20 / 22

豚の季節【1】(前編)

 湿った粘膜に、光沢のある鈍色というのが良いのだろうか。  あまりにも質感が違いすぎるそのふたつが合わさることによってとんでもない相乗効果を齎すような気がするのだけれど、と、豚の季節に思う。豚の季節というのは、つまり初夏だ。なぜ初夏と豚がイコールで結ばれるのかというと、幼少期のころ、一度だけ連れて行かれた母方の親戚の生家――――菊塀馬村という山奥の僻地で、夏祭りに興じるでもなく虫取りをするでもなく豚や鶏や牛といった家畜の世話をしたことがあるのを強烈に覚えているから。いまでは隣村との合併によって菊塀馬という地名は消滅しているが、あの蒸した雨上がりの畜舎のにおい、あれだけはいまだに栗花落のかよわい鼻粘膜に染みついているような気がしてならない。幼い頃から鼻炎気味なのは、あのときのにおいに鼻がやられたせいなのだと勝手に確信している。  とはいえ、畜舎が独特の臭いを放つのは致し方ないのだとして、あれほど強烈な臭気に変化したのはひとえに豚が集団変死したせいに他ならない。家畜の臭いと表現するには常軌を逸脱した臭気は、高温多湿に後押しされて前代未聞の悪臭事件となって代々語り継がれる羽目になった。  閑話休題。つまり本格的な夏が訪れて、ピアスホールが痛んだということだ。  栗花落の耳たぶは処女である。破瓜は訪れていない。まっさらで、シミのような薄いほくろがひとつと、あとは目視のむずかしい産毛しか存在しない耳たぶを所持している。ではいったいどこにニードルを穿ったのかというと、……舌だ。 (1)  梅雨の盛り、曇天の日に、栗花落はピアススタジオを訪れた。ピアッシングというものへの興味を持ったきっかけは何だったか。たしか動画サイトで見た、性器へのピアッシング施術動画にひどく惹かれたのが始まりだったように思うが、はっきりとは思い出せない。もしくは、顔面に漆黒のタトゥーを入れたアングラサイトの有名人が、悪魔めいた相貌に似合わぬ甘い声でアカペラを披露し、その際にちらちらと舌の先っぽに銀輪のピアスを覗かせていたのを見たからか。これも動画で見た。コーラル色のライトアップにやわらかく照らされる、唾液に湿ったピアスというのはとても蠱惑的に見えた。のだが、…………やはりはっきりとは思い出せない。もしかしたら夢だったのかもしれない。あとは、気弱そうな男子学生が、黒マスクをずらしてあくびをした瞬間、きらっと舌が光ったのを目撃したせいか。あれにはさすがに驚いた。電車の真向かいに座っていた小柄な少年が、まさかあんな光輝を口内に宿していたとは。とてもではないが、舌にピアスを開けているとは思えない外見をしていたのだ。舌どころか、耳たぶにすら傷ひとつ付いていないだろうと思わせるほど清純な学生だったのに、ひとたび口を開ければそこには淫靡なホールがある。秘匿している。これほどまでに鮮烈な光景を、栗花落は知らない。それまで読んでいた文庫本の内容なんて、彼の舌上で慎ましく光る銀色にすべて灼かれて消えてしまった。栗花落は眼鏡を押し上げ、文庫本を目線の高さにあつらえたままじっと向かいの少年を見つめ…………そして、その熱い視線に気が付いた学生は黒マスクに細い指をかけたまま、今度は明確な意思を持って栗花落に舌を出した。  あのときの高揚、あれは今でも背筋に生きているのできっと夢ではない。そう、つい三日前の出来事なのだ。  ああ、ということは栗花落にピアッシングの魔を教え込んだのは、あの名も知らぬ、たった数分だけ同じ空間で同じ酸素を共有していたあの学生だということになる。つまり先述の施術動画も、素晴らしいアカペラを披露したアングラサイトのデーモンも、あまねくすべて学生の前座だったというわけだ。もしくは下地。学生の舌に芽吹いた銀色の結晶を、最高点で美しく、淫らに見せるための伏線でしかなかった。アーメン。見事すぎて、劇場であればスタンディングオベーションをしていたに違いない。あっぱれ。これはもう、あの学生が秘密裏に仕込んだ陰謀としか思えない。そう思っても罪にはならない。栗花落はそう信じ、淫靡な学生に誑かされた興奮を勝手に噛み締めて絶頂する。    *   *   *      絢爛たる飲み屋街のビルの一角、地下の貸し部屋がスタジオになっていた。  エンプーサという、雌カマキリを指す神話上の生物を冠する店名に惚れてろくすっぽ調べもせずも予約したのだが、それにしてもこの外観。クレマチスの造花が、地下へと伸びる階段の両側におびただしいほどに活けられ、そしてその奥にはハンドル式の水密扉が不貞不貞しく迎えてくれる。実際に潜水艦などに取り付けられていたものを改造しているのか、鉄製の扉には腐食痕や赤錆が見られる。異様な威圧感だ。躊躇している間にもバルブが回り始める。わずかな隙間から、熟れた麝香が漂う。 「お客さん?」  オリエンタルなドアチャイムを鳴らしながら出てきた強面の店員は、麻素材のトートバッグを抱きしめたまま硬直している栗花落を見下ろして首を傾げた。うなじからは蝶々結びになったサテンのリボンが垂れているが、洋服の装飾ではない。素肌だ、素肌が編み上げられているのだ。うなじに等間隔に穿たれたピアスを、リボンが縫う形で編み上げられている。異様に背徳的で、うっすらと桃色に色づいた金属周りの皮膚が盛り上がっていて、毒々しくもなまめかしい。 「あ。あの……。あの、あの、えっと」 「お店、間違えてない? 未成年が来るところじゃないよー。本屋はあっち、隣の通路。あ、それとも塾? それなら全然ちがう通りだよ。宮縁通りに入ると黄色い看板あるからすぐ分かると思う。分かりそう?」 「えっ? あ、あの……、はい。ありがとうございます……」  愚鈍に立ち尽くす地味な栗花落を、我が店に用事のある客だとは思い至らなかったようだ。そもそも未成年だと信じて疑っていない様子で、店員はぶっきらぼうな口調ながらも親切に説明をし、手を振って送り出してくれた。よもやこの流れで「予約をしていた栗花落です」と言い出せるはずもなく、促されるままに回れ右をして、従順にとぼとぼと通りを抜ける。振り返ると、店員はいまだ店先で怠惰に手を振ってくれている。緩慢な動きに合わせ、きっとあのリボンは揺れているのだろう。  一世一代の決心はこうして無残にも散った。一分にも満たない時間で。  一度折れた決心は、並大抵のことでは復活しない。忸怩たる思いと不甲斐なさからえぐえぐとすすり泣き、スマートホンを手繰る。少ない連絡先のひとつ、最もよく使用する電話番号をプッシュして、栗花落は吠えた。

ともだちにシェアしよう!