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日常の中の非日常

 普段なら絶対に着ないだろう墨色の縦縞ストライプ、背抜きのジャケットの下には生成の麻シャツ。わざと開けた胸元には細い銀のネックレス。どれもこれも繊細で、ちょっと指を引っ掛けたなら容易にちぎれそうなものばかり、敢えて選んで身に付けてきた。  薄い色合いのグラサンで視線の方向を隠し、これまた普段は吸わないメンソールの華奢な煙草を銜えて待つ。通りの向こうからしきりにこっちを窺ってるアイツに、ちょっとした悪戯を仕掛ける為の出来心。俺ってホント、ヒマな奴……。  けど、今日くらいは多少ハメ外したっていんじゃない?  いつもはぜってー言えない台詞も、今日なら言える気がすんの。  照れ臭くてできねー誘いも、今日ならきっとできそうな気分。  バクつく心臓を抑えてアイツをベッドに誘ったら、俺の方から押し倒してヤツの腹にまたがって――  戸惑うヤツを見降ろしながら大胆なくらいの仕草で脱いで見せる。ベルトをゆるめて、ジッパーを降ろして、そしたら少しくらいはヤツの欲情に灯を点けることができるだろうか?  体勢を覆して俺を組敷いて、このちぎれやすいヤワなシャツを引き裂くくらいに余裕を無くしたアイツの顔が見てみたい。  いつでもやさしく、照れ臭そうにしながら抱かれることが不満なわけじゃ決してない。だけどたまには激しく乱暴なくらいにされてみたいって思うのは贅沢な望みなんだろうか?  息継ぎもままならないくらいの濃いキスで掻き回されたい。こっちが辛くて、やめてくれって懇願するくらいの乱暴な愛撫で全身を掻き毟られてみたい。そうだよ、一度でいいからめちゃくちゃに愛されてみてえんだ――! ◇    ◇    ◇ 「うわ、エッロ! 何これ――?」  テーブルの上に置かれていた台本のページをパラパラとめくり、そう言ってニヤッと口元をひん曲げたのは氷川白夜(ひかわびゃくや)だ。癖のない長めの黒髪を形のいい指先ですくい上げながら、彼の長身には窮屈そうなパイプ椅子を引いて腰掛ける。ここは役者たちの所属事務所の一室だ。  今現在、約十名程の男優の他に、ごくたまに契約で派遣されてくる女優が極僅かといった規模のこの事務所では、いわばボーイズラブ、メンズラブと称される男性同士の恋愛をテーマにしたドラマを制作している。氷川はそこで活動している役者というわけだ。 「おい、勝手に弄るじゃねえ。それ、俺ンだ」  氷川の広げていた台本をヒョイとかっさらい、その対面の椅子を無遠慮に引いて腰掛けたのは一之宮紫月(いちのみやしづき)、彼もまたこの事務所に所属している役者の一人である。  氷川とは対照的な茶髪の癖毛は、思わず手に取って触りたくなるようなやわらかそうな質感がふわふわと顔周りを覆っている。全体的に長めのミディアムヘアといったところだが、色白で整った顔立ちによく似合っていて、なんとも艶めかしい。黙っていれば完璧な色男といったところである。そんな雰囲気にそぐわないぶっきらぼうな物言いに、氷川の方は恨めしげな視線だけを彼へと向けた。 「相変わらずだな紫月よー。てめえのその無愛想、何とかなんねえのかねぇ」  半ば呆れたように言い放ちながらも、それとは裏腹に手元にあったカセットコーヒーを二人分セットして話を続ける。 「てめえも飲むんだろ? 砂糖は三つ? 四つだっけ?」 「四つ」  氷川の方には視線もくれずに、取り返した台本に目を通しながら、これまたぶっきらぼうに短い台詞を返す。傍から見れば奇妙なやり取りだが、彼らにとってはこれが通常らしい。一見、高飛車ともとれる無愛想な返事でも、そこに何の他意もないことを互いによく知り尽くしているのだ。 「砂糖四つね。はいはい、かしこまりましたぜ女王様!」 「んー」 「で、それって新しい台本? また受け男(ウケオ)の役かよ」  先程ちらっとさわりを読んだだけだが、どう見ても『誘い受け』と取れる出だしを冷やかすような口ぶりでそう訊いた氷川に対して、一之宮紫月は読み進めていた台本から視線を上げ、チラリと対面を見やった。 「受けって言うなよ……そんでなくても最近タチ役滅多に回ってこなくてヘコんでんだからよー。さっきクマちゃんから受け取ったばっかなのー。今日から読み(台本の読み合わせ)始めるんだと」  クマちゃんというのは彼らのマネージャーで、名を中津川耕治(なかつがわこうじ)という。歳は三十そこそこの独身で、何ともおっとりとした、人のいい性質の持ち主である。まさにぬいぐるみのクマのような体型も手伝ってか、役者連中の間ではそんなあだ名で呼ばれているのだ。そのクマちゃんから受け取ったばかりの台本を再びテーブルの上に放ると、淹れたてのコーヒーの香りを一嗅ぎしてから、紫月は満足そうにそれをすすった。と同時に彼の手から空いた台本を再び手に取り、氷川は先程の続きに目を通す。 「わ、すっげ! お前、服ひん剥かれちゃうんじゃん! 見事に誘い受け成功ってか?」 「……誘いって、あのなぁ……俺、別にそーゆー気ねえし」 「だってこれ、それ以外の何ものでもねえじゃん。めちゃめちゃにされてえとかさ、すげえ積極的なのな」 「るせーよ。いーからそれ返せって」 「ケチなこと言うなよ。それよかお前、これって相手誰がやんの? さっき本もらったってことは、もしかして俺ってこともあり?」  紫月よりも遅くに顔を出した氷川は、事務所に着いてからまだマネージャーのクマちゃんとは顔を合わせてはいない。つまりは相手役が自分の可能性もあるはずだと、期待に満ちたような表情でそう訊かれて、紫月は半ばニヤけ混じりでわざと知らん顔を決め込んだ。ちょうどその時だ。 「はよーっす……」  事務所のドアが開いて、また一人長身の男が現れた。夏場だというのに革製のジャンパーを着込んで、肩にはリュックのような物を背負い込んでいる。氷川には数センチ及ばないものの、結構な長身で、肌蹴た革ジャンの中から覗いている胸板も逞しい相当な男前だ。少し癖のある黒髪が端正な目鼻立ちに似合っていて、オリエンタルな雰囲気が何とも色っぽい。そんな彼の手に握られていた見覚えのある台本を目にするなり、氷川がすっとんきょうな声を上げた。 「……ッの野郎、遼二! もしか、てめえが今回の相手かよ!?」  パイプ椅子を倒す勢いで立ち上がった氷川に驚いて、遼二(りょうじ)と呼ばれた男は怪訝そうに片眉をしかめてみせた。 「いきなり何だ……?」  事務所に着いて早々これでは、訳が分からないのも当然だろう。二人のやり取りを見ていた紫月は、コーヒー片手にクスッと鼻先で笑みを漏らした。 「やっぱお前が相手役かぁ」 「やっぱって何……?」 「いや、これの話! 新しい話の配役、俺の相手は誰がやんのかってコイツがうるせーからさぁ」  手にしていた台本をブラブラと揺さぶりながら事の成り行きを二言三言でそう説明した紫月の言葉を遮るように、今度は氷川自らが身を乗り出して口を挟んだ。 「おいこら、遼二! お前、この台本いつもらったんだよ!」 「は? いつって……昨日の夕方だけど。帰り際にクマちゃんから渡された」  今ひとつ経緯が掴めていない調子で暢気にそう返されて、氷川は大袈裟なくらいのゼスチャーで頭を抱えると、再びどっかりパイプ椅子へと身を沈めた。 「ちぇー! まーたてめえかよー。毎度毎度美味しい役ばっか持っていきやがって……」 「はぁ? オイシイって何よ? さっきっからワケ分かんねえ」  相槌を返しながらふと目の前のテーブルに視線をやれば、淹れたてらしい湯気のたったコーヒーが二つ並んでいる。遼二は迷うことなく氷川の飲んでいた方のカップを取り上げて、旨そうに一口をすすった。 「あっ! おい、こらっ……! それ、俺ンだ」 「ああ知ってる。ちょっともらっただけだ、ケチくせえこと言うなよ」 「何で俺のなんだよ。紫月の飲みゃいいじゃん」 「ああ? だってコイツのはめちゃめちゃ甘いし。てめえのはブラックだろ?」  これまた当たり前のように言われては返す言葉がない。ほぼ毎日を共に過ごす中で、互いの嗜好をよく知り尽くしているのだ。遼二は悪気のかけらもなく、もう二口程をすすると、カップを氷川の前に戻して飄々と腰掛けた。そして見るからに暑そうな革ジャンを脱いで背もたれに引っ掛ける。すると今度は相反して裸も同然のようなタンクトップ姿になった様子に、苦虫を潰したように氷川が片眉を吊り上げた。 「は、今日もバイク出勤ってか? 炎天下の中、革ジャンってさー、ご苦労なこったな! つーか何、このエロタンク……乳首が透けて見えてんぜ?」 「はぁ!? 見えねえって! コレ黒だし……」 「いーや、見える! てめ、またそんな格好で紫月をコマすつもりかよ」 「コマすって何だ、バカッ……! 人聞きの悪ィこと言ってんなよ……」  少々ぶすくれ気味でそう返すも、それとは裏腹に頬の色が染まったのを見て、氷川は悔しそうに彼の頭を小突いた。 「何赤くなってんだ! おっ前、マジでコイツ(紫月)に惚れちゃってんじゃねーの? 役と現実がごちゃ混ぜンなってたりして」  まるで何でも知り尽くしているとばかりの表情で、冷やかすようにニヤーっと覗き込まれては分が悪い。 「ンなことよか、てめえの方は今日から香港の実家に帰省するんじゃなかったっけ? 下で側近の人たちが待ってたみてえだぜ」  そう、ここへ来しなのロビーの片隅で、なるべく目立たないように気遣いながらも数人の男たちが人待ち顔でいるのを見掛けた。彼らが氷川の連れであることは知っていたから、軽く会釈だけは交わしてきたのだが、それにしても相変わらずの物々しい雰囲気をまとった男たちだ。少し離れた路面には、これも氷川の為のものであろう黒塗りの高級車が停まっていたし、ビルの入り口の回転ドアを挟んだ内側と外側にそれぞれ二人づつくらいが周囲に気を配りながら立っていた。過剰な警備といったところだが、それもそのはず、実は氷川という男はチャイニーズマフィアの一家に生まれ育ったという境遇の持ち主なのだ。 「あー、そろそろ行かなきゃだな。名残惜しいけど……」  遼二の指摘に手元の時計を確認し、テーブルの上に置いていた煙草とライターだけをポケットに突っ込むと、そそくさと席を立ち上がった。 ◇    ◇    ◇  氷川の父親は中国人で、現在は香港に在住しているマフィアの頭領だ。母親は日本人で、氷川はいわば妾腹ということになるらしい。腹違いの兄が一人いて、つまりは本妻の息子に当たるわけだが、兄弟は二人きりだったこともあり、比較的仲も良く育ったようだ。その上、義母ともわだかまりなく過ごせているというのだから、ある意味他人に好かれる性質なのだろうか。まあ気さくなのは確かだし、立場をひけらかすことも無ければイキがることも皆無で、見掛けによらずマメなところもある。そのせいか、事務所の役者仲間たちにも受けがいい。  とまあ、不思議な魅力の持ち主であるそんな氷川だが、役者業の他にもきっちりとファミリーの役目は担っているようで、現在はこの日本で企業の経営を任されているといったところだった。氷川白夜という名前も全くの偽名というわけではないが、主に日本在住時に使用しているものらしく、『周焔白龍』というのが本来の名前だそうだ。彼の役目は組織の資金作りが本来の目的らしいが、表向きはどれもクリーンな営業である上、どうやら氷川には経営の才能があるらしく、いずれも順風満帆の様子だ。その経営上の繋がりで、氷川のファミリーには古くから懇意にしている日本の企業がある。名を粟津(あわづ)家といい、日本国内では有数の大財閥だが、彼らとは親戚ぐるみの付き合いをしていて、そこの嫡男である帝斗(ていと)という青年が氷川と同年代であった為、幼馴染のようにして育った間柄らしい。実はその帝斗もこの事務所に所属している役者の一人で、父を継ぐ修業の傍ら、役者業を楽しんでいるという男だった。  その帝斗というのがこれまた少々変わった性質の持ち主で、ボンボン育ちという似たような境遇も手伝ってか、氷川とはかなり気が合うらしい。大財閥の御曹司が何を好きこのんで役者をやっているのかと不思議に思うところだが、当人に言わせれば趣味と実益を兼ねた人生のスパイスなのだそうだ。彼もまた氷川と同様で、御曹司という境遇に似合わない気さくな性質の持ち主であった。  そんな帝斗の紹介で氷川もこの事務所に顔を出すようになり、役者業に首を突っ込んでいるわけだが、実際のところ趣味の域である。だが、ご覧の通り事務所の仲間とも気が合うし、何より本人が好奇心旺盛なこともあってか、来た役を面白半分でこなし続けている内に、予想外にどっぷりとはまり込んでしまっているのが実情といったところだ。そして今しがたの遼二の指摘通り、今日から香港の父親の元に帰省することになっているらしかった。 「そんじゃ、お先! 邪魔者は退散すっから、ま、がんばれや! あ、そうだ”遼二君”、帰ってきたらしっかりノロケ話聞かせてね」  ニヤーっとしながらこれ見よがしに肩を撫でたと思ったら、あっという間に身を翻し、事務所を後にした。残された遼二は唖然と突っ立ったまま、苦虫を潰したような顔付きで瞳をパチパチとさせている。もともと愛想があるとはいえない紫月は、素知らぬ顔で氷川の淹れていったコーヒーをすすっているといったマイペースぶりだ。 「……ったく、何なんだか……あの野郎ったら相変わらずだな? あれでマフィアだってんだから信じらんねえよ」  何とも賑やかしいことこの上ない。まるで嵐の過ぎ去った後のような静寂の中で頭をひねっている遼二を横目に、ようやくと紫月がマイペースなポーカーフェイスを崩して、笑みを見せた。 「ま、あいつにゃマフィアよかコメディアンって方がしっくりくるよな?」  クスッと、如何にも可笑しそうにそう言った彼を見下ろしながら、遼二の方は再び染まり掛けた頬の熱を紛らわさんと、自らの分のコーヒーをセットする。そうしながらも、時折ちらりと台本に目を通している紫月の様子を横目に窺っては、紅潮しそうな頬を慌てて隠した。 「それ、今日から読み合わせ入るんだろ? 俺も一応ザッとは目を通したけどよ……」  そしてなるたけ平静を装いながら当たり前のようにそんな台詞を投げ掛ける。氷川がヘンなことを言うから、何だか妙に気恥ずかしくなってしまい、視線も泳いでしどろもどろだ。そんな遼二の様子を上目遣いに見やりながら、紫月はまたひとたびクスッと笑ってみせた。 「読み合わせ終わったら、ついでにリハもやっとく? 俺ン家寄る? それともお前ん家でもいーけど」 「あ、ああ、そうだな。なら俺ン家来る……?」 「オッケ! じゃ、お前ン家の近くにある例のイタ飯屋で軽く食ってこうぜ! 俺、あそこのパスタ好きなんだ」 「え? ああ、そうだな」  これまた当たり前のように相槌を返すも、泳いだままの視線はなかなか定まってはくれないようだ。それもそのはず、リハーサルというのは台本通りに一通りの演技を実演で確認し合う作業だからだ。いつもこの紫月と相手役になることが多い為、もう幾度も同じようなことを重ねてきた。今更照れるでもないことだが、新しい話の時には決まって照れ臭そうにする遼二の様子が可笑しいわけか、紫月は微笑ましげに瞳を細めてみせた。 「俺さぁ、お前のそーゆートコ嫌いじゃねえよな。つーか、好き?」 「……そーゆーとこって……」 「んー、だからそういう純なとこ? お前が照れてるツラ見ると何つーか……今回の台本みてえにしてみたくなる」 「台本……?」 「ああ、氷川に言わせりゃ『誘い受け』だそうだぜ?」  そう言って悪戯そうに口元をゆるめて見せた。 「……ッ、誘い……って、あんにゃろ、また余計なことを」  もう頬の熱を隠すどころか、あからさまに真っ赤っ赤になってアタフタする遼二の様子に、紫月はプッと声に出してついには噴き出してしまった。対面では遼二が淹れたばかりのコーヒーを紙コップからこぼして慌てふためくおまけ付きの焦りようだ。 「うわ……っ熱……! あっち……!」 「おいおい、大丈夫かよ?」  未だクスクスと笑いをこらえながら席を立つと、バッグの中のタオルをまさぐっている遼二の腕を不意に掴み取っては、もっと焦らせるようにグッと顔を近付けた。 「あーあ、こんなにこぼしちまって……勿体ねえの! ほら、このハンカチ使っていーから拭けって」 「えっ!? え、あ、ああ、サンキュ……」  だが次の瞬間、差し出されたハンカチを受け取るはずの手と手が触れて、思わずビクリと動きがとまった。その瞬間に視線と視線がばっちりと重なって、外せなくなる――  しばらくは硬直状態で見つめ合っていたものの、少しすると朱に染まっていた頬の熱も次第に落ち着きを取り戻し、そうなる頃には不思議と肝も据わってくるのが遼二のパターンだ。重ね合ったままの瞳の奥には、いつの間にか欲情の灯が見え隠れし始める。と同時に掴まれていた腕を逆に掴み返しながら頬を近付け、もう片方のハンカチの差し出されていた手は無視して背中ごと引き寄せて――  色香の漂い始めた互いの視線をもっと近くに寄せ合い、額と額をくっ付けた。その時だ。 「おはよう~」  暢気な声と共に狭い事務所の扉が開き、驚いてそちらを振り向けば、大荷物を抱えたマネージャーの中津川が仰天したような表情で固まっていた。 「うわッ! ご、ごごご御免っ! 俺、あの……その……」  とんでもない場面に出くわしてしまったとばかりに、今度は中津川が頬を真っ赤に染めてアタフタと口ごもっている。そんな様子をからかうように、紫月は抱き合っていた形の遼二の胸元にもっと甘えるように頬を預けると、 「何慌ててんだクマちゃん、リハよリハ! クマちゃんがなかなか来ないからさぁー、二人で次の台本の読み合わせ始めちゃってたの」  そうだよな、といった調子で目の前の遼二に相槌を求める。未だいちゃいちゃとくっ付きっ放しで、人の悪い笑みを浮かべた紫月を見て、中津川は気の抜けたようにほうっと大きな溜息をついて見せた。 「なんだ、びっくりしたよー。俺はまたてっきり君らがマジでそういう関係なのかと思っちゃったじゃない。だいたい氷川君があんなこと言うからさー」 「氷川――?」 「うん、ちょうど今さっきロビーで会ってきたとこなんだ。彼、今日から香港だってね?」  そんなことはどうでもいいが、氷川が言っていたという『あんなこと』の方が気になって仕方ない。お人よしの中津川の言葉を遮るように遼二は訊いた。 「悪ィ、クマちゃん! で、その氷川が何だって?」  その表情から察したのか、中津川にはすぐに訊かれたことの意味が分かったようだ。少々頬を朱に染めると、案の定と思えるようなことを口走った。 「うん、何でも今、事務所に行くなら邪魔しないようにとか何とかさ? お取り込み中だからどうのって言ってたよ」 ◇    ◇    ◇ 「――ったく、あの野郎ー! 油断も隙もあったもんじゃねえ」  ふくれっ面で愚痴をこぼす遼二の傍らで、紫月はまたもや可笑しそうにケラケラと笑っていた。中津川を交えて一通りの打ち合わせも終わった帰り道、夕暮れの陽射しを背に、映し出された長い影を追いながら肩を並べて路地を歩く。腹ごしらえに軽くパスタを平らげ、そこから割合近い遼二のマンションまでの道のりを、メット片手にゆっくりと歩いていた。  通りすがりの小さな公園の木々からは晩夏を惜しむような虫の音が心地いい。これから部屋に戻ってドアを開け、お決まりの締め切った蒸し暑さを感じたら、喉を潤すより先にシャワーを浴びよう。そうしてさっぱりとした後は二人だけの実演リハーサルが待っている。そんな光景を思い浮かべながらチラリと隣を見やれば、同時に視線が重なって、慌てて前を向き直した。 「なあ……」 「……ん?」 「何考えてる?」 「別に。なんも……」 「ふぅん、そう?」 「あ、いや……さっきのパスタ、旨かったなーって。ちっと量足んなかったけど」 「そんくらいでちょうどいんじゃね? あんまし食い過ぎると、この後リハやんのに腹がつっかえて苦しいし」 「……っ、あ、ああそうね。まあ確かにそう……かな?」  バイクを引く小麦色の腕が夕陽に照らされて橙色に染まっている。太い血管が逞しそうに筋を描いては、タンクトップの黒に映える二の腕まで伸びている。そんな男らしい外見とは裏腹に、照れ臭そうにはにかんでいる横顔のギャップが何ともいえずに微笑ましくてならない。 「なあ、今回の役さぁー、なんで氷川じゃなくってお前なのか分かる気がする」 「あ?」  今現在、いわばタチ役といわれるリード側を演る役者は、この遼二と先程の氷川がほぼ大半を占めている。勿論他にも数人いるが、紫月の相手に配役されるのは、大概がこの二人のどちらかになることが多いのだ。 「確かにお前見てたら何となく挑発したい気になるもんよ」 「は? 挑発ってオマエなぁ……」 「挑発っつーか、こっちの方が焦らされるって感じでさ?」 「バッカやろ。……ンな、ウブなガキみてえに言いやがって」 「はは、そう拗ねんなって! けどまあ誘いたくなんのは確か」  ニヤニヤと人の悪い笑みは、既に挑発そのものだ。なんだか理性で抑えていたところの男の本音を煽られたような気になって、遼二は少し拗ね気味で頬をふくらませた。 「あのなぁ……そーゆーこと抜かしてっと、マジで犯っちまうぜ」 「おわっ! いいねー。そーゆー台詞聞くと、もろココにキちゃうぜ!」  背筋がゾクゾクするぜという意味なのだろう、バイクを引くのに両手が塞がっているこちらの状況を知っていて、わざと指先を立て、背筋を撫でて寄こす。上機嫌で軽いステップまで踏みながら前を行った紫月の後ろ姿を、半ば恨めしい思いで見つめていた。 ◇    ◇    ◇  ベッドの上に押し倒し、あの細い腰をシーツの海に沈めたら、逃れられないように身体ごと包み込んで拘束する。シャツを引き裂く勢いで剥ぎ取って、乱暴に引き抜いたベルトを投げ捨てジッパーの中から覗く下着ごと鷲掴みにして……無防備になった肌を舐め回し、視姦する。 『なあ、そんだけじゃ足んねえよ……』 ――そんな台詞、台本にない。 『台本なんてどうでもいいよ。それよかお前が嫌じゃなかったらこのままヤっちまわねえ……?』 ――半ばイキかかった瞳で催促するようにそう言って、自分の秘部へと導いては腰をくねらせる。 『頼む……俺、ちょっと我慢できねえわ。自分で抜いてもいーけど、どうせなら……』 ―― 一緒にイこうよ。いや、『お前のでイキたい』だろうか。そんなことストレートに言われたら、演技どころじゃなくなっちまうけど、それでもいいのか? 『いいよ。演技なんてどうでもいい』 ――腰を浮かせ、たぎったモノ同士をやわやわと擦り合わせれば、それだけでもう堪らなくなる。 『なあ遼二、お前のでイキたい。できればお前のコレで――』 ――慣れた手つきで鈴口のくびれをキュッと掴まれて、全身の血が逆流するくらいの快感が背筋を走り、ゴクリと喉が鳴る。お前が考えてる程、晩熟でもないし、やさしい男なんかでもない。一旦灯の点いてしまった欲情の前に理性なんか存在しない。それでもいいのか? 演技だとかは関係なく、本気で抱いちまうけど……それでもいいのか? 『いいよ。お前がいいんだ。氷川よりも誰よりも。台本から離れてこんなことしてえって思うのはお前だけだし』 ◇     ◇    ◇  いつしかそんな想像で頭の中がいっぱいになっていた。と同時に、既にジッパーに引っ掛かる程に欲情をきたしている自らの変調に苦笑させられる。 「……っの野郎、あんまし煽んじゃねえっての。じゃねえとマジ(本気)んなっちまったら困んの、てめえだぜ?」  前を歩く細身のシルエットを追い掛けながら、ポツリと独り言をつぶやいた。  この後、遼二と紫月がどんな実演リハーサルを行ったのかは、彼ら以外の誰も知らない。 - FIN -

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