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豚の季節【1】(後編)

   *   *   * 「鮫島くぅん、なんて潤くんが泣くものだから、俺もうびっくりしちゃって。頼られるのは良い気分なんですけどね。だって、一番最初に頼って連絡を寄越す先が俺なんでしょ? うれしいよねー」  間延びした声は、複眼の光線に灼かれて白々しい。背を向けたままの官能医師は一切の口を挟まずに黙々と施術の準備をしている。背中からは不機嫌が窺えるが、彼の所作にはもちろん感情など乗るはずもない。静かに、ただ静かに器具を消毒している。  医師に誘因される吐き気は、すこし前にようやく治まってくれた。  医院の駐車場で一度嘔吐しかけたが、すぐに扉から白衣をまとった鮫島が出てきてくれ、そしてそつなく介抱してくれた。抱きしめてゆったりとした心臓の鼓動を聞かせてくれて、深呼吸を牽引し、絶えず背を撫でてあやしてくれた。  「だって、やってるかわかんないし。歯科でピアッシングするなんて、聞いたことないよ」 「まあ、普通はないよね。最近は、歯の表面にスワロフスキーとかを接着するファッションも流行ってるけどね。ギザ歯とかさ。付け八重歯とか? あんまり衛生的に良くないからねー。センセはそういうの受け付けてないんだよね」 「そうなんだ。えっ、じゃあ俺のは……」 「他でもない、潤くんの頼みだからね。これは診察でも治療でもなくて、潤くんのためだけのサービスだよ」  流れる所作で、違和感も不自然さも抱かせずにウインクをして見せる鮫島にぞっとした。生きている世界が違いすぎて怖い。ウインクを習得する経緯は。普段からこうして片目だけをつむって人との距離を縮めているのか惹いているのか、魅せているのか。ぞっとする。他人から見たビジョンと、気障な仕草をする自身のビジョンとのあいだに隔たりや相違がない人間なのだと改めて思い知った。ウインクをする自身を客観的に見てなにひとつ引け目を感じないその自信と、それに見合う容姿と光度の高い人間性がおぞましい。きっと鮫島は、〝風呂場の鏡で見る自分は格好良く見せるのに、ショーウインドウに映る自分はどうしてこうも野暮ったいのだ〟という感覚を味わったことなんて、人生の内で一度たりともないのだろう。うらやましいことだ。そしてそれは決してうぬぼれなどではなく、鮫島は風呂場であろうが真っ昼間の街中であろうが、いつだってビジュアルの完成度はおしなべてフラットなのだ。寸分の狂いもない金型で造る、メイドイン工場のマネキンのように。 「はあ。……本当に頼んでしまってもいいのかなあ」  後光を放射させる鮫島に目が眩んで、ゆるゆると官能医師の背中に視線で縋り付く。独り言を装ったことばは医師に向けての阿りだったのだけれど、当然、無視された。  半袖のケーシー白衣から伸びる、細くて白い腕がまぶしい。張り詰めた筋肉が見てとれる鮫島の細腕とは違い、医師の腕は単純に細い。女々しい印象もあるが、腕の中程まで這った、わずかに隆起した血管が男性の色香を醸しているのがずるいと思う。栗花落の腕なんて、筋肉のかけらもなければ脂肪もない。粗鬆気味の骨に、わずかばかりの肉質が申し訳程度にまとわりついているだけで、中性的な色気も男らしい隆起もない。あるのは、手首の軟骨が浮き出る、痩せたみすぼらしい腕だ。豚の季節特有の、湿気た二十六度の外気に惑わされて半袖のプルオーバーを着てきたせいでなおさら痩せて見える。居心地が悪くなって腕をこすると、しっとりとしていた。珍しい。乾燥肌なのに湿っている。湿度のおかげか。 「かゆいの?」 「ん、いや。ちょっと汗ばんでるかなって、おもって」  しげしげと自身の腕を見下げては指でかりかりとこするものだから、暇を持て余している鮫島が大げさなほど首を傾げた。鮫島から柑橘が香るのは、流行の金柑成分を含んだヘアオイルを好んで使っているせいだ。このあいだはハニーミルクが香っていたし、その前はサボンフラワーだった。その前は……思い出せないが、いつもいつも違う香りを纏っているということは、それだけの種類のヘアケア用品を所持しているということだ。別世界の人間が過ぎる。髪色も、数日前に会った時とは違い、落ち着いたブルーアッシュに変貌していた。長い間ハイトーンカラーに見慣れていたので、暗髪の鮫島を見るのはずいぶんと久しぶりに思えた。印象が幼くなる。二重の幅が広いせいか、少年めいたあどけなさすら窺える。内面はまったく別ベクトルの人間性のくせに。髪色ひとつで印象も自由自在か。栗花落など、黒髪以外にすると確実に失敗して悪印象しか与えられないのに。栗花落は、喪に服すべくして仕立てられたようなモノトーンしか似合わない。鯨幕こそが最も似合う。それに引き換え、鮫島は光の七原則すら全力でフォローしているのだから恐ろしい。光のほうから、色彩のほうから鮫島に媚びている。世界を構成するものはすべて従僕か。良い身分だ。 「潤くん、ここ。ほら、怪我してる。何したん」  肘のすこし下、とりわけ色素の薄い皮膚を指して鮫島は眉根を寄せた。 「え、わかんない。いま気付いた。でももう瘡蓋になってるしいいよ別に」 「見せて」  なぜ。  鮫島は栗花落の腕を取り、かるくひねって裏表から側面までじっくりと観察している。まるで毛穴のひとつでも数え損ねたら殺される宿命を背負った咎人のように、まばたき一つすらせず乾いた目を皿にしている。あまりじっくりと見られては恥ずかしい。もとより体毛が薄くて生白い腕をしているのだ。そんな視線で炙られては、焦げてしまう。 「やめてよ……」  不貞を働いているはずでもないのに、栗花落はなぜかへんな罪悪感を抱き、官能の方を見やった。もちろん医師は一ミリも立ち位置を変えることもなく、細身のスラックスの皺すら動かす素振りを見せない。ただ黙々と、栗花落の舌に穴を穿つべくニードルとファーストピアスを滅菌消毒するばかりだ。喉が鳴る。ぎらぎらした、白々しいあの細長いニードルが、官能の指の腕力と、ささいな指の力のみで栗花落の処女舌に穴を穿つ。貫通させる。消毒をする。ピアスを嵌める。刻印される。忘れられない痛みをもたらす。数週間に渡る痛みと疼痛と違和を刻み込む。  はあ、と荒い呼吸とともに膝をすり合わせた。鮫島が栗花落の耳にキスをする。 「ね。穴ぁ、開けちゃったらさ、当分ちゅーできないよね。今のうちに、ねえ、だめ?」 耳の穴に直接吹き込まれるささやき声に、腰がうずいた。足指がぞくんと跳ねる。身体を離した鮫島は上目遣いでもう一度、「だめ?」とおねだりしてくる。その目には弱い。うう、とたじろぎ、無駄だとは知りつつも再三、医師に視線を送った。もちろん、無視。消沈と安堵がない交ぜになるふしだらな心のまま、鮫島を振り仰ぐ。チェアに座ったまま見上げると、無影灯は鮫島の暗髪の輪郭を、バイオレットブルーに透けさせた。複雑な色味のカラーを入れたんだな、と的外れなことを考える。ぱか、と口を開けてわずかに舌を覗かせると、鮫島は泣きそうな表情で笑んだ。母親を見つけた、迷子の子どもみたいな顔だった。 「ん」  最後の、まっさらな舌だ。もうあと数分後には、この舌には異物が嵌まる。見納めにしておけという意図を汲み、鮫島は汚れてもいないニトリル手袋を脱いで落とした。さながら、情事のあとのスキンだ。のたくったそれは栗花落の膝上でくたりと身をよじった。ニトリル越しではなく、直接、肌で舌を愛撫したいということだ。 「かわいい……、すき……」  うっとりと呟いた鮫島は、左手で栗花落の舌をつまみ、右手の人差し指でくるくると舌を撫でる。なめらかな舌の表面をくるくる、くるくると撫でる。一定の速度で、一定の力加減で、ただ円を描き続ける。 「ン……あ、えぅ、……っへ、ぁっ」  舌を掴まれているせいで唾液も飲み込めない。緩慢だけれど性感を伴う愛撫にだくだくと湧いてくる唾液は垂れるがまま、糸引き舌裏から滴る。舌を伸ばしたまま湧いた唾は、舌の表面からではなく、裏から流れるのだ。下側の前歯を粘っこく濡らし、つぅつぅと。糸の合間合間に唾液が珠をむすんで、それらがひとつひとつ、無影灯の明かりを真っ白く映していた。栗花落のしとどに濡れた唇から、光が生まれていくようだった。 「ちゅうしよ」  熱に浮かされた、鮫島の舌足らずな声。とろんとした濃密な空間を一気に引き裂く、――――ニードルを銀トレイに叩き付ける音。官能巽の声帯代わりの乱暴な音。怒気の代弁。身を竦める栗花落に対し、鮫島は一切の動揺を見せなかった。瞳がわずかに揺れているのは、単に欲情しているからだ。稚拙であどけない声が、めげずにもう一度、 「キスしようね」  と言葉を紡いだ。  この空気感のなかで、正気か。 「さめじ、……ぅむッ」  咎めるために尖らせた呼びかけも、鮫島のおおきな口にもぎ取られてしまった。あつい口内でくぐもった声が非難を唱えるも、喉でんふふと笑われてあっけなく萎んだ。音を立てて吸われるは、キスの合間に耳をくすぐられるはで抵抗なんてとうに融けきった。あー、と爛れた声を漏らしながら舌同士で交わう。身を乗り出してきた鮫島の唾液がとろとろと口内に流れ込んでくるので、それを必死で飲んだ。音をたてて飲み込むと、耳をくすぐっていた手が愛おしげに頭を撫でてくれて、それがたまらない。とんでもない交接だ。交尾だ。濡れそぼる粘膜をこすり合わせて、声すら飲み込んで、スポットライトめいたまっしろい光の下で腰を揺らして。  一体、なにをしに来たんだっけ……?  とろけた脳みそがほかほかと湯気を立て始めた頃、ふいに光が陰った。 「いつまでやっているんですか。始めないのですか」  わざとらしくライトを消した医師が、重なり合う栗花落たちを見下ろしていた。冷然な瞳。迷惑そうでも、不快そうでもない、ただの瞳。先までの、乱暴に器具を置いた動作とはあまりにもかけ離れすぎた表情。サージカルマスクの青みが白い肌を引き立てていて、栗花落は肩で息をしながらぼうっと見惚れた。 「まずはじめに消毒をしますよ。そののちに舌表面を乾かします。そしてマーキング。あとは穴を開けて終わりです。簡単ですね。どうしてこんなことをしたいのか理解に苦しみますけど。せっかく……美しいかたちをしているのに」  目を眇められたので不快感を露わにしていると思ったけれど、どうやら医師は心底残念がっているようだった。こぽ、と胃が茹だる。しばらく口を閉じられないし、舌を固定されるのに――――、吐き気は、大丈夫だろうか。 「まあ、私が関知するところではありませんけれど。さあ、口を開けなさい。舌を出せ」 「え」  いま、なんと言った。どんな口調をしていた。しらっとした貌をして、天使の輪が浮かぶ黒髪をつやつやと流して、いま、もしかして命令口調で? 「……っ!」  こころが絶頂した。肉体的で即物的な絶頂ではなく、金色に光る山の峰を魂が突き抜けていく感覚。目に映るすべてのものが金色に光って、視界の四方は玉虫色にぐにゃりと歪む。トリップだ。官能医師の、たった一言だけで生きながらに転生した。いまこの瞬間、舌を垂らしながら生まれ変わった。さながらカーリーか。開放的なニューエイジソングを浴び、踊りながら踏みつける相手は誰だ。誰が栗花落の振動を止め、この世界を護る。 「ぇあ」  名残惜しく、鮫島は栗花落の舌を吸い、眉根を寄せてもう一度舌を甘噛みする。心底口惜しいのか、もう一度唇が降っらせようとしていたが、栗花落の指がそれを押しとどめた。へたをすれば鮫島の涙が落ちてきそうだったからだ。それは困る。 「も、もういいでしょ。あ、お、お願いします先生」  せんせ、まで言いかけたところで一度えずいた。おえ、と小さく喉を鳴らし、医師の無感情な視線に射止められる。 「開口器は邪魔になるので嵌めません」  官能は少々残念そうに声をひそめ、はさみに似たかたちのフォーセプスという器具を光の下でゆるりと振った。舌を固定し、まっすぐニードルを刺すための器具なのだが、無論歯科においては不必要な器具だ。もしかして、医師が自腹で用意したのか? 「それ……」  費用は、と危惧する視線に気が付いたのか、官能はそっけなくため息を吐いた。 「まったく。今日これっきりしか使用しない器具なのにつくづく私も酔狂ですよ。取り寄せました。まあ、これで栗花落さんの舌を挟んでみたいという興味があったのは事実なので無為な出費とも思いませんが」  鮫島が身体を引き、自身の肘を意味もなく撫でさすりながら妬心と悲痛のまなざしを官能医師にぶつけていた。そのまなざしの光度は複眼のライトすら凌駕する。光線から外れた位置で仰向けになったまま、馬鹿みたいに舌を出してニードルを待つ栗花落すらチリチリとした焔に類焼しかけた。 「位置はここくらいですか。舌の中央には神経が通っていませんからね。うまく行けば痛みはそこまで無いはずです。……栗花落さんは、〝痛いこと〟をご所望でしたか?」  首を振る。さすがに粘膜を貫くという未知の痛みには恐怖感があった。 「ならば、この辺りか。いや、もう少しこっち……、口を開けたときにかすかにシルバーが光る位置。歯にあたるカチカチ音があった方がよかったりします?」  逡巡。ののちに頷き。医師から施されたという記念を、常に意識していたい。 「そう。ではもうすこし下側の……、ここか。うん。ここだ。ここがいい。鮫島くんはどう思います?」 「俺は、もうすこし下がいいと思います」 「なるほど。……聞いてみただけです。位置はこのままでいきます」  なぜ聞いたのだ。  あんがい、医師は子どもっぽく、負けず嫌いで意地悪だ。不穏にピリつく茨の空気のなかで、栗花落はされるがまま人形になる。鮫島は苛立ちを露わにしつつも興味を抑えることができないのか、医師の隣に陣取って舌を撫でられ続ける栗花落を真摯に観察していた。ともすれば殺意すら窺えるほどの熱い視線で。 「いいですか? 穿ちますよ」 「ひぇ!? も、もお?」  震えた。医師の右手には、ニードルが無機質な光を放ち畏まっている。その先端は注射針のように斜めにカットされ、皮膚を突き破ることだけに特化している。想像していたよりも太いニードルが、舌の上にインキで描かれた一点へと向けられている。燦然とした無影灯の明かりをびかびかと反射させるそれは、医師の冷たい瞳によく似ていた。 「ィ……!」  きゅい、ともピュイ、ともつかない不明瞭な鳴き声が栗花落の喉から迸った。  さながら、豚。 「こんな感じか。思ったよりもするっと通る」  誰に向けるでもない、ぽつりと零された医師のせりふは平坦で、精彩を欠いていた。栗花落は泣きたくなった。もしかしたら、己の舌に針を突き入れて貫通させることに、医師もまた自身とおなじような快感や優越感、背徳感、責任感などを感じてくれるのではないのかと期待していた。というよりも、ゆるぎなく信じていた。熱い息を零して、針を突き入れて恍惚の瞳で栗花落を見下げてくれるのだと信じて疑っていなかった。 「ぅ、え……」  震える舌を突き出したまま、栗花落は視界を滲ませる。舌の中央からやや下の位置に入ったままのニードルがわずかに震えるのを、感覚で悟る。栗花落の情けない泣き声に医師の指が震えたのだと知った。 「痛いですか?」  窺うように、医師の黒目が上下する。純白の白目には血管が一筋。 「潤くん、びっくりしちゃったね。痛かったね」  鮫島のあやす声はとびきり優しいのに、その目は爛々と輝いている。熱に浮かされる視線が、栗花落の舌に刺さったままのニードルを炙る。  実際、痛みは大したことはなかった。ぶつん、という貫通する音が鼓膜に響いたのは幻聴かもしれないし、どちらかといえば予後の腫れの方が心配だった。この全身を支配する病垂のようなかなしみは、やはり医師が処女舌を貫通させる行為にいっさい紅潮しなかったことにだけに起因する。  医師は訝しがりながらもてきぱきとファーストピアスを差し込み、ニードルを引き抜いた。  きゅう、とまた栗花落の喉が鳴る。 「はい、完成です。よかったですね」  キャッチをくるくると捻りながら装着され、栗花落の舌はぞんざいに解放された。 「きれいに空いてるよ、潤くん。おりこうにしてたから、まっすぐ空いてる。……はぁ、これもこれでかわいいなあ、潤くん」 「ぇあ」 「しばらくは舌が腫れて満足に食事は摂れないと思うので、健康飲料やゼリーで凌いでください。洗口液でのうがいは忘れないように。痛み止めと、胃薬を出しておきましょう」 「おかいさんなら食べられるかな。潤くん、俺の作ったおかいさん好きだもんね」 「うー」 「無理に舌を動かそうとしないで。あまりに腫れて呼吸が苦しいようなら電話を……かけても喋られないか。まあいいでしょう。栗花落さんからコールがあれば私が赴きます」 「らいほうる、れう」 「俺が付いていてあげるから大丈夫だよね、潤くん」 「いああい」 「鮫島君は大学があるでしょう」 「センセ、ご心配なく。それくらい平気です」 「いああいっえ、いっえう」 「平気ではないでしょう。学校、撮影、うちでの勤務。それに栗花落さんの介護ですか。どう考えてもオーバーワークです。この人は舌が膿むくらいではびくともしませんよ」 「ですから、心配はいりませんよ。今までだって、俺はぜぇんぶきちんとこなしてきました。それに、潤くんはお世話しないとすぐ栄養失調で倒れるんです。センセイは知らないと思いますけど」 「知っていますよ。栗花落さんがどうしようもない生活無精だということは。だから引っ越せと再三言っているんです」  明瞭で矢継ぎ早な会話に、もごもごと不明瞭な母音で返事をしているうちに、ばからしくなってきた。口内でじんじんと脈打つ舌を捻ると、かり、とステンレス製のキャッチが下前歯に当たって軽やかな音を立てた。  まるで永遠に溶けない飴を含み続けている気分。剣呑な目線でやりとりをする医師と助手を逆光に沈ませながら、栗花落はまぶたを下ろし、味のしないキャンディーをいつまでも転がし続けた。     *   *   *  翌々日の舌の腫れには目を見張るものがあった。よくもまあここまでぶよぶよと膨れ上がるものだと感嘆の声さえ漏れ出た。やはり豚めいた鳴き声にしかならなかったけれど。  アパート共有の、檸檬セッケンの泡がぽつぽつとこびりついた、黴びた鏡の前でなんども舌を出しては、自身の口内が作り替えられてしまったという事実に酔いしれた。この舌を肥大化させたのは、紛れもなく官能医師そのひとだ。バイオレットネオンの壇上で股間を潰されかけ、陰嚢が二倍に腫れ上がったこともあったけれど、その時とは性質の違う高揚。陰嚢を破壊されかけたときは、明らかに死へと向かう儀式めいた、暗く静かで後ろ向きな高揚であったのに、今回のこれは、まさしく光へと向かうリビドーの愉悦であった。生きている。この腫れこそが、呼吸のままならなさが、絶えず感じる舌の鈍痛が、圧迫が、痛み止めで荒れる胃が、そのすべてがたまらない恍惚へと栗花落の魂を打ち付けていた。今もこうして。 「邪魔じゃ」  リビドーの波間にたゆたう栗花落を現実にたたき堕としたのは、大家のしわがれた声だった。酒焼けをした空虚な低音を発する老婆で、身なりは襤褸なのに入れ歯だけは異様にぴかぴかしている、よく分からない人だった。 「ふぁ、ふいまふぇん……」  不明瞭にふかふかとした謝罪に、大家は眇めた瞳をさらに細めた。胡乱な態度ではあるが、てきぱきと洗面台下の収納スペースに牛乳セッケンの青い箱を詰めていく。どうやら長年栗花落の衛生面を支えてきた檸檬セッケンは、とうとう引退の時を迎えたらしい。網に捕らえられてぶら下がるあの姿が好きだったのに。 「なンだい。歯でも抜けたんか。大方、ぼやーっとして殴られたんじゃろう」 「ふぇあ」  べ、と腫れた舌を見せつけると、大家はバケモノでも見たかのようにすっとんきょうな声を上げて大げさに驚いた。 「なぁんだいそれ。あんた、そんな度胸があったんかいね」  おぞましいねえ、とスッパリ言い切る大家に、栗花落は笑った。感じたままの反応を見せてくれる大家は、ひえぇと怖がりながらも栗花落の舌をまじまじと見て、再度ひえぇと仰け反った。 「きょーてー。きょーてーなぁ。黴菌が湧かんやにしんされや。ああ、きょてぇ」  きょうてえ、というのが岡山地方の方言で〝怖い〟という意味を持つことは知っていた。そういえば大家は岡山の出であったと思い出し、満足して舌をしまった。 「あンた、ぜりー食べられぇ。ぜりー」  じぇりぃ、という発音で差し出されたビニール袋は、老婆の枯れ枝みたいな腕に絡みついていたものだ。袋の中にはふたつ、くだもののゼリーが入っていた。 「孫ぉにやるつもりじゃったけんど、まあええじゃろ。食べなはれ」 「いいの?」 「ええ。ええけ。折角ちいたぁ太ったかと思っとったのに、こいじゃまーた痩せるが」  迷惑そうな表情をありありと浮かべたまま、大家は栗花落の手にむりやり袋を持たせると、片足を引きずって陰気な洗面所を去って行った。ビニール製のサンダルが打ちっぱなしのコンクリに擦れる音が緩慢に響き、やがて気配ごと消え失せると、栗花落はビニールを胸に抱えて苦笑した。  

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