのははじめてのことではない。元来の体質なのか、疲労が溜まると決まって症状は口内に現れた。まず方々の歯肉が腫れる。ずきずきと鈍痛を訴える。埋もれた親知らずが疼く。しくしくと痛む。そして顎が軋む。軽い顎関節症なのだ。それはかくんかくんという間抜けな音と相反して、かなりの痛みを伴う。骨伝導は骨の軋む音とともに、痛みを鼓膜から眼窩までをも駆け巡らせる。今回もそうだった。精神的な疲労が口中で暴れ、栗花落は暗い顔で真っ白いセラミックに赤い唾を吐いた。  こうして、官能邸の磨き上げられた大理石調の洗面台は血に穢れてしまった。  篠ヶ瀬という暴漢の復讐に怯え、夜な夜な泣きじゃくっては元凶――――と、栗花落は見当を付けている――――たる鮫島にあやしてもらいながら眠っていたのだが、二日が経過する頃にはすっかり暴行された恐怖も忘れていた。鮫島に聞けば、篠ヶ瀬は昏倒したその夜には逮捕されていたようだ。呆気にとられながらも耳を傾けると、発見したのは若いカップルなのだという。ほろ酔いの雰囲気のままトイレで事に当たろうとしたところ、血まみれで倒れている篠ヶ瀬を発見して二人揃って腰を抜かしたらしい。とんだ春の思い出だ。気の毒に。  あの公衆トイレはいろいろな人間に悪夢を芽吹かせてしまった。入念な清掃が施されていただけに、引き起こされた事象と、木漏れ日の注ぐ清潔さとのアンバランスさが痛ましい。ともあれ、篠ヶ瀬某とやらは無事お縄につき、交際相手やその他の婦女子たちへの暴力だの薬物使用だの、余罪も数え切れないほど芋づる式に掘り起こされたようなのだ。当分は塀の中だろうという鮫島の見解にふうんと相づちを打ちながら、栗花落はなんともいえない後味の悪さを噛み締めていた。鮫島の甘い顔と声でうそぶかれれば、臓腑から沸き起こる妙な高揚を覚えたことだろう。暴行された側とはいえ、実際に変態行為に耽溺して夜を泳いでいた時期があるだけに、彼には少々同情を禁じ得ない。篠ヶ瀬がどんな悪辣な人間であろうと、栗花落への暴行はほぼ鮫島にけしかけられたようなものなのだ。……栗花落の憶測が正しければの話だが。 『まさかこんなに血だらけになっちゃうなんて』  そう言って鮫島は栗花落の頬を痛ましげに撫でたが、まるでその言い様は、血だらけ以外のことが起こるのは想定済みだとも読み取れる表現だ。  鮫島は栗花落の写真を篠ヶ瀬に見せた。この男は小便をかけられるのが趣味なのだとささやいた。篠ヶ瀬は信じた。興味を持った。そして……鮫島は栗花落を恐慌状態に陥らせて、完璧なる所有物にしようとした? 死すら感じる恐怖の中で、すがれる存在は、そして差し込む光は己だけなのだと知らしめたかった? 思い込ませたかった? ――――まあいい。もはや過ぎたことだ。栗花落は頭を振って篠ヶ瀬や、それを取り巻く薄気味悪い計画のことを頭に追いやった。そしてそれらを忘却すると、今度は傷が痛み出した。        *   *   *     「あのう、官能先生でしょうか」  そう口にしてから、着信履歴を遡って十一桁の番号に発信したのに、何を当たり前のことをと勝手に困惑した。無言の身じろぎを受話器越しに感じる。訝しがられている? 『どうしました』  冷たい声音は相わらず。うう、と小さくうめいた。震えるてのひらで口を押さえ、吐き気を短い深呼吸で流した。はぁ、と苦しげに吐いた声はため息にでも聞こえただろうか。 「その、口の中を怪我してしまいまして、その、すこし、診てもらえたりとかは……」 『かまいませんよ。医院の裏手の白い外壁の建物、あれが自宅ですので本日はそちらに。外観ですぐにわかると思います。表札が出ているのでそれを目印にしてください。着いたらインターフォンを鳴らして。門を開けます』  息継ぎのブレス音すら聞こえない、流暢な口調。それでも捲し立てるという印象は受けず、なにやら上質な音楽でも聴かされたようなきぶんになって、恍惚として口を開きっぱなしにしては陶酔した。この声には数億円はくだらない銘器と同等の価値がある、なんてぼんやりと考えていたらいつの間にか通話は終わっていた。栗花落は頭を掻き、会話の内容をじっくりと反芻して喉だけで軽くえづいた。  自宅に行くのか。なぜ。  休診日のひみつの診察、栗花落が謎の悪心を理由に拒否して久しいが、それが本日、このあとすぐに官能の自宅にて行われる。栗花落はせまい部屋をぐるぐると落ち着きなく回遊しては何度も胃を動転させた。  別の歯科へ通うという選択肢は、はなから栗花落の中に存在しない。栗花落が選び取る選択はつねに官能医師へと収束する。きっと、それ以外に栗花落の識る世界は、ない。  おもえば、官能医師の私用の携帯電話にコールしたことすらはじめてだった。電話帳に美しき神の名が刻まれるのが心苦しく、また思い出すことすら苦痛だったため連絡先を登録していなかった。それほどまでに崇め、畏敬する神の住居に赴くのか。これから。行かねばならないのか。彼のくつろぐ家を、空気を、床でも汚したらどうする。いっそ吐き切ってからでかけるかとひらめいたが、どうせ空の胃でも胃液を吐く。やはり自宅ではなく、いつも通りの冷えた医院で診てもらおうかとスマホを握り直すも、いくらなんでも厚かましすぎるかと更に不安を募らせた。彼は厚意で言ってくれているのだ。もしくは医院にでかけるのが億劫なのか。それもそうかもしれない。空調も器具の電源も落としているのだから、わざわざ栗花落ただ一人のために準備するのも面倒だろう。これは行くしかない。行かねばなるまい。もう連絡はしてしまったのだ。  気が重い。胃も重い。      歩道にひとつ、腐った桜の花弁が落ちていた。雨上がりの道路は、水溜まりが細かいアスファルトの粒に分断されてはきらめいて、魚の鱗のように見える。よく晴れた午前十時。タクシーを使う金などあるはずもないので、徒歩でくだんの官能邸へと向かった。はじめて来院したときは、単純にアパートから近いからという理由と、官能歯科医院という文字の並びに惹かれて選んだのだ。もちろん徒歩で行ける距離に神の住居はあった。  外観ですぐにわかるという官能の弁はしっかりと機能していた。白亜の城というのはこういう建物を指すのだなと、目の肥えていない栗花落ですら解った。一階部分は吹き抜けの駐車場になっていて、上階の玄関へと伸びる真っ白い螺旋階段はさながら天国へと至る橋のように見えた。純白の架け橋に巻き付く蔓は、アイビーか。鮫島が通常業務とは別に手当をもらって自宅の掃除をしていると言っていたけれど、ガーデニングも彼の管轄なのだろうか。野性味のある端正な顔に汗を浮かべて土を構う姿はあまり想像できない。向日葵なら似合いそうな気もするけれど。花は似合う。泥は似合わない。鮫島はそういう奴だ。得だと思う。栗花落に似合うのはきっと、花ならばあざみや彼岸花、そして――――やはり汚泥だろうか。  それにしても、城。まるで城だ。一般市民の中でも最下層に君臨する栗花落は尻込みしてしまう。建物の上から下までを何度も視線で往復し、一歩、一歩と後退る。そして道路に蹲り、音がしそうなほど震えては何度も口の端から胃液を溢した。むりだ。こんなの、神殿じゃないか。こんな調子では……こんな、吐くことしか能のない己が到達できる場所ではない。むりだ。『鮫島くんに迎えにきてもらおう』という文字列が頭の中をものすごい勢いでくるくるくるくると回り始める。こんな時に縋れるのはやはり鮫島なのだ。あれは安心する。だって、あれは神ではない。こんなに震えなどしない畏怖しない不安にも駆られない。ああ。そう考えるこのこころは、このこころは恥ずべき、恥ずべきこころで…… 「なにをしているのですか」  蹲ってうなる栗花落に、啓示が降り注ぐ。 「せ、んせ……」 「ずいぶんと早い到着ですね。あなたが好みそうな甘い菓子でも買っておこうと思ったのですが、驚きました。また吐いているんですか」  まっしろい太陽の光を後光のように振りかざし、官能医師はしげしげと栗花落を観察する。栗花落は胡乱な瞳でそれを見上げる。ぼうっとする。しばし放心してから、おえ、と小さくえづいて顔を伏せた。一瞬にして視界が暗がりに閉ざされたのは、さんさんと降り注ぐ太陽光から目線がアスファルトに移ったためか。薄い水たまりは栗花落の影に入ってもう煌めかない。魚の鱗は剥奪された。 「まだ落ち着きませんか。まあいいでしょう。私は先に自宅に入っています。こころの準備が出来たら入ってきなさい。鍵は開けておきますから」 「は、はい……」  官能医師は興味を失ったようにして踵を返した。クチナシの香りが遠ざかるのを背中で感じる。見放されたようでいて、彼の指示はこの世に存在するすべての声かけの中でもっとも優しいものだった。心配するでもなく、ただそっと目の前から消えてくれる。栗花落のこころが整うのを遠くで待っていてくれている。この一時の離別がどれほど栗花落のこころに安寧をもたらすのか、はたして官能医師は解って行動しているのだろうか。栗花落はよだれをぬぐい、荒い呼吸にすこしの嘔気をにじませながら輝き狂う太陽にくらくらと目を眩ませた。    ほつれた靴下に包まれた足先を下ろしたフローリングは暖かかった。床暖房でも敷いているのかと思ったが、一面の窓ガラスから降り注ぐ陽光に暖められていただけだったので驚いた。万年カーテンを閉め切って気持ちだけの防音対策をしている栗花落にはそれがひどく新鮮に映ったのだ。光とはかくも暖かいものなのかと。 「もう良いのですか。……だいじょうぶそうですね。一応先に伝えておきます。手洗いはあちら、廊下の先にありますので。何かあればすぐに向かっていただいて構いませんよ」 「へ、へぁ、い」  はい、という返事すらままならない。神の御前で、神殿の中をどう歩けと、そしてどう過ごせというのだ。栗花落は固まり、猫背のまま途方に暮れていた。 「栗花落さん、こちらへ」  と優雅な指先の流れで指し示されたソファーに尻を落とした。体が沈んだ。 「ところで、なんですかこれは」  すい、と彫刻のような指が栗花落の頬骨の辺りを撫でる。そこにはまだ生々しい暴行の傷が残されている。びりっと痛みが走り、思わず瞼をぎゅっと閉じた。 「いっ……!」 「まだ生傷じゃないですか。いったい何があったのですか」  何が、あったのだろう。うまく頭が回らない。むしろこちらが教えてほしいくらいなのだ。 「その、おととい花見に行ったんですけど。あ、サークルの。そしたら、……喧嘩、に、……巻き込まれ、た?」  曖昧に首を傾げながらつたない説明をこぼす栗花落に苛立ったのか、医師はもう一度眉を顰めた。 「学生とはいえ、成人した立派な大人が春に浮かれてぼんやりするものじゃないですよ。ただでさえあなたは厄介ごとにふらふらと誘われる傾向があるんですから。……まさか栗花落さん、あなたまた、無茶なことをしているんじゃないでしょうね」 「む、無茶なこと……?」 「あなた、色魔めいていたじゃないですか。出逢った頃は」  ぐさぐさ、とこころに鋭いナイフが降り注いで血が噴き出した。否定はできない。今でこそ歓楽街で唄ったり、妖しげなパーティーの壇上に上がったりすることはしていないし、もはやする気もないけれど、たしかに蛍光パープル色の青春が栗花落にはあった。そしてそのプロセスこそがいま目の前で難しい顔をしている官能医師との出会いひいては昏い信仰に直結している。否定は、できない。 「し、今はしていません。本当に、どうしてこうなったのか俺にもわからなくて……」  ふう、と小さく吐き出されたため息にびくつく。呆れないでと視線で縋る。 「まあ、いいです。問い詰めたところでぐにゃぐにゃ返答されるだけでしょうし。それに、どうせあなたのことですし、警察には行っていないのでしょう? まったく……」  栗花落の説明や認識が不明瞭なことなどははなから想定済みということだろうか。大して説明能力に期待をしていなかったのかもしれない。しどろもどろに謝罪を舌に乗せる栗花落を手で制して、医師はきっぱりとした態度を貫く。 「診察を始めますよ。まずはその前に、こちらをどうぞ。ミント類はストレス性の吐き気をすこしは和らげてくれますから」  ご丁寧に、医師てずから透明なフィルムを剥いでちいさなミントキャンディーを口に入れてくれた。見損なわれたかもしれないという不安で唇がなかなか動かなかったので、はんぶん押し込まれたようなものだけれど。きゃら、と転がり込んできたキャンディーが奥歯の上で硬質な音を立てた。子供じみた音と強烈な爽快感に、肩の力が抜けた。 「お気遣いを、……なんというか、色々とすみません。ありがとうございます。だいぶ楽になりました」 「そうですか」  感情の乗らない声。さっと逸らされる視線。ああ、官能医師だ。官能巽が目の前に在る。その声音が視線が香りが、無形のそれらだけですでに官能巽を形作っているのだ。野暮ったい眼鏡や跳ねた寝癖でしか己を証明できない栗花落とは次元が違う。生きている次元が、生物としての次元が違う。このひとは、ほんものだ。ほんものの、神だ。 「栗花落さん、飴を噛み砕くのはあまりよくありませんよ」  陶酔してトリップしかけていたところを啓示によって現実へと引き戻される。まばたきすらせずにぼんやりと思考を飛ばしていたはずなのに、ずいぶんと近くまで顔を寄せられ、あまつさえ顎を繊細な指で撫でられていることすら感知していなかった。ずいぶんと深いトリップだったようだ。あ、と口を開けるとすがすがしいミントの香りが漂った。あまりにも自分には不釣り合いすぎる。 「ずいぶんぼんやりしているんですね。安定剤でも飲んできたのですか」 「あ、いえ。あの、そ、……なんだか、自分が自分じゃないみたいに、ふわふわしていて。ぜんぶが、その、他人事のように見えるというか」 「離人感、ですか?」  朦朧が度を超して見えたのだろう。官能医師は美しい眉を顰めた。きっと医師は、栗花落になんらかの精神障害が起きていると考えているのだろう。もちろんそれも大いに関係している。昔からセロトニンに作用する薬だって常用している。しかし、それだけでは片付けられない。この暑苦しい、砂漠で野垂れる死にかけの旅人のような譫妄は……。 「いえ、そんな大げさなものじゃないんです。もう、もう大丈夫です。先生の自宅に招いてもらえるなんて初めてのことなので、ちょっとどうしていいのか……」 「そんなこと……というのはあなたには通用しないのでしたね。自宅にいるように振る舞っていただいてかまいませんよ。カフェインはよしておきましょうか。お水をどうぞ」 「すみません……」  テーブルの上にはドリップ途中の珈琲や日本茶の茶筒、未開封のココアの袋などがトレーに乗せられて用意されていた。すべてが自分の来訪にむけて準備されたものなのだと思うとどうにも据わりが悪くなる。こういうときに抱くべきは感謝の念なのだろうが、爛漫に喜ぶような人間性は持ち合わせていない。ただ罪悪感に萎縮するばかりでかわいくない。鮫島なら子供のようにはしゃいでココアをねだったことだろう。そういう愛嬌が、無神経さが、ひとのこころを容易く撫でる無邪気さが羨ましく、こんな場面でも明らかなる鮫島への侮蔑を抱きながらも劣等感に灼かれた。 「本当におもしろい人ですね、栗花落さんは。飲み物を勧めて死にそうな顔をされたのははじめてですよ」 「う、」 「皮肉ではありません。純粋に面白がっているだけです。好意ですよ」  しれっと言い切る。おべっかなど一度も口にしたことがないであろう彼が言うのならそうなのだろう。信用は出来る。とはいえなんと返していいか分からず、素直に水のグラスを受け取った。複雑な模様が刻まれたグラスに注がれた水すらアムリタに見える。落ち着かない。空っぽな胃に冷たい水が滑り込むと、きゅう、と臓器から小さな悲鳴が上がった。呻く。微細な胃の変動に、収まっていたはずの嘔気を思い出した。胃の表面で水が跳ねている。そんな想像が湧き上がる。 「栗花落さん?」  冷や汗に濡れ始めた顔をのぞき込まれる。栗花落の瞳は充血していた。大きな呼吸が忙しない。 「はっ、はァ、は……っ」 「発作もくせになりますからね。かわいそうに、鼓動と呼吸が制御できないのでしょう」  まるで実験動物にでもなった気分だ。医師はしげしげと震える栗花落を観察し、ふむと一人で納得している。死にそうに汗を浮かべて恐慌する栗花落と反比例するように、医師はどこまでも冷静に観測者の姿勢を崩さない。 「せ。せん、せ……っ」 「ああ、いけませんね」  嘔吐してしまう前に洗面所へと行かねばと跳ね上がるように立ち上がった栗花落の、血の気の引いた冷たい指が掴まれる。え、と困惑する暇もなく、酸素の足りない頭がふらりと傾ぐ。ソファに引き戻され、幼子のようにして医師に抱きすくめられる。困惑する瞬間すら与えてもらえない。 「鼓動が制御できないときは、他人の心音を聴くと良いのですよ。同調して安定します」  すっぽりと抱かれた体は、頭がちょうど官能医師の胸の位置に固定されるかたちになる。髪を撫でるついでのように頭を押さえ付けられ、耳が医師の心臓の真上に密着させられる。  とく。 とく。   とく。  一拍の不整脈。  医師の心音はいま、すべて栗花落の鼓膜に吸収されている。  荒波のように押し寄せるばかりの鼓動が、少しずつ落ち着いていくのを確かに認めた。とく。おのれの心拍の歩調が官能医師の心音と重なる。少しずつ追いつく。鼓動が正常に機能するのと同じくして激しい嘔気も綺麗さっぱり消えてしまった。まるで手品か魔法のようだった。あるいは神の奇跡か。 「落ち着いてきましたね。どうです、そろそろ私にも慣れてきた頃合いでしょう」 「え……、と。はい」 「それなら結構」  体温が心地よいが、あまりひっつかれても困るだろう。そう思って離れようとしたのに、医師は頭を抱く力を緩めない。仕方がないのでそのまま瞳を泳がせてじっとしていると、官能医師の吐息がつむじに降り注いだ。吐息の温度や、わずかに乗るかすかな声帯の震えまで美術品めいているのに、無性にあたたかい。 「……すみません、先生。お休みの日にまでこんなに手間をとらせてしまって。もう落ち着いたので、診察に移っていただいても平気ですが」  胸を押すと、拘束はするりと解ける。いささか不機嫌そうな表情が窺えた。神経質そうに眼鏡をかけ直し、先までのあたたかさをすっかり消して謝罪を述べる栗花落を見下げた。気圧されて距離を取ると、更に瞳が剣呑に眇められる。 「まあ、あなたがそう申すのなら。さ、口を開けなさい」  なんて切り替えの早い男なんだ。  流れについて行けずもたもたと医師の隣に座り直し、ぱかりと口を開けた。従順さだけが取り柄なのだ。 「指、入れますからね」  栗花落の吐き癖を気遣ってか、はたまたわざとか、情事のような声かけをしてから細い指で内頬をくるりと撫でた。 「あぇ」  咄嗟に間抜けな声が漏れた。栗花落がもたついている間にも、医師は意外と高い温度の指をすっかりニトリルで覆ってしまっていた。もう個人的な対面ではなく、医師と患者としての座だという態度を、ニトリルの味をもって味蕾から思い知らされたのだ。 「縫うほどの怪我ではなさそうですね。数日で治りますよ。もとより、口内の傷は完治までが早いですから」  ペンライトで内頬の裂傷を照らされる。なんとなく、生傷を見られる行為を恥ずかしく感じた。体のより内側、ふだんは閉じられている肉の切れ目を観察されているからだろうか。 「それより、奥歯が痛いでしょう。以前レントゲンで見た時は完全に埋没していましたけど、すこし生えかけていますね。あたらしい親知らずが」 「ふぁ、あ、抜きますか?」 「完全に生えてしまえば、適切なメンテナンス――――要は歯磨きですね、が行われていれば抜歯せずとも構いませんよ。ただ、歯茎に埋もれたままではあまり良くありません。歯肉を切開しての抜歯となります。栗花落さんの場合はまっすぐ成長しているようですし、もう少し成長度合いを様子見しても良さそうですが」 「そう、ですか……」  しゅんとした。抜歯がすきなのだ。淡々と説明をしていた医師も患者の落胆具合に気が付いたのか、一瞬ちらりと空に視線を移して考える素振りを見せた。 「まあ、抜きたければ私が処置いたしますよ。いつでも。口腔外科の設備も整っていますから安心してください」  ですが、と一区切り置いて栗花落の理解が追いつくのを待ってくれた。 「まずは栗花落さんが私との対面に慣れなければいけませんね。辛いでしょう、あなたが」 「おれが……」 「私だって、露骨に避けられるのは心苦しいんですよ」  まったくそんなことは思っていないふうに、声音だけに哀愁を忍ばせる。ぎくりとした。 「す、みません。……俺にもわからないんです。先生に嘔吐する姿を見せてしまってから……おれは、なんだかおかしくて。それまで、平気だったのに」  声を途切れさせると、また医師の指が近付いてくる。口を開ける。侵入。愛撫。 「何か、あなたの中で決定的なきっかけになってしまったんですね。……精神分野は専門ではないので話半分に聞いていてほしいのですが、予期不安というものがこの世には存在します。“また嘔吐してしまうのではないか”という不安に支配されることです。そしてそうならないために、活動範囲が狭められる。不安の要素となるものを排除しようとする」  指が生えかけの親知らずを撫でさする。唾液を絡めた指で、くるくると撫でる。 「不安にさえならなければいいんです。要は慣れですね。暴露療法は相当な苦痛を伴いますが、とても効果があるのですよ。あえて苦手な場に身を置くことで、すこしずつ体を、脳を慣らしていくんです。人間は、どんな状況であれいずれかは慣れてしまうものなんです。特に栗花落さん、あなたはとびきり順応性が高いではありませんか」  ひたひた、指を親知らずの上で跳ねさせる。唾液が糸を引く。妙な心地に、媚びる犬のような声が漏れた。 「栗花落さん、私の家で一緒に暮らしませんか」  ――――――――は。 「そうすれば、きっとすぐに慣れます。私に」  なにを言っているのだ。  頭が真っ白になって思わず医師の指を噛んでしまった。慌てて力を抜くも、意に介した様子もなくまた奥歯の歯列を指で撫でられた。もはや診療などではない。 「それに、栗花落さんのアパートは不衛生です。免疫力が低くてすぐに歯肉を腫らすようなあなたが住んでいい場所ではないでしょう、あそこは。鮫島くんも何か助言をしなかったのですか。あなたにべったりなくせに、そういうところに気が回らない。私からするとまるで信じられない。肝心なところであなたのためにならないではないですか。やはりまだ子供なんですよ、あれは」  流暢なことばを、なんだなんだと困惑しながら聞いていた。後半はもはや、鮫島への不満の暴露であった。訳のわからない同居の誘いからどんどんと熱を帯びていく言葉に呆気に取られてぽかんとしていると、我に返った官能はばつが悪そうに小さく舌打ちをした。  「熱くなりすぎました。申し訳ありません。消毒をします。――――歯肉がすこし腫れているようですが、これも消毒をすればすぐに治りますよ」 「あ、はい……」 「準備をしますので、洗面所で口をゆすいできてください」 「え、あ、はい」  呆然と、長い廊下を歩く。  ぐるぐると先の言葉を反芻する。私と一緒に暮らしませんか、医師はそう言ったのか。どうして。  なにを言われた。まるでわからない。異国の言葉を聞かされたように、ふわふわと不明瞭に鼓膜を撫でただけだ。いや、あれは言葉ですらない、完全に音楽だった。音楽を聴かされていた。  ふらふらと洗面台に寄りかかり、後から後から湧いてくる唾を美しいセラミックに落とした。糸を引く唾液に、ほのかに血が混じっている。鼓動に合わせて歯肉がずくずくと痛んだ。 「お、ゲホッ、お゛えぇ」  医師に恵んでもらったアムリタを吐いた。すっきりしない。胃の底がうねる。 「ウッ、はぁッ、……はぁ……っ」  なんとか手と手を握り合わせて暴れる胃をたしなめた。少しずつ鼓動が正常に治っていく。  急に、今自分が立っている場所が見知らぬ家なのだと再認識した。  

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