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Ctrl+V V V【中編】
相変わらず書物が乱雑に置かれた部屋で、借りてきた猫になる。銀色の冬に栗花落を苛んだ、やけに高温になる炬燵はすでに取り払われていて、ほんのわずかな肌寒さを覚えた。その代わりに若草色のふかふかしたカーペットが敷かれていて、この医師は植物や緑が心底好きなのだなと察した。まるで草原だ。草原の上には漆塗りされたカリン材の大きなテーブルと、深緑色の皮を貼った一人用の応接チェアが一脚置いてあり、卓を挟んだ対面には揃いの皮を使ったオフィスチェアが構えていた。その様相は、心療内科の診察室を思わせた。対面で話をするためだけに設えた空間。きっと応接チェアのほうに栗花落は浅く腰掛け、延々と詰問されるのだ。
医師はこちらには目もくれず、コートをきちんとハンガーにかけて、花のかおりのする除菌スプレーをゆっくりと振りかけて皺にならないよう努めていた。その几帳面さは、怠惰な栗花落からしたらとんでもなく労力のかかる行為に分類される。スプレーの香りにもこだわるのだろうか。きつい白熱灯が煌々と照るスーパーで商品の成分や性能をあれこれ見比べたりすることがひどく面倒に感じる栗花落とは大違いだ。自分なんて、生きるために必要な品物を産まれ落ちた瞬間にすべて一括で配布してほしいと思っているほどなのに。コートなんていずれ汚れるだろうに、そうして丹念に皺を伸ばす理由もよくわからない。よほど高価なコートなのだろうか。高価な服を着ていると生活が丁寧になるのだという話を聞くが、その手本を教育として見させられている気分だ。とはいえ、自身のこの性格を鑑みるに、おそらく高価な服を与えられたとして、きっとすぐに怠惰の虫が湧いて適当に洗濯機でがちゃがちゃに回してしまうだろう。物質で人間の性格は変えられない。
「暖房、すこし付けようか。外よりも家のなかのほうが寒いね。北窓だからかな」
寒いね、と言いながら花崎は飄然とカーテンを閉めた。アイボリーの柔らかいセーターが日陰に浸されると、灰とも薄墨ともいえない不思議な色合いに沈んだ。滅紫の陰に蝕まれていく背中で、腕を動かすたびに湖面のように波打つ服のたわみから目を離すことができない。背に穏やかな湖がある。まばたきすら忘れて湧いた唾を飲む。服の下で伸縮する筋肉を想像しないようにと戒める。
その仕草が、たったカーテンを閉めるだけの音が、遮光されて一気に薄暗くなる室内が、どうしてこんなに淫靡に生まれ変わるのだ。魔力すら感じる。マウンテンパーカーを脱いで適当に畳んだ。皺くちゃになった。あつい。わずかな身じろぎに、洗濯の仕方を間違えたウール素材のセーターが軋む。煉瓦色の分厚いカーテンが世界を分断する。だれもしらない。この室内での出来事はだれにもわからない。そう教え込まれていると邪推して息が上がった。ああ。熱い息を吐くと、そのため息を合図にして花崎がくるりと振り返った。薄暗がりに身体と影の区別すら消し去ってしまった花崎は、しかしなにも言わない。ことばを探しているわけではないと、堂々とした立ち姿が物語っている。ぐずぐずに溶けたビターチョコレートで満たされたような昏い居間のなかで、花崎の白目は潤み、発光する。通りをスクーターが駆ける音がいやに大きく響いた。ああ、よかった。この世界にはまだ、生きているだれかがいる。
「暗いほうが落ち着くんでしょう」
嘲りすら窺える口調に、あいまいに頷いた。たしかにそれはある。まるで親切のために暗くしてやっているのだと言わんばかりのせりふなのに、それがすこしうれしい。おまえのことなどお見通しだと確言されているようで、気持ちがいい。
「さあ、相談事でしたね。君の力になれるのかなあ」
そんな不安など抱いていないだろうに、謙遜の姿勢を一応は取るらしい。かといって眉尻が下がるわけでもなく、言葉だけでの姿勢なのだと窺えた。栗花落相手に、ことばだけでなく表情まで背信することはないと思っているのだろう。それがむしろ居心地が良かった。その程度の扱いでじゅうぶんだ。
どうぞと促され、チェアに腰掛ける。革が鳴る。医師は悠然と向かいに座り、卓の上で腕を組んだ。やはりこの感覚は、診察室にいるときのそれだ。
「……先生は、ものをたくさん知ってるから。大学では心理学も履修された……ようなことを、聞きかじりました」
「うーん、心理学って言えるほど大層なものではないけれど。聞いたって、巽くんに?」
わかっているくせに尋ねてくるのは、栗花落に失言をさせたいがためだ。責め立てる隙を引き寄せようとしている。
「はい。詳しくは聞いてませんけど……、たしかに先生の部屋には、ひとの心理や精神面に切り込んだような書物が多いですよね」
花崎の背後に立ち並ぶ書棚に目を向けると、視線を外したことを咎めるように鋭く名を呼ばれた。
「栗花落くん。いまは先生と呼ぶのはやめてほしいな。診察室にいるわけでもないし、僕のことを指しているのか、それとも彼のことか分からなくなっちゃうよ」
なるほど。それで医師も今日は〝私”ではなく、〟僕”と一人称を変えているのだ。
「あ……、すみません。ごめんなさい……」
顔色を窺って謝罪を二度ほど重ねると納得したのか、花崎はウンと頷いて満足げに笑みを浮かべた。
「いまは僕の目の前にいるんだから」
きちんとしてくれないと困るな。そう続けられ、官能の電撃が全身を素早く撫でた。頬の産毛が逆立つ。甘く柔らかい声で嗜められる。粗相をした愛玩動物の気分になれて、わずかな愛のようなものを感じられた。
陶酔に打ち震える栗花落を具に目に焼き付け、花崎は悠然と足を組んだ。頬杖を突き、唇で弧を描いて観察を続けられる。あくまでも会話の主導は栗花落にあるらしい。それもそうか。相談を持ちかけたのは栗花落のほうなのだ。
「あ、あ、それで。その……俺の、この、これは。嘔吐はいったいどうしたら止まるのか。官能先生に……官能先生をいしき、意識、うん、意識しすぎるのをやめたくて……」
言葉や単語を、なるべく自身の抱える感覚に近いものを選び取りながらまごまごと声を連ねる。要領を得ない喋りに相槌すら打たず、花崎はゆっくりとした瞬きだけを繰り返している。
「官能先生にだけ、緊張しすぎちゃう。んです。緊張……なのかな。意識。強すぎる、のかな。先生の存在が強すぎて、落ち着かないっていうか、胃が泡立って、こうして先生のことを思い浮かべて話題に出すだけで……」
胃のあたりを抑えて眉を顰めると、ふうん、といつもの相槌がようやく返ってきた。聞いてくれている。よかった。
「なるほどねぇ……おもしろいね」
まったく興味がないのかと疑ってしまうほどのそっけなさでそう言い放ち、花崎はテーブルの端に置かれた小さな木箱を、中指と人差し指を交互に歩かせて、なまめかしく手繰り寄せた。またそんな、わざと淫猥な指遣いを……。
「恋、しちゃっているってことでしょ?」
「恋……」
恋、なのだろうか。恋い慕う。恋慕。恋……、いまいちピンとこない。どちらかといえば、やはり“信仰”が近いと思うのだけれど。
「恋でしょ。それは。恋の病じゃないの?」
木箱が開く。錆びひとつ浮いていない黄金の蝶番が高質な軋みを闇に投げる。花崎の長い指が恭しく蓋を支え、瞳は横たえた三日月のすがたを象る。
「羨ましくさえ思うけれどね。そんなふうに、体調すらおかしくさせるほどの恋に懊悩しているなんてさ。そしてそれを一心に受ける巽くんも。羨ましい。嫉妬しちゃいそう」
闇が一瞬、紅く染められたのは、いつの間に取り出したのか花崎医師がおもむろにマッチを擦り、炎を灯したからだ。なぜ。どうして。その木箱はいったい。頭の片隅で医師の行動に疑問を抱くのに、その問いは舌に乗ることはない。明らかになにか、へんだ。
「嫉妬……、先生が?」
「なまえ」
「あ、あ。わたる、さん、が?」
「そう。僕のことを好きだったんでしょう。好きだったくせに」
えあ、と喘ぐ。口元で笑みを造りながらも眇められたひとみには焔が、神話に登場するような炎蛇が、アイトワラスが延々ととぐろを巻いて、ぐるぐるぐるぐると……。
吐き気がする。なんだか眩暈がする。窃盗の精霊を幻視したからだろうか。盗まれた? 栗花落からなにを盗み、そして彼はそれと引き換えに、胸の裡でなにを繁栄させる?
当惑するばかりの栗花落を愉快そうに見やり、木箱にマッチを近づける。器用に動く中指が、直腸を撫でるときに似た仕草で蓋の開いた木箱をこちらに向ける。簡素だけれど西洋蘭の彫り物がされたその木箱は、香立て箱であった。紫檀色の三角香がみっつ、箱の中で炎に燻されるのをうずうずと待っている。
「あ……」
やめて、と言いかけたけれど蛇の視線で嗜められた。口を噤む。ただそわそわと、落ち着きなくつんと尖ったお香の先端が炎に灼かれるのを見守っている。火がついた。香る。白檀のような、花のような、不思議な香り。異国の、リトアニアの十字架の丘をなぜか想像して不思議に思ったけれど、単純なはなしだ。花崎の瞳に幻視したアイトワラスの伝承の地が、くだんのリトアニアなことを知っていたせいだった。ついこのあいだ、そういった小説を読んだばかりだ。あれは、たしか花崎に勧められて買った文庫本の。ああ。浮ついた思考がぼんやり、ぐんにゃり、灰色の煙に溶かされていく。
「いまひとつ、香が焚かれたね。これがみっつ焚かれたら、栗花落くんは、僕に犯されるんだよ」
そうなんだ。ぼーっとする。匂いのせいだろうか。それとも、火が灯ったマッチを悪戯に絶えず揺らす医師のせいだろうか。ぼーっとする。リトアニアも精霊も、煙に燻されてどこかへと消えてしまった。いまあたまの中にあるのは、炎。炎。花崎航。炎と花崎航。みっつ、焚かれたら。あとふたつ。あとふたつで。
「さ、話を戻しましょうか」
はっと意識が世界の輪郭を捉える。なにか、いまなにかおかしかった。けれど、何がおかしかったのか判らない。なぜか木箱から煙が立っているけれど、西洋蘭が掘られた蓋が邪魔をして、中で何が燃やされているのか判らない。何を燃やしているんだろう。さっきまで……なにか、見ていたような気がする、けれど……。
「それで、巽くんの反応は?」
医師は手の中でマッチ箱を弄りながら背もたれに体重を預けた。本革のカバーがぎゅむと鳴る。
「え? ああ……っと、別に、これといった反応はない、ですね。気遣いばかりさせてしまって申し訳なくて、より一層、胃がぎゅっと潰される感覚がして、それがイヤなんです」
「へぇ。惚気られてるのかな、僕は」
「え! 違いますよ。そんな。前みたいにふつうに診察してもらって、歯とか抜いてもらったりとかしたいだけなんです、俺は。個人的な繋がりが欲しいとかそんなんじゃなくて、……ただ、ただ、本当は遠くから眺めていたいだけなのかもしれない」
「崇拝していたいってこと?」
頷く。
「まあ、巽くんは綺麗な顔をしてるからね。信仰心を抱くことに共感できる部分もなきにしも非ずといったところではあるけれど」
ふむ、と花崎は宙を見遣った。髭などひとつもない白い顎を中指で摩る。じっと指を見詰めていると、視線に気づいた医師の瞳がこちらへ向き、不敵に笑った。慌てて俯いた。わざと中指を遣うのだ、この医師は。見せ付けるように。また、まんまと引っかかってしまった。
「じゃあ、どうすんの。もしも、もしも巽くんが、栗花落くんを欲しいって言ったら」
「欲しい……?」
ひやりと胃が冷たくなる。こぽ、と消化されたばかりの朝飯が胃のなかで沸いた気がした。
「特別な関係になりたいって言ったらどうするのってこと。恋人とかさ、そういうのだよ」
「こい、びと?」
眉を寄せて首を傾げると、花崎は喉だけで嗤う。喜色と単純な嘲りを同時に感じた。
「本当にただの信仰心なのかなあ。信奉してるだけ? キスとかしたくない? どうしようもなく触れたくならない? 犯されたいとか思わないの?」
「おか……、ンンッ、それは、……思わない、かもしれない、です」
瞳が泳ぐ。出会って間もない頃は診療に託けて、ついでのように性器を歯ブラシで擦られたこともある。その時は鮫島も隣にいて、亀頭が赤く研磨されてルビーのように光るさまをうっとりと眺めていた。そんなこともあった。出会って間もない頃だ。しかし今は……、官能医師がそういった、性器を交えるような、露骨な性接触を拒否する雰囲気を醸していた。鮫島と三人で顔を合わせることもなくなったせいかもしれない。官能巽はどちらかと言えば栗花落の上半身、やはりとりわけ口腔に執心しているようだった。栗花落とてそれで満足しているのだ。神と交わりたいなどとは……想像できない。
「はは、面白い。面白いなあ」
本気で困惑する栗花落を差し置いて、花崎は歯を見せて笑う。
「巽くんがだんだん憐れに思えてきたよ。あれは昔から、とにかく人に勘違いされやすいんだよ。凛としすぎているでしょ。浮き世離れしすぎていて、人間っぽくない。反応も人間味がうすくて、彼と対話していると啓示でも受けている気分になるんだよね。だからいつも巽くんは浮いていてさ。せっかく栗花落くんにはこころを開きはじめていたのに、当のきみが誰よりも巽くんを“人間”として見ていない。見るのを怖がっている。生物としてあまりにも違いすぎるから、憧憬が過ぎるから、同じ〝人間〟であることを認めたくないんだ」
水を得た魚だ。花崎の柔らかい舌はよく回った。狂言回しがごとく舌を回し、ひとりで納得して、やれ痛快だ愉快だと訴える。栗花落は雨のようなことばを一身に受けつつ、身を竦ませた。責められている。花崎の乱射されることばの意味をすべて理解することは出来なかったが、自分の人間性を貶されていると察した。そしてその嘲りが的を射ていることも、諒解していた。
「そうかも、しれません。俺は……官能先生には常に整然と居てほしいのかもしれない。俺の唯一信奉する神として、美しくあってほしいと。決して、俺のことでなんて、いや、人間なんていうもののためにこころを乱してほしくないと……」
ああ、メシア。
「だけど……」
伏していた瞳を上げると、花崎はにこにこと首を傾げた。唇だけでなく、瞼全体で弧を描いている。悪魔の貌だ。
「俺なんかのことで困ったように眉を寄せたり、嬉しそうに瞳を細めたり、そういった先生を見てると……おれもちょっと、うれしくなる」
ぴし、と悪魔の笑みが凍る。
「へえ……」
低い声。意にそぐわない発言をしたのだとはっきりと知らされる。
「まあ、そうだよね。そういうのだと思ってた」
つまらなそうにマッチ箱を弄ぶ。蓋が開く。木箱に中指を添えられる。あ。
世界が、紅く……。
「やっぱり恋じゃないの。なんてプラトニックな恋なんだろうねえ。うつくしいなぁ」
見せつけるようにマッチのまっかな頭薬が、箱の側薬を抉るように摩擦する。炎。ちらちらと炎が。途端に頭が白む。ぼーっと。ああ、そうだ。香を焚かれれば。あとふたつ。
「ふたつめ。ほら、煙が上った。これはね、カトレアっていう蘭と、赤いヒヤシンスを粉末状にして丁寧に、それはそれは丁寧に練り込んで作られたお香なんだよ。知ってる? カトレアの花言葉は〝魔力〟、赤いヒヤシンスには〝嫉妬〟という意味が込められているんだよ」
医師が緩慢な動作で椅子から立ち上がる。長い足が、毛足の長いカーペットに重力をかける。若草色のそれを悠然と踏み締めて進む姿は、エデンの園を闊歩する神を思わせた。ゆっくり、ゆっくりと草原を踏みしめて近づいて来る。いまや空想の天秤は完全に地獄へと傾いてしまっている。喉が鳴る。
「嫉妬の魔力。まさに、お誂え通りだよね。まあ、こういう状況を想定して選んで取り寄せたのは僕なんだけど」
硬直したまま微動だにできない栗花落の背後で医師は動きを止めた。ふう、とつむじに息を吹きかけられ、身が竦んだ。
「相談したいことがありますなんて遠回しなことをしなくても、僕はちゃあんと嫉妬をしているよ。だいじょうぶ、心配しないで」
医師の両手が背もたれにかかる。背後からぬるつく蛇の視線が螺旋を描いて絡まる。
「この煙を嗅ぐとね、身体がどんどん弛緩していくんだよ。どんどん、力が抜けていくんだ。そして、炎が見たくなる。ちらちら揺れる赤が見たくなってこない? 僕の手の中にはマッチがあるよ。一回だけ、すこしだけ擦ればもう火が灯っちゃうよ。どう? ゆらゆらした炎が見たくなってこない?」
いやにねっとりとした蠱惑的なことばは、左耳に集束する。口元を寄せて喋られているのだとようやく気付いた。視線すら動かせない。短く息を吸うと、燻る煙がダイレクトに鼻腔をくすぐった。吸い込んでしまった。身体が弛緩するという、悪魔の煙を。
「ほら、身体がどんどん脱力していくよ。いいよ、背もたれにすがっちゃいなよ。僕はなにもしないよ。だいじょうぶ、ほら、こっちに身体を預けて」
抗えない。ぐにゃんと背骨が形を失い、どっと背もたれに背中がぶつかる。宙を仰ぐ形で顔を上向けると、花の笑顔を浮かべる医師の柔和な表情が窺えた。いいひとだ……。力をうしない、ぐにゃぐにゃと人間としての形を失いつつある自分にこんなにも、やさしくしてくれる……。
ぼーっと瞬きを繰り返して眼球の保湿に努めていると、医師は小さく頷きながらマッチを取り出した。赤い頭薬に目線が吸い寄せられる。こめかみにわずかに汗が浮くのを認めた。乾く唇を舐めて潤したが、結果として舌なめずりのような格好になってしまった。
「こすって。炎、灯してもいいよ」
すっかり神経を抜き取られてしまった指先は、眼前にちらつかせられたマッチ棒をしっかりと掴んだ。はじめて見る文明に戸惑う原初の人類のように、それを見つめる。使い方はもちろん、知っている。
「灯して。きみの手でみっつめを灯すんだ。煙を焚こう。天まで昇るような煙で、神を燻そう。きっと忘れられるよ。きみだけの神様のことなんて、煙のようにふわあって溶けちゃうかもね」
花崎のあつい、燃えるような唇が左の耳朶を擦りながら、湿った声を鼓膜に直接吹き付ける。
「っ……」
身震い。ねっとりとした蜜の官能がうなじを粟立たせる。
「灯して。それに火を付けちゃえば、ほしいものが得られるよ。不可侵の巽くんじゃなくて、ただの低俗な、〝にんげん〟の僕がきみを愛してあげられる。穢してしまう心配もなければ、尊ぶ必要もない。猥雑で、淫奔で、ふしだらな、人間同士の交接をしちゃおうよ」
人間同士の、人間らしい交わり。汗が散り、昏い孔が伸縮して、雄の性器を肉の輪で扱き上げる。何度も何度も、襞のない直腸を突き回される。そんな卑俗的な交尾は、官能医師を相手には想像すらできなかった。
胸の中で本能が求め狂う桃色と、ただひとりの唯一神へ向かう純白の信仰心が拮抗し、ぐちゃぐちゃに混じり合う。震える指がか細いマッチ棒を取り落とすと、花崎は律儀に、やさしく、何度でも握り直させてくれた。前髪を撫でるついでに、中指で瞼を撫でられる。
「きみ、いつも僕の中指ばかり見てますよね。撫でられたいんでしょう。中指で。からだの内側を、くるくると。いいですよ。撫でてさしあげますよ」
喉仏が上下すると、そこも中指で下から上へと摩られる。
「うぅ、……っ」
自炊の日々で生まれたのであろう、医師の指先のささくれが微細な感触でうすい皮膚を掻いた。わずかな痛みに医師がぎくりと手を止める。悪魔めいた内面を秘めているくせに痛覚だけはきちんと人間として機能しているのだと知って、すこしだけ愛おしさを覚えた。医師はそれを誤魔化すように、てのひらをべったりと栗花落の胸部に押し付け、力を込めながらずりずりと降下させる。その手が向かう先なんてとっくに察しが付いている。しかし、てのひらはへその上でピタリと動きを止め、労るように腹を撫でるだけだった。
「信仰と恋は両立するのかなあ。突き詰めれば、身体での交接を律し続けることはできなくなると思うけど。神と交わるなんて禁忌だよ。供物になりたいのかい、きみは」
同情を混ぜた声。悪魔の囁きが内耳で渦を巻く。とろ火での責めに抗うことなんてできない。
シュボッと大きな音を立てて炎が灯った。炎のいい香り。もちろん炎ににおいなんてなくて、香っているのは、硫黄や膠や松脂だのといった混合物なのだろうけど。
「あ、あ……」
うまれたての幽鬼の動きで手を伸ばす。震える炎が香立ての中で今か今かと点火を待ち侘び詫びている、三つめの三角香に近付く。もはや一つめの香は、役目を終えてただの灰に成り果ててしまっている。ずいぶんと長い時間をかけてここまで誘導されたものだと、どこか遠くの方で他人事のように考えている自分がいる。
紅。からの闇。歓喜にふるえる吐息がマッチの炎を吹き消す。煙がふたつ昇った。もう一方は木箱から。
灰色の煙が、花の香りが、魔力と嫉妬の香りが昇る。
すべての精神力を使い果たし、うつ伏せになって卓に倒れ込むと、背に高い体温が覆いかぶさってきた。弛緩する両の手の甲を覆うように捕まえられ、悪魔が湿度の高い声で鼓膜を犯す。
「きみが自分で選んだんだからね」
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