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第1話

 太一はクズだ。  ガチャガチャとノブを回す音で目が覚めた。夏の朝は早い。壁掛け時計は5時半を示していたが、レースカーテン越しの光は目映い。さらりと差し込む朝日に目を眇めて、安藤は静かに身体を起こした。子供の頃から目覚めは良い方で、起きてすぐに活動できるタイプだった。ガチャガチャいう音は続いている。鍵は持っているはずなのに。  裸足の足をフローリングに下ろすと、ひやりとした冷たさが心地よくて、安藤は薄く笑った。ひたりと、足を進める。寝室の扉もリビングから廊下に続く扉も、どれも開けっぱなしにしてあるから、玄関に到達するまでにはなんのストレスもない。ダイニングが広い1DKは安藤のこだわりで、寝室以外はひと目で全て見渡せるこの間取りが気に入って、この部屋を即決した。ダイニングは家具の配置で二分されており、四人掛けのダイニングテーブルと、ラグを敷いてソファとテレビと本棚を並べたリビング代わりの空間の間をひたひたと進む。ダイニングを出た先は短い廊下で、その先に玄関がある。玄関には靴が3足。安藤の靴が2足と、太一の靴が1足、行儀良く並んでいる。シューボックスには他にもたくさん靴が入っていて、そのほとんどが太一のスニーカーだ。一つ一つにキャラクターがあるのだと彼は言うが、安藤にはその違いが分からない。ノブがガチャガチャ鳴っている。ガチャガチャ、ガチャガチャ。数回鳴らして一瞬止まり、また数回鳴らす。規則正しく音は続く。ガチャガチャ、ガチャガチャ。安藤はゆっくりと扉に手を伸ばし、かちゃりと、鍵を回した。  ガチャ  ノブが回り、扉が内にふっと開く。つやつやに染まった金髪が、ふらりと部屋になだれ込む。その身体を抱き止めると、嗅ぎ慣れた香りがつんと香る。酒と、タバコと。もぞりと、太一が顔を上げた。濁った瞳がこちらを向いた。キマっている。焦点の会わない目は、安藤の顔の上をとろとろと這い回り、十秒ほどしてようやく、どろどろの意識が焦点を結び、濁った瞳の表面に、鏡で見慣れた男の顔が写り込む。  「っ、」  瞬間、腹に遠慮のない拳がめり込み、安藤はよろけて数歩後ずさった。殴られたと認識する以前に身体は動き、次に備えて目を閉じると、勢いをつけた拳が左の頬にめり込み、安藤はその場に尻餅をついた。一瞬遅れて、殴られた頬がかぁっと熱を持つ。床に転がった瞬間、反射的に身体を丸めた。今日は、よくない。何も言わずに殴るのは、よほど機嫌が悪い時だ。こういうときに床に座り込むのはいただけない。普段はそうそう意識することはないが、人間皆、腕よりも脚の方がずっと筋量が多い。虫のように丸まって数秒。予想した三度目の衝撃は訪れず、ちょっと足を引きずる重たげな足音が脇を抜けた。目を開けると、太一はもうそこには居なかった。口の中が鉄臭い。これは腫れるなと、そう思う。のろのろと進む気だるげな足音を片耳に聞きながらゆっくりと身体を伸ばし、ごろりと寝返りをうって、殴られた側の頬を床に押し付ける。じくりとした痛みと、内にこもる熱。脚の裏に感じるよりもずっと、頬で触れた床は冷たかった。  それからしばらく、安藤はじっとフローリングに横たわっていた。今日は木曜で、今週人と会う予定はない。マスクで隠せるかどうかは微妙だが、それで困ることはないはずだ、腫れを抑えたいならできるだけ早く冷やすべきで、こんなところで寝ている場合ではないのだがまあ、今回は、腫れても別に問題はない。目を閉じる。五感がひとつ奪われると、その他の感覚が鋭敏になる。今一番強い感覚は、痛みだ。殴られた頬がどくどくと脈打つ。鼓動に合わせて血液が巡り、切れた粘膜から錆の香りが溢れ出す。傷口に舌先で触れると、頭のてっぺんから足の先まで、しびれるような痛みがびりっと抜けた。痛い。痛いと思った瞬間頬が引き連れ、安藤は自分が笑ったことに気づく。痛い。  感覚的には10分くらい、安藤はその場に横たわって目を閉じていた。さて、と内に呟く。さて、そろそろ起きないと。ふっと息を吐いてぱっと目を開け、そろりと起き上がる。立ち上がって軽く足踏みをする。頭を打たなくて良かった。ぐらぐらしないし。これならすぐに動き出せそうだ。  「……太一、鍵どうした?」  「なくした」  ダイニングに戻り、ソファにだらしなく寝そべった彼に声をかけると、こちらを見もしない男からは素っ気ない返事が返ってくる。口を動かすと、頬が痛い。安藤は、そう、と柔らかく応じた。  「じゃあ鍵、付け替えないと」  太一はそれには答えず、一人ぶつぶつと何か呟いていた。まだ薬が抜けきっていないのだ。応答のない太一から視線を外し、身を翻してキッチンに向かった。腕捲りをして手を洗い、冷蔵庫から、卵二つと牛乳、バターとベーコンを取り出す。ボウルに卵を溶いて、牛乳は目分量。かしゃかしゃと混ぜながら、大家への連絡は今日の昼休みにでもしておこうとちらりと考える。鍵を変えるのは何度目だろうか。年になんどもこういうことがあるせいで、相手の方も慣れたもので、電話はいつも数分で終わる。フライパンを火にかけて、熱が回ったところで薄くオイルを敷き、油が温まったタイミングでベーコンを放り込む。太一は、柔らかいベーコンが好きだ。温める程度の焼け具合で十分。ベーコンを上げて一度火を止め、残った油をキッチンペーパーで軽く拭う。それから、棚から取り出した四つ切りの食パンを一枚トースターに入れて、低温で五分。中までしっかり温めるには、低温でじっくりが鉄則だ。パンが焼けるのを待つ間に、もう一品。再度コンロに火を入れて、フライパンにバターを溶かす。じゅわっと蕩けたバターから甘い香りが上がってきたら卵液を流し入れ、卵と空気と溶かしバターを合わせるように優しく混ぜれば、あっという間にスクランブルエッグが出来上がる。大振りの丸皿にサニーレタスとミニトマト、ベーコン、スクランブルエッグ、こんがり焼けたトーストを乗せて。フォークを添えれば完成だ。  「……朝ごはん、置いとくよ」  ダイニングテーブルに皿を置き、未だぶつぶつが止まらない太一にそう声をかけてみてが、今度も反応はなかった。安藤は再度キッチンに戻り、段ボールのまま積んである買い置きの炭酸水一本と、良く冷えた紙パックのオレンジジュースを持って戻り、席に着いた。向かいにはほかほかと湯気を立てるプレートがあり、オレンジジュースはそこに添えた。普段は二人分作る。今日は、自分の分の朝食はなしだ。この口では食べられないし、コーヒーも多分、あまり良くない。ソファの肘掛に乗っかった金色が、ふらりふらりと揺れている。くそったれ、と小さな悪態が聞こえた。そんな彼を横目にペットボトルの蓋を開ける。ぷしゅっと炭酸が弾けた後に、しゅわーっと涼しげな音が続く。ボトルの底から、小さな泡が無数に上がる。ボトルのままで口をつけると、どうやらこちらも切れていたらしい唇の端にボトルが触れて、安藤は小さく肩を跳ねさせた。口に含んだ炭酸が、しゅわっと音を立てて傷口を嬲る。いたっ、と思わず呟く。生理的な涙が、じわりと滲んで視界を覆う。安藤はちょっと目を閉じた。傷付けば痛い。当然のことだ。  かたん  向かいで、音。するりと椅子の足が床に擦れる音。どさりと乱暴に座る音。  そっと目を開けると、だらしなく椅子に腰かけた太一は、バターの薫るスクランブルエッグを瞬きもせずに見つめていた。普段の朝食は、トーストと目玉焼き。たまには気分で、シリアルやパンケーキ。スクランブルエッグはほんの時たまで、今回は、ひと月半ぶりだ。魚みたいな目をしていると、安藤はふと思う。太一は、魚みたいな目をしている。きらきらと宝石のように輝くのに、色はない。透明で艶やかで、それだけ。  「……いただきます」  太一は小さく口にしてフォークを手に取った。虚ろに濁った視線はそのまま、仮面のような無表情で。それでも、習い性の挨拶は欠かさない。太一はクズだ。けれども、どれほど救いようのない人間にも、雀の涙ほどの美徳はあるものなのだ。太一の場合は、素直さと、顔だった。普通の感性ならば、三十過ぎて金髪はどうなのと、一歩立ち止まる。けれども太一にはそれがない。だから彼は、安藤が彼と数年ぶりに再会した15年前からずっと、目に眩しいこの髪色を変えたことがない。安藤はごく普通の感性を持っているから、三十過ぎて金髪はどうなのと、普通ならそう思う。普通なら、思うのだが。太一に関してはこの限りではない。似合うから、いいのだ。色の白い肌に、きらきらした金髪がよく映える。長い睫毛に縁取られた目、薄くきりりとした唇、陶磁のような滑らかな肌。どこをとっても美しい。安藤からしたら痩せすぎの感のある薄い身体も、世の中の女性の基準に照らせば“儚い美しさ”という事になるようで、10年前までファッションモデルをやっていた太一はその頃も人気があったし、今も、それなりの服を着て道を歩いていれば、ちょっと振り返ってしまうような、そんな雰囲気がある。ヤク漬けの脳はすっかりイカれてしまっているが、こうして毎日きちんとした食事を取り、週末には外で運動もするようにしているから、太一の身体は今もしっかりしており、薬でふにゃふにゃでないときの彼は、歩き方もとても綺麗で、見慣れているはずの安藤ですら、ふとした拍子に見とれてしまうほどだ。  ガシャン!  大きな音が、安藤の思考に強制終了をかける。加減を知らない全力で打ち付けられた拳は、フォークを握りしめたままテーブルの上で戦慄いており、立ち上がった太一はうるせぇ!と大声で叫んだ。あまりの声量に、無意識に身を引いた。何が、と安藤は思う。空中を見つめる虚ろな視線に見える世界を、太一以外は誰も知らない。べったりと顔面にはりついた表情は、怒りと恐怖にひきつっていて、怒りからか寝不足からか、もともと白い肌色は一層蒼白で、静脈の青を映したような透け感だった。……それでも、美しい。凄絶な美しさは、怖くすらある。  「……太一、今、朝だよ」  そっと声をかける。時刻は午前6時前。大声を上げるのに適した時間帯とは言えない。隣人たちもまだ家にいるはずだ。中空をさ迷っていた視線が、ぎろりと安藤を向く。ピントの合わない虚ろな視線。虚像を映す、まあるい鏡。  「……朝」  太一の口許がもぞりと動き、小さな声が唇から転がり落ちる。と、同時に、顔面からすとんと表情が消える。小さな声に乗っかって、感情まで転げ落ちてしまったかのような、一瞬の変化だった。普通じゃないと、そう思う。正気ではない。人として、あまりにもぎこちない動き。無表情で棒立ちの彼を眺めていてふと、太一の席の隣の椅子が目に入り、今日はいつもよりおとなしいなとちょっと思った。ダイニングテーブルと揃いの椅子は、ここに住み始めたときに全部まとめて購入したものだが、太一の隣の椅子だけが傷だらけでボロボロだ。イラついた太一は、モノにも当たる。唐突に襲ってくる拳や怒号の餌食は何も、安藤だけではない。びくりと、太一の身体が一つ揺れた。我に返った視線が、ふっと下に落ちる。その目が皿の上の食事を捉えて、ぴたりと止まる。そのすぐ後、安藤の見ている前で、太一は糸の切れた操り人形のようにかくんと膝を折って再び椅子に収まり、何事もなかったかのように食事を再開した。旨いも不味いも言わない口が、栄養摂取のためにもごもごと動く。味など別に関係ないのだ。安藤も別に、誉めて欲しくて作るわけではない。ちゃんと食べて、生きていてくれれば、それでいい。それだけでいい。

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