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Ctrl+V V V【前編】

 相談する先は花崎医師しかないと思った。あわれな自分を救済してくれるのは、犬の鮫島でも、元凶の神たる官能医師ではなく、世界のそのすべてを俯瞰してうっそりと笑っているような、あの花崎航しかいないと脳がこころに訴えてきたのだ。とはいえ、花崎医師が官能巽と旧知の仲とはいえ、いや、旧知の仲であるからこそ当人のことを相談するのは気後れすると考えていたら、ちょうど『栗花落くん好みの良い小説を見付けたんですよね』と、くだんの花崎航から興奮気味に電話がかかってきてつい口が滑ってしまった。花崎は診察以外では〝栗花落くん”と、くん付けで親しげに声をかけてくる。まるで友人に向けるような気安さに感化されていつも調子に乗って饒舌になってしまうのだ。この陽光めいた寛厚さを、はじめて出逢った真夏にこそ露骨に表出してくれていたら、きっとほのかな恋心を口にしていただろうに。まあ、たとえうっかり言葉にして表白したところで、ふわふわとした軽い恋心を、あの熾烈な熱を秘めた蛇神のような花崎が受け容れてくれたとは到底思えないが。それでもたったひとこと、 「先生に恋をしています」  と口を滑らせていたら、今頃どうなっていただろうかとぼんやり考えてしまう。催眠にでもかかったのか。非現実なパラレルワールドばかりを考えてしまう日がある。今日がそれだ。現実から逃げたがっている。  花崎医師の勧める小説をネット通販サイトでぽいぽいとカートに投げながら小説談義にひとつふたつ蕾を膨らませていたのだが、ついでとばかりに音声越しで自慰を強要されて、傀儡の扱いは好きなので受諾した。ねちねちとした粘性の水音をBGMにしながらそれとなく『ゆっくり相談したいことがあるんですけど』と、多大な迷いと吃音を交えて切り出した。『ゆっくり相談したいことがあるんですけど』と、多大な迷いと吃音を交えて切り出した。医師はしばらく爪先で机をトントン叩く音を立てながら思案したのち、勤務終わりにでも夕飯を相伴しながら雑談程度に吐き出させてくれればそれで良いと思っていたのだが、まる一日時間を取ってくれるとは。若干、ではなくかなり気後れはするものの、うなる栗花落を蚊帳の外にしながら着々と日程を組まれたものだから、七面倒な謙遜でしょうもない問答をするのも申し訳なく思えて、はい、はい、と従順に頷いて日曜の予定を空けた。どうせはなから暇だったのだ。部屋にこもっていると鮫島が当然のように居座るのも、時折めんどうになる。話し相手がほしいときには彼の阿りを利用していいように心の隙間を埋めさせるのに、こうしてそのときの気分次第だったり、はたまた誰かから手を伸ばされたら鮫島の献身を突き放すのだから、つくづく己は最低な人間なのだと痛感する。  けれど、愛くるしいまでの犬風情に絆されてはいけない。そもそも鮫島は信用ならない。彼は第三者を用いて栗花落を手中に納めようとした。入念な手間をかけてまで己を欲してくれたその意気はとても好ましいのだが、官能医師にだけ特別な感情を以て緊張し、嘔吐を伴うほどの熱烈な心酔に悩んでいるのだなんて懺悔でもしてみれば、それこそ最悪刺されかねない。時折虚無感に堕ちてはナイフで手首の内側の、うすい皮膚にうすい引っ掻き傷を作ったりはするものの、決して栗花落は死を希っているわけではないのだ。むしろその逆で、生に、性に、世に人一倍執着している。だって、生きていれば心地が好い。嫉妬されればうれしい。熱い劣情で頬を殴られればきもちがいい。満たされる。愉しい。それなのに、腹が膨れるほど子種を飲もうが、記憶を飛ばすほどに乱暴な交接に耽溺しようがいつまで経っても満たされないのは、度を過ぎて冷感すら覚えるほどの“相思相愛”、“ふたりだけで完結する世界”を未だにこの生でこの魂でこの現世で味わっていないからだ。  身を滅ぼすまでの愛がほしい。その願いはきっと、栗花落を欲して止まないだれかが、辟易するほどの執着に終止符を打ちたくなって衝動のままに首を締めてくれるまで続くのだろう。  生に執着しているとはいったものの、滅びを確定させると予感しながらも栗花落のために人生を擲ち、愛憎を込めた憐れな指で喉仏を潰されて殺されるのならば、それは生より、性より、世よりもうつくしく素晴らしいティルナノーグへ至る道筋になるのかもしれない。そんなことも思うのだ。  再三に渡る、パラレルワールドへの夢想。ワームホールに到達する術などないからこそ焦がれるのか。靴下の親指の部分に空いた穴を見ながらまたも夢想。次の日曜日、きっと知らない世界を覗く。ああ、週末が終末たるワームホールになるのか。    *   *   *  花崎邸に赴くのは二度目になる。先日通話をしたばかりだとはいえ、顔を合わせるのはカテーテルで強制排尿をさせられたとき以来だ。一応あれは、あれは医療行為だった。ので、別段恥いることはない。人前で放尿することなど別段珍しくはない。それこそ、ビーカーを満たす知らない人間の尿を、囃し立てる手拍子に合わせて飲み干し、容器を空にするまでのタイムを壇上で競ったことだってあるのだから、まあ、慣れてはいる。栗花落は恥をかくことに慣れている。とはいえ、いっときは膿むような恋を花崎に覚えていた時期もあったので、いざ顔を合わせる日になると“慣れている”ということばだけで割り切ることはできなかったようだ。インターフォンを押す指がうろうろと彷徨い、小さく唸った。気まずい。このグダグダとした心境を表すことばはそれだ。気まずい。これから相談する事柄、そして前回の異常で淫靡な排尿補助とが妙なバイアスを生み出して奇妙な躊躇が生まれ始めている。あと五分ほどで到着しますと連絡を入れてしまったので、そろそろ栗花落の来訪が遅いことを気取って外まで様子を見にきてくれないかしらと、またいつもの悪癖が顔を出した。怠惰で自分勝手な願望。フルオートで常に救済してほしいと願ってしまう。愚かだ。そんなことをしてくれるのはあの官能医師しかいないと思い至り、頭が重くなった。あんなにも冷たい表情で、栗花落の到着をそわつきながら待ち、それどころか白亜の階段を下って人間界の地上にまで舞い降りて来てくださった。さながらヤコブの梯子。悪戯げに下界を遊山する神のお姿。官能医師。ああ。 「栗花落くん?」  トリップを引き戻したのは、やわらかい、瑪瑙を思わせる声。透明なのにほんのりと乳白的な声。勝手に玄関先でトリップする不審者さながらだ。穢れた指をようやくインターフォンからどけた。自身の指紋が残ることすら穢らわしい。 「もう着いてたんですか。もしかして呼び鈴を鳴らしてた? ごめんごめん、ちょっと花壇に水やりしててね」  カナメモチで拵えた生け垣の茂みの脇で、緑色の大きな如雨露を片手に花崎医師は申し訳なさそうな苦笑を浮かべていた。濃いオリーブ色のスプリングコートがよく似合う。春先の庭でとても眩しい。 「あ、いや、遅くなってすみません」 「ぜんぜん。わざわざ来てもらってごめんね。やっぱり車で迎えに行けばよかったね」  庭木の剪定でもしていたのか、いつも触診に託けて栗花落の陰茎をいじめ倒す両の手には無骨な軍手が嵌められていて、トゲトゲした葉や土が丹念に塗されていた。土塊まみれのかわいらしい如雨露から、あの日の尿瓶を連想してしまうのは仕方がないことだろう。 「あ、……あ、いえ。迎えをお断りしたのは俺ですし。運動不足だったので、むしろ都合がよかったです、から」  如雨露から目を背けると、愉しそうな花崎のしたり顔が映った。如雨露の、すらりと伸びた首をわざとのように指でつつ、となぞった。陽光の下でその指遣いは……、あまりにも……。  官能巽が後光を背負った全知全能の神ならば、やはり花崎は天国と地獄だけを司る混沌の神に思えた。いうなれば、破壊と再生という両極端な性質をもつシヴァ神だ。適当な思いつきだけれど、これが案外、しっくりくる。いまだに彼のことはまったく、ひとひらもなにも掴めない。うすい焦げ茶の虹彩に、自身の、背を丸めがちな覇気のない立ち姿を射抜かれると居心地が悪くなる。 「あ、庭仕事の途中でした、か? あの、俺、待ちますよ。作業が終わるまで」  醸されるオーラに二、三歩後退ると、医師は目尻を下げて笑った。右の軍手をぞんざいに抜き取り、こめかみのあたりを掻く。無害を彷彿とさせるその仕草に、淫猥な空気は一気に霧散した。ほっとする。 「いいえ、もう終わりましたし、そもそも栗花落くんが来るまでの暇つぶしでしたから。さ、中に入りましょう」  にこにこと笑う医師に促されて玄関をくぐると、他人の家のかおりがした。クチナシの香りではなく、生姜と醤油と砂糖を煮詰めた残り香。自炊の残滓。あまりにも無垢な香りにくらくらした。花崎の穏やかな外見にはとてつもなく似合うのに、内面の激しさと比べるとあまりにも不釣り合いだ。やはりシヴァ。脳がおかしくなる。ギャップが、温度差が、栗花落を狂わせる。 「先生のにおいがしますね」  乱れた精神でわけのわからない感想をこぼすと、花崎はきょとんと目を丸くした。 「わたしの?」  動揺したのだろう。一人称がぶれる。 「あ、ええ。あの、なんかすごい、美味しそうなにおいが……」  言葉選びを間違えた。ばかか、俺は。自責し、錆びついたロボットのような動きで己よりも上にある医師の表情をおずおずと盗み見る。困惑と、胡乱と、剣呑の三種の光が白眼をなまなましく光らせていた。 「すごい、……ことを言うんだね、君は」  目を泳がせると、『相変わらずだね』とよくわからない追撃のことばを刺された。 「え、え、違う。あの、え? と、なんか美味しそうな……あー、あの、花崎センセって自炊のイメージがあるから。その……」  極限なまでのしどろもどろで身振り手振りを交えつつ釈明すると、ふは、と気の抜ける笑い声をこぼされた。 「そうね。食べたもんね、ここでね。ザーメン鍋」  おいしかったね、と唇を撫でられ、瞬間的に号泣してしまうかと思った。事実、熱い涙がじわりと浮かんだ。発汗する。いじめられている。墓穴を掘った。当惑する栗花落をしばらく観察したのち、ニコリ、花崎は笑って幼子にするように栗花落の頭にてのひらを乗せた。 「まあそれはいいとして。さ、靴脱いで、上がんなさいよ。相談したいことあるんでしょ」 「うぁ、はい……」 「君がわざわざ僕なんかに相談なんて、まあ、なんとなく察しは付くけど……たのしみだね」  ことば選びだけではなく、そもそもの選択肢を間違えたとこの時になってようやく栗花落は理解した。  花崎航に官能医師への信仰と、信仰への代償となる嘔吐を説明することはすなわち、死よりもひどい地獄を見ることになる。天国と地獄。花崎が掲げる天秤が片方に傾く空想。解っているのに、官能医師への途方もない唯一の信仰心を持っているのに、背中を押すてのひらの熱さと有無を言わせぬ力強さがぞくぞくと栗花落の背筋の髄の奥すら震わせ、甘く腰を溶かした。骨抜き、ということばを思い浮かべる。進むしかない。抗うことなどできない。だってこの場所は、きっとワームホールそのものなのだから。

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