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豚の季節【2】
(2)
穢れろ、と内心で思っていた。
その穢れは感染症でもいいし、絶え間なく身を焼く病魔でもよかった。それなのに、彼の口腔だけは清潔であれと願ってしまうのは商業柄か。内臓が爛れようが手足が壊死しようがどうぞご勝手にという気持ちとは裏腹に、口腔だけはいつであっても潔癖であれよと願うのは、虫のいい話か。
穢れろ、と内心で思っていた。それはきっと、おそらく、確実に、嫉妬の感情が呼び寄せた負の嘆願だ。
嫉妬をしている。すでに穢れきった性根と純潔を持て余し、くすぶらせる〝彼〟に、意味のない嫉妬を向けている。
己の前で、完璧なる潔癖であれよ、と。
官能巽はぐじぐじとした胸中を、捉えどころのない梅雨の夜風に呻かせながら歩いていた。雨が降りそうで降らない。気温が上がりそうで上がらない。まるで曖昧にふらふらと漂う栗花落みたいな夜だった。
磨き上げた革靴が小石を蹴飛ばすことにすら苛立つ。舌打ちはサージカルマスクの中で消滅した。医院を出てからずっと付けっぱなしにしていたことに気づき、それを剥ぎ取ると手の中で潰してスラックスのポケットにねじ込んだ。
向かう先は、くだんの汚らわしい部屋だ。風呂もなければトイレは共用。黴びた手洗い場で、垢まみれの住人が痰を吐き、えずきながら歯を磨いている。アパート自体もどんよりと黴色に澱み、人差し指で柱を撫でるだけで倒壊しそうなあばら屋だ。梅雨時のあのアパートなど想像もしたくない。きっと、建物全体が菌のコロニーになっているに違いない。細菌が、病魔が、ウイルスが、得体の知れない病原体が建物の基礎から滲み出し、木造の合わせ目からおのれの指を侵食する。そんな想像で官能は怖気に震えた。
梅雨は菌の季節だ。
「栗花落さん」
声は控えめに、なるべく最小限の面積で扉を叩く。主に人差し指の第二関節、もっとも尖った部分で叩く。二度叩き、すぐにサマーニットの裾で拭った。麻素材の繊維が孕む空気が穢される気がする。顔を顰め、戸の向こう側に神経を集中させる。反応は無いが、人の気配はする。もう二度、三度と叩き、しびれを切らしてドアノブを回した。開いた。
「栗花落さん?」
エタノールの香り。汚らわしいアパートには似つかわしくない、潔癖の香り。
「ぁ……?」
湿った平たい布団の上で、腹を庇うようにして寝転んでいるのは栗花落潤だ。薄目を開けて、黒目を揺るがせる。部屋の主のくせに、この部屋のなかでは最も存在感が薄い。雑菌のほうがきっと、生命力が強い。彼からは生気を感じられない。紙くず同然だった。
「へ、ん、へ? あん、れ?」
先生、なんで?
そう言ったのだろうが、声量は乏しく呂律は回っていない。
「今日あたりが一番つらい時かと思いまして。往診に来ました」
「ふぇ……」
「どうですか、具合は」
熱が出ているようだ。うっすらと汗ばんだ額にてのひらを乗せると、心地よいのか薄目を閉じて眉間の力を抜いた。だるさが勝つのか、いつもみたいに慢性的な嘔吐は忘れているらしい。勝手が良い。携えていたバッグから滅菌された消毒綿を取り出して手を拭い、親指を唾液でぬかるんだ唇のあわいに差し込む。
「ああ、すごい。こんなに腫れるんですね。軟体動物みたいだ」
穢れろ、と念じていたのに、こうして実際に栗花落潤を目の当たりにして魂に触れれば、胸中で湧いていた呪詛はすべて消え去った。稚気な幼子を見るきぶんで、弱り切った生き物を見下げる。うす暗くてしみったれた自尊心がふわふわと満たされる。
「キャッチをすこし緩めましょう。このままでは舌に埋もれてしまいます。癒着でもすれば大変ですよ。そういった事例は珍しくもないですし。……聞いていますか?」
「ぅん」
「いつもこうして弱っていればいいのに」
下手に抵抗をして、身体を強ばらせて距離を取られるより、ずっと良い。
官能はわずかに逡巡してから、毛羽立つ畳に腰を下ろした。従順に開けられた口に指を入れ、ギチギチに固まりつつあるキャッチをわずかに下げる。腫れた舌とのあいだに隙間を作る。ついでにあまねく舌を観察し、腫れ以外の異常がないことを確認すると持参したうがい薬を口内の暗渠に流し込んだ。
「ウェッ!? う、げほっ、」
「ああ、事前に伝えるべきでした。うがいしますよ。ほら」
むせる栗花落を抱き起こし、唇のはしからしとどにこぼれたエメラルドグリーンの薬液を拭った。エタノールの香りが漂う。それに混じる、栗花落のにおい。すこし汗ばんだ、にんげんの香り。
「もう一度」
わけも分からないまま従う栗花落は、愛おしい。
「なにも分かっていない顔をして、なにをされるかも分からないのに口をあけて。雛鳥みたいですね。給餌の理屈を本能で知っているみたい」
給餌、と言った瞬間、わずかに栗花落の肩が揺れた。露ほどの筋肉を震わせて小ぶりの喉仏を上下させる。なにかに思い至った素振りを見せたが、視線だけで開口を促せば多少の怯えを見せつつも従順に従った。
「もう一度」
「えぁ」
吐き出させた薬液は両手で受け止め、シンクで洗った。生まれてはじめて、鼻歌が漏れそうになった。
世話をしている。みずからの両手を汚し、拒絶をされないまま世話をしている。
いつもはこれは、鮫島の役割だった。かつて玄関先で嘔吐をされたとき、介抱できたのは鮫島だけしかいなかった。それがいまやこうだ。不安げな、熱っぽい視線を背中のすべてで感じている。湿度の高い夜にぬくもった水道水すら冷たい。それほどにいま、官能の両のてのひらは燃えていた。唾液が混ざって粘性を帯びた洗口液すら愛おしい。
鼻歌が漏れた。サン=サーンスの死の舞踏。水垢まみれの黒っぽいシンクを跳ね回る水滴はスタッカートだ。カルキのにおいに官能の澄んだ音色が乗り、あまりにも地獄めいている。しらしらとした切れかけの蛍光灯が、一瞬またたく。ストロボだ。陳腐な舞台装置が今夜こそ輝きを見せる。この夜のために、蛍光灯はいまにも力尽きそうなのだ。この時のためにお膳立てられていた。細菌も、黴菌も、出の悪い蛇口も、がたのきたフィラメントも。すべてが伏線だった。この瞬間を際立たせるためだけの積み重ね。
「つばぁ、にがい」
振り向けば、栗花落が「エ」という声を漏らしながら舌を突き出していた。蛍光灯がもう一度、瞬きを見せる。ぬめった肉の上で震える、小さな銀色の粒。それが硬質なひかりを反射させて、白く光った。
「しばらくはその味が続きますよ。腫れが引けば、なにか食べに行きましょうか。快気祝いとして」
「えぁ、いや、それは……」
光の粒はばつの悪そうな口腔にするりと吸い込まれてしまった。もご、と小さく頬が蠢くのは、舌の異物感を内頬にこすりつけているせいか。
「例えばの話です。なにが食べたいですか。痛みが取れたら。満足に食事をすることが出来るようになったのならば」
水を止め、シンクに軽く体重をかけたまま振り向くと、栗花落は視線を落としてしばし考え込んだ。童顔をしかめ、あぐらをかいてじっと畳を見下ろしている。あんがい、佇まいは若者の男のそれだ。女々しさと、あっけらかんとした粗雑さがアンバランスに混合している。
「……なべ」
口を覆うようにしてついた頬杖のしたでおずおずと発せられた答えには、一切の邪気を孕んでいなかった。ただ純粋に、いま食べたいものを、死んだ脳みそのまま本能で答えたというふうだった。
「これからもっと暑くなるのに、ですか」
負けず劣らず、ズレた返答をする官能の脳も死んでいた。本能のまま、脊髄でそう声を発する。会話のキャッチボールという体にすらなっていない。電気信号のやりとりのようだった。
「それにきっと、たぶんピアスホールに滲みますよ。鍋はその、熱いですから」
「あ、そうか。……つめたい鍋って、ないんれすかね」
聞き取りにくい、くぐもった声。なんとか単語を拾い、官能は眼鏡を取った。まつげが一本、レンズに付着していたことに気が付いたのだ。くだけた空気に触発され、粗雑にセーターの裾で眼鏡を拭く。普段なら決してしないであろう横着な仕草に、自身でも少々面食らう。この黴だらけの怠惰な部屋に浸食でもされたか。
「さあ。想像も付きません」
「せんせぇは、なに鍋が好き、れすか」
「……特には」
「……」
つまらない応えにしばし考え込んでいるようで、栗花落は押し黙ってしまう。ゆるい蛇口から、一定のリズムで水滴が垂れる。官能は相変わらずシンクの前に突っ立ったまま、顎をさすった。無為な時間が流れる。
「さっきの鼻歌って」
「ああ。なんでしたっけ。忘れました」
また沈黙。
湿度の高い、なまぬるい梅雨の夜。刑務所みたいな明かり取りの磨りガラスに、うごうごとした黒い影がゆらめくのは、ヤツデの影か。それとも無花果の葉か。官能の視線に気が付いたかのように、ふいに雨粒がガラスを叩いた。梅雨特有の、やわらかい雨だ。冬の雨粒は鋭い。あれは冷気を孕むからそう思うのだ。なまぬるい雨は軟体だ。錯覚なのだろうけれど。
「今日はもう、薬は飲みましたか」
ぼーっと座り込んでいた栗花落にそう声をかけると、目線がかち合った。ふるふると頭を振る。幾分か伸びすぎた前髪のあいだから、子どものような瞳が上目遣いにこちらを窺う。処方された薬をきちんと飲めていないことを医師に告解することに、ためらいがあるようであった。
「食事は、摂れましたか」
「ぜりぃ。もらいまひた。おーやさん、に」
じぇりぃ、という発音。ちいさな口のなかで腫れた舌が窮屈に蠢いているのだと思うと、途端に可笑しくなった。鼻で嗤ったふうな息が漏れると、栗花落はやはり不安げに視線をふらつかせた。
「糖分はこの世でもっとも尊い栄養素です。羊羹中毒になっていたと鮫島くんから聞いていましたが、あれはさすがに食べ過ぎると身体を悪くしますからね」
「おれ、もう一生、ようかんはいらないれす」
今度こそかすかな笑みがこぼれた。うなだれていたはずの栗花落は弾けたように顔を上げ、濃い隈に影を落としながら目を丸くさせた。
「失礼。すこし、面白かったもので」
「おもしろい、要素、ありまひた?」
「まあ。……さて、あまり長居しても身体に差し障ります。最後に、もう一度だけ診てもよろしいでしょうか」
語尾を下げながら問えば従順に頷くと知っていた。その習癖を利用して、官能はわざと声を落とす。栗花落の瞳がとろける。発熱した患者さながらに座り直す。しゃんとしているつもりなのだろうが、圧倒的な猫背。痩せた腕を懸命に畳の上で突っぱねさせ、開きにくいであろう口を必死に開けて官能を見上げる。
「熱と息苦しさで、いつもの嘔吐感すら忘れましたか。まるで催眠でもかけているみたいですね」
催眠、という単語に、瞳の水分量がわすかに上がった。
「きれいに開いていますよ」
唾液にまみれた鈍色のピアスも、唇も。
ニトリルの手袋の予備はもちろん用意してあった。けれど、官能は意図的にそれを忘却した。室温に馴染んでぬるくなった指で、赤っぽい唇を撫でた。少しだけかさついていて、あわいだけわずかにぬるついている。指を滑らせると、すぐに熱い舌に行き着いた。腫れた肉の上で輝くピアスを指で円を描き愛撫する。へそを撫でるように、慈しむように。
「ぇあ……」
まるい舌の先から唾液の粒が糸を引き垂れる。いつかの銭湯で見た、咳き込む赤い顔を思い出さずにはいられない。あれも、舌の裏側からつぅつぅと糸を引いていた。唾液腺から分泌されたぬめりは、下歯を通り、舌裏から糸引き垂れる。透明な糸と、時折真珠状の唾液の粒がネックレスのように、地表と舌とを結ぶのだ。
両の親指を、内頬に擦りつける。開口器めいた仕草で、口腔を割り開く。痛々しく腫れ上がった舌。なまこみたいに膨らんだ愛おしい舌。穿たれた銀色。淫売のくせに口腔だけは清純だった栗花落に奈落を刻んだのは、他ならぬ自身だ。感染症に罹患しないように、使用する器具は丹念に丹念に磨き上げ、滅菌した。これほどの愛があるだろうか。こんなに愛をひたむきに捧げているのに、この口腔はふしだらに堕ちてしまった。
銀色と肉のわずかな間隙に爪をねじ込む。
「ィ……!」
ギュイ、と栗花落の喉の奥底が鳴った。口を開けたまま悲鳴を押し殺すと、こういう音が鳴るのだ。まるで豚の声だ。堕落した舌の上に、豚の声が乗った。
「こんなに腫れ上がっているのに痛覚があるとは、人体とは難儀なものですね」
興奮を抑えながらそう述べると、栗花落はしとどに唾液を垂らしながら、かすかに瞳を細めた。その細まり方は、朗らかで無垢な少女の笑みにすら似ていた。アイルランドの草原で牧歌を口ずさむような、そんな少女めいた笑み。こんなにも舌を腫らしているのに。金属を埋め込んでいるくせに。
「ピアスなんて、人体改造の最たるものですよね。最もお手軽で、最も身近な。こんなものを埋め込んだって、なんの意味もないのに」
官能の平坦な声に、栗花落は満足げだ。なにかを納得し、なにかに同意している素振りを見せるのだが、真意は官能には理解できなかった。
「せんせ、……」
溜まった唾液を一度飲み込み、再度ぱかりと口を開ける。わずかに尖った犬歯が、唾液の糸を細く細く伸ばす。
うっとりと表情をほころばせる意味は到底理解できないのに、焔を揺らめかせる栗花落の瞳が求めていることはなぜか解った。渇望している。畳の上に置いていた右手を、ひたひたと歩かせる。近付く。足の甲に触れる。靴下のうえから、つま弾く。スタッカートを奏でるように。死の舞踏を踊るように。
「お好きなように、どうぞ」
赦した。頭を撫でると、再度喉が鳴った。今度は豚ではなく、犬めいた音がした。官能の熱い指が汗ばんで、栗花落の髪が絡みつく。まるで髪の毛の一本一本が意志を持ち、愛撫を待ちわびるように指の股をくすぐった。慎ましやかなメデューサ。悩ましい瞳ですがられれば、官能ですらわずかに硬直してしまう。
「あ、へぁ……」
情けない声を漏らして、栗花落は恭しく官能の足先を両手で包んだ。協力してやるためにわずかにつま先を上げると、陶酔の色が濃くなった。スラックスの裾から熱い指が昇ってくる。どこで覚えてきたのか、人差し指で中指を歩かせるみたいに、ゆっくり、緩慢に、昇ってくる。性感と期待を煽る仕草のお手本めいた所作のくせに、待ちきれなくなって指の歩みを早めてしまうのは、栗花落の堪え性のなさのせいか。アダージョはアンダンテへ。アンダンテはヴィヴァーチェへ。性急に、性急に、獣のように、けれどもあくまでも恭しく、靴下のふちに人差し指が潜り込んでくる。短い爪が皮膚を掻く。傷すら付かないのがいじらしい。他人を、ましてや官能を物理的に傷付けでもすれば、きっと栗花落は泣く。
いまにも涙をこぼしそうな表情で、栗花落は官能の靴下を取り去った。歓喜と高ぶりに震える両手ではうまく布地を剥離させられず、官能の細く整ったつま先で、くたりとした布がひっかかって垂れた。まるで神聖な蛇の脱皮だ。黒い皮を脱ぎ、なまなましくつややかな、まっしろい踵が現れる。日焼けという概念を知らない、夜に包まれたうつくしいつま先。光る爪。桃色の爪。節を感じる、平均よりも長い指。
「きれい、せんせぇ、きれい」
神の威光を間近に浴びる信者の顔で、栗花落はひれ伏す。頭を垂れ、頬を足先に擦りつけて濡れた瞳で見上げる。腫れた舌が覗く。よだれが官能のつま先になまあたたかく垂れた。
「ふつうの足です」
そう返すのが精一杯だった。唾を飲み込む音が聞こえないように腐心するも、忙しなく喘ぐ栗花落の耳にはそもそもおのれの呼吸音しか聞こえていないだろう。
肉感の薄い頬をなだらかな足の甲に乗せたまま、栗花落は指を歩かせて官能の足首あたりをくすぐった。浮いた血管の隆起をたしかめ、額を擦りつける。慈悲を請われているようで、落ち着かない。そもそも己は神では無い。こうして涙を皮膚に擦りつけられているだけでどぎまぎと高揚し、それを必死に押し殺しているただの矮小な人間なのだ。
「いいですか、せんせえ。いいですか」
なんの赦しを請うているのか、感覚で悟った。もうすでに栗花落の湿った唇は、甲に口づけを落としているのに。いまさら赦しなど。
「――――望むままに」
へらりと、あまりにも偏差値の低い白痴の笑みを浮かべ、栗花落はわななく睫毛を伏せた。まばたきの拍子に、涙の粒が散る。したたる涎よりもはるかに高い温度。
腫れた舌がおずおずと伸ばされる。肉厚の、熱い舌。軟体動物のそれ。蛭だ。血液ではなく、なにかもっと別の、高位のアイデンティティを吸い取る蛭だ。
捕らえられてしまった。望むままにさせるなんて、きっと官能は取り返しの付かないことをしてしまった。
心底愛おしげに我がつま先を舐めしゃぶる軟体動物には、瞳があった。硬質で、鈍色の、整えた爪に接触するたびにかちかちと鳴る、金属の瞳が。
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