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のいばら【後編】

     十分は洗面台の前で呆然としていただろう。その間、医師は一度たりとも声をかけてこなかった。これもきっと彼なりの配慮なのだろう。栗花落が落ち着きを取り戻し、自分の足で帰ってくるのを待っているのだ。健気に。 「大丈夫ですか」  なめらかな動作でソファを勧められる。従う。今日は同じやりとりを何度も繰り返しているような気がする。官能邸にお邪魔させてもらってからずいぶん時間が経ったような気がしたけれど、まだ時計の針は正午を指していた。 「すみません、本当に……」 「構いませんよ。私ももう栗花落さんには慣れましたし」 「そ……うですか。あの、さっきの」  一緒に住むって。そう口にしようとした栗花落の唇は、ニトリルの手のひらに塞がれた。 「消毒、しますよ」  聞くなということか。栗花落としても真意を尋ねることにどれほどの勇気を消費させるか分からないので、曖昧に濁されるなら願ったり叶ったりだった。こくんと頷くと、手のひらが離れていく。 「くち」  その二言だけで、栗花落は口を開いて医師に差し出すことができる。慣れた。 「すこし苦いですよ」  濡れた冷たい脱脂綿が、傷口に、そしてなり損ないの親知らずにわずかな力をもって押し当てられると、忠告通り苦い液がじゅんわりと滲み出てきた 「にぎゃ……」  苦い、と声に出しかけて慌てて引っ込めた。医師のうすい唇が弧を象る。わらった。その笑みを視界いっぱいに捉えて、爆発的に胸が熱くなった。神が微笑んでくださっている。胸の熱さに押し出されるようにして涙が滲んだ。 「痛くはないでしょう。……そんなに苦かったですか」  医師は怪訝に首を傾げた。引き抜かれた脱脂綿は、淡いピンク色の血で彩られている。二人してぼんやりと血の色を眺めていた。滑稽で、少し笑ってしまった。 「泣いたり笑ったり、あなたは本当に節操がないんですね」  照れ隠しのような刺々しい言い方も、慣れた。 「先生、ありがとうございます。本当に。やさしくしてくれて、俺、うれしいです」  稚拙な、子供の感想文のような物言いではあったが、栗花落はきちんと官能医師の怜悧なひとみを真正面に捉えて、最大限の感謝を声に乗せた。医師はわかりやすく目を見張り、ああ、と珍しく言葉を詰まらせ、ピンセットで摘んだままの脱脂綿と栗花落の顔をちらちらと交互に視線で捉える。 「いえ、別にそんな、感謝されるほどのことはしていませんよ。簡単な処置だけで済みましたし」  聡いくせに、こういう時だけ頓珍漢なことを言う。 「それもありますが、その、色々と気を回していただいて……」  心遣いがと付け加えると、医師はまた、ちらりと栗花落から視線を剥がした。その目線の先は落ち葉のようにふらふらと漂い、脱脂綿を捨てたゴミ箱へと行き着いた。まるで血液の付着した脱脂綿を栗花落の半身だとでも思っているように見受けられた。 「それこそ、感謝されるほどのことではありませんよ。……私は、……むしろ、私のためにやっているようなところもありますし」  絶妙に濁された言葉尻を推測し、栗花落はそれ以上ことばを紡げなくなった。  避けられると心苦しいと言っていたことか。  距離を突き放されないように、医師は己に栗花落を慣れさせようとしている。慣れて欲しいと思っている。それの意味するところが理解できないほど、栗花落は薄情ではない。 「先生は、やさしいです。すごく」 「栗花落さん……」  頑なにゆらぎを見せなかった医師の目が、ほんのわずかに光の反射角を変える。ちらちらと瞬く。  持続する胃の不快感や口内の裂傷のことをすべて忘れて呆け、眼球の上で踊る光たちを見守っていた。 「残酷なひとですね」  神の唇から不可解な音楽が漏れる。脳が意味を検証する前に、光が閉じた。 「う、……」  官能医師の舌が栗花落の唇のあわいを舐めた。開花を催促するように何度も、何度も往復する。呼吸の一切合切を止めて、身じろぎもしない栗花落の唇は丹念に濡らされてしまう。 「せ……」  迂闊に口を開くと、狡猾な舌はすぐに口内へと侵入してきた。静止を求める声はくぐもり、意味をなさない。不明瞭なことばは音楽になり損ねた。この我が物顔で舌を吸ってくる医師のように、美しい旋律と抑揚にはならない。こんなところでも神秘性に差が生じる。 「気持ち悪くは、ありませんか」 「あ、う……だいじょうぶ、です」 「そうですか」  珍しく、窺うような物言いをする。ほっとしたような表情筋の緩みをこんなに間近で観察するのもはじめてのような気がした。 「吐きそうになったら言ってください。すぐにやめますから」 「へぁ、」  なにがですか、という問いが言葉になる前に、開いた唇に再度ぬめった舌が差し込まれた。上顎のでこぼこした箇所を舐められると、腰があわだつ。 「ぇあ、ふぁ……」  垂れたよだれが栗花落の膝の上に置かれた官能医師の手を汚した。わずかな生温かさに気付いたのか、汚れた手が持ち上がる。薄い手袋の上を、たり、と涎の軌跡がまろぶ。ソファを汚してしまうかもしれないと慌てて医師の手を掴もうとするが、努力もむなしくそれは躱されてしまった。薄目だけでこうも栗花落の動作を読み取れるのかと、少々人外めいたものを感じてしまう。ああ、と情けない声を漏らす栗花落なんて全く気にも止めず、医師は汚れた手をそろそろと蛇のように這わせて、それは交尾のようにまぐわう二人の口元に寄せられる。  手が、親指が、手袋につつまれた親指が舌とともに栗花落の口内へと押し入ってくる。 「ぁ、ふぇんへ……! ぉ゛え、えぁ、あ゛が、」  驚いて舌で押し返そうとしてもびくともしない。それどころかもっともっと奥へと伸びてくる。ふいに塩素の香りを思い出した。そうだ、これは知っている。この圧迫感は。これはいつぞやの雪すら凍る銭湯とおなじ。ああ、これは……。  再現させられている。 「ひょっと、まッ、え゛ぉ……っ」  えづいた。えづきまくった。医師は怯まない。止めどなくよだれの湧いてくる口内を舐め回す。嬉しそうでもなく、不快そうでもなく、冷淡に、黙々と舐めてくる。時折うつくしく隆起した喉仏が上下にうごくのを見止め、ぎょっとした。体液を飲まれている。急激に死にたくなった。さすがに従順ではいられなくなってもたもたと小さく暴れてみるも、医師に頬を抓られて子供のように躾けられた。つねられて引っ張られたことにより更に口が広げられ、また一段と親指は奥を蹂躙する。それほど強い力でもないのに、雷に打たれたかと思うほど痛んだのは、頬の内側に裂傷があるからだ。血が滲んだだろうに、医師はおかまいなしに鉄臭い唾液すら吸い上げてしまう。折檻だ。勝手に口内に傷を作ってしまった栗花落への折檻を無意識下に執行しているのだ、きっと。 「ごひぇ、な゛はい……、へんひぇ、ごめんなひゃ……っ」  薄目で懇願に似た謝罪を繰り返すも、つるつるしたニトリルが腫れ気味の口蓋垂をかすめるだけだった。おげぇ、と下品なえづきが生まれ、はずかしさと苦しさに涙がぼろぼろと溢れた。 「もぉ、や、めひぇ、ぇ゛う、」  震える舌を、音を立てて吸われた。 「……はぁ、」 「……っ!」  医師の、吐息が、なまめかしい恍惚の吐息が……。  さざなみのようにざわめく胃が、ごぽ、と不穏な空気音を立てる。あ、これは――――……。     *   *   *   午後二時の晴れ渡った空の下で鴉がなく。  帰路は、出向いたときとは別の服を纏って歩いていた。医師から借りた、裾のあまるスウェットパンツを両手でたくし上げながらとぼとぼと歩いている。細身のチノパンに合うようにと鮫島が選んでくれた大きめのマウンテンパーカーを羽織って出かけていたのだが、上下ともにオーバーサイズすぎて、まるで適当に拾ってきたなけなしの服を纏ったルンペンだ。裾にいたっては引きずって破ったりしないように、スニーカーの裾に詰めている。衣服のセンスに頓着しない栗花落ですら、今のおのれ姿を鏡で見たくはなかった。  やってしまった。  そればかりが栗花落の脳内を支配している。  やってしまった。  神よベンヌよと讃える官能医師の前で、またもや嘔吐してしまった。  やってしまった……。  それに飽き足らず、ソファを汚し医師の指を汚し、あまつさえ彼の舌に……。いや、よそう。仔細を思い出してしまえば、いますぐ歩道橋から飛び降りてしまいかねない。 『酸いですね』  ああ、思い出すな。 『泣かないでください。私が悪いんですから。栗花落さんは悪くありませんよ。泣かないでください』 『呼吸をしなさい。私の呼吸に合わせて。ほら、少しずつ落ち着いてきますよ』 『抱きしめてあげましょう。心臓の音を聴いて。あとで着替えを貸しますから、また返しに来てください。それとも、都合さえ付けば、私が引き取りに伺いますがどちらがよろしいですか』  満足げに宣いやがって。  きらいだ。きらいだ!  いやだと言った。せいいっぱい暴れた。吐くのはいやだと言葉で態度で表情でさんざん示していた。  いまだに涙で湿る頬の上を、ぽろりと涙が転がった。午後のなまなましすぎる太陽が、きらきらと魚の鱗のように反射する。こんなにあたたかい春の陽気に、アスファルトはまだ雨に濡れていた。そしてまたひとつ晴天に雨粒が落ちたのだが、きっとそれは塩分濃度が他の雨よりずっとずっと高いのだろう。        

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