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第2話

 「安藤さん、ちょっといいですか?」  「はい」  呼び掛けられて振り向くと、彼女が息を呑むのが分かった。まあ、妥当な反応だ。  「……安藤さん、あの……それ、また?」  「すみません。びっくりしますよね」  今朝の傷は、想定よりも酷く腫れた。何度殴られても、腫れるときとそうでないときの差が良く分からない。これはまずいと思ったときに思うほど腫れなかったり、大したことはないと決め込んだときに限ってぱんぱんになったりする。今回は、多少腫れそうとは思ったが、こんなに酷い色になるとは思わなかった。赤と黄色の狭間、汚い色のアザが左の頬に大きく広がり、見映えが悪い。マスクをするのも痛いから、朝の電車もこのままで乗ってきたのだが、そこかしこから遠慮気味にちらちらと寄越される視線が痛かった。こんな時ばかりは、自分の無駄に高い身長が憎い。悪目立ちだ。痛そうと眉を顰める彼女に向かって微笑もうとしたのだが、痛みで引きつる笑みは不格好で、こちらの意図とは関係なく、何となく凄みが出てしまう。笑うことに失敗した安藤は、彼女の怯えた表情に向かってもう一度、すみませんと謝った。  「……そう、従兄弟がね」  嫌われちゃってて、どうしようもないですねと肩を竦めてみせる。最初のとき、その場しのぎのごまかしで口にした“年下のやんちゃな従兄弟”の話が知らぬ間に広まって、今ではもう、殴られた痕について一々説明する必要はない。安藤義則議員の親族にはずいぶんな人間がいるらしい、とか。裏でどんな噂が広まっているかは知らないが、別にまあ、それはそれで構わない。この程度の噂話など意に介さぬ程に、父の威光は偉大だ。最悪、何か問題が起こりそうになれば揉み消せる。それだけの財と、人脈がある。それは安藤自身、身を以て知っていた。  「……氷、要りますか?総務の冷蔵庫に保冷剤あったはずですけど」  「本当ですか?ありがたいな。後で取りに行っても良いですか?」  「もちろん。18時まではいるので、それまでに来ていただければ」  「じゃあ、後で寄らせてもらいます。……それで、井出さんのご用件は?」  「ああ、あの、この間の資材発注の件で確認したいことがあって……」  続く彼女の言葉には意識の表層で事務的に応じながら、内はたゆたう思考に沈む。  父としての安藤義則の姿を、安藤は薄ぼんやりとしか想起出来ない。テレビ越しの目。彼を囲む多くの人々。向けられるマイクと、胸に光る議員バッジ。世の数多の人々と同じように、安藤にとって、安藤義則という人物のイメージはそればかりだった。安藤にとって家族は、おとなしい母と利発な弟と、それだけだった。医学部を卒業した弟は、政界に進んだ。自分が今こうしていられるのはそのおかげと知っているから、彼には感謝している。とはいえ弟からすれば、親に反発して早々にドロップアウトした兄のせいで、あんな場所に身を置かざるを得なくなったことが本意であるはずもなく、昭和の箱入り娘が抜けない母は父の言いなりで、そうなれば自然、安藤は家族とは疎遠にならざるを得なかった。それを悲しいと思ったことは一度もない。悲しいと思えないことに悲しみを感じるようになったのが最近で、安藤はその変化を一つの成長と捉えている。次に家族と顔を合わせるのは、誰かが死んだときだろう。人の死は、人を集める。死は縁だ。不思議なことに。  19時を回った頃、俺も上がるよと最後に残っていた同僚に声をかけられ、安藤はお疲れさまですと応じた。会社の研究部門はフレックス勤務で、全体会議のある月末を除けば、入りも上がりもそれぞれだ。成果主義の厳しさはあるが、自由度は高い。一人きりになった研究室で、安藤はふっと息を吐いた。人気のない室内に、機器を冷ますファンの回転音が静かに響く。廊下の足音に耳を澄ます。人の気配はない。警備の巡回は少し前にあったから、イレギュラーがない限り、ここにはしばらく誰も来ない。ポケットからキーを取りだし、デスクの引き出しを開ける。A4ファイルが横向きに立てて入れられる程に深さのある引き出しは、手前と奥で二つに仕切られ、手前には研究に関わる書籍、奥には財布や手帳といった私物が放り込んである。安藤は引き出しを大きく引き開け、財布の隣に置いたアルミの名刺ケースを取り出した。引き出しを閉じて、ケースを開く。中には、小さなチャック付きポリ袋が3袋、その外側を更にビニール袋にくるまれて入っており、小さな袋のそれぞれに、少量の白い粉が収まっている。一袋1グラム。末端価格で6万円。不便だよなと、いつも思う。アメリカでは、アンフェタミンはADHDの治療薬だ。診断を受けていれば、持ち歩くことに何ら問題はない。それなのに日本では非合法。覚醒剤の一種とされ、忌避される。所持していれば一発で逮捕だ。まあそうは言っても。安藤自身は道を歩いていて職質をかけられるタイプでもないし、それほど困ることはない。怖いのは太一だが、不思議と彼も、未だ捕まったことがない。安藤はかちんと音を立ててケースを閉じ、机上に置いた。仕事用の白衣を脱ぎ、引き出しに仕舞う。私物入れにしていたのとは別の引き出しを空けると、中には、朝買った今日の日付のスポーツ紙と、水の入った霧吹き、ゴム手袋とごみ袋が入っている。新聞を2枚引き出し、適当なサイズに降り畳んで机に敷き、表面を霧吹きで湿らせる。ゴミ袋は口を大きく開いて、机の下の空間にセットした。ゴム手袋を両手にはめ、薬包紙は備品を拝借し、3枚、濡らした新聞の真ん中に並べた。そこで名刺入れを手に取り、ゴム手袋をはめた手で小袋を一つ一つ取りだす。その後、持ち込んだ薬匙で少量ずつ中身を掬い、薬包紙に載せた。これから行うのは純度試験だ。不純物の多い薬を使うとろくな事にならない。安い酒で悪酔いするのと同じで、質の悪い薬は余計なところに余計な影響を及ぼす。60年代、手軽さから大流行したLSDの偽装ドラッグエヌボームや昨今もブームが引かないヘロインなどは最悪で、毒を飲んでいるようなものだ。最悪は死に至り、そうでなくとも、常習化すれば脳に不可逆のダメージを受けることもあり得る。太一には絶対に触らせるつもりはない。本当は、大麻で満足してくれるといいのだけれど、ダウナードラッグでは太一の気は紛れないようで、妥協案が覚醒剤だった。裏で取引される覚醒剤は北朝鮮のものが最も純度が高い“一級品”とされているが、誰もが求める質の良い薬は価値が跳ね上がり、末端価格は通常の5倍にもなるという。太一とつるんでいる連中にはそんなものに手が届くような人間はいないから、太一のコミュニティで取引される可能性は万に一つもあり得ない。回ってくるのは二流品ばかりだ。だから、自衛が必要になる。大体地区毎に元締めがおり、それぞれ取引先は決まっているから、その地区の覚醒剤の純度には大きな差は出ない。ただ、末端まで下りてくる薬の質は、元締めの経営状況に左右されることもままあり、定期的に確認しないと粗悪品をつかまされることもある。そうでなくとも、太一などは末端の末端。稼ぎのためにわざと質を落とされる可能性も無いわけではないなら、定期チェックは必須だった。だからこうして、安藤自身の手で純度試験を行う。太一には一度にある程度まとめて購入するように言ってあって、まとめて購入した数パケ分を同時に確認する。別に、小麦粉を混ぜられる程度のことなら問題はない。意思の有無にかかわらず、余計な毒が混ざることが最大の問題事だった。  痕跡を残さないよう細心の注意を払いながら一連の手順を終え、安藤はゴム手袋を中表に外してゴミ袋に投げ込み、袋の口を縛ってほうと息を吐いた。今回の3袋は全て問題なし。今夜は家にいるはずだから、帰ったら太一に渡してあげよう。太一が今のバイヤーから買うようになって4年が経つが、これまで一切質の変化がない。押し売りまがいの行為もなく、行儀がいいからいざこざも聞かない。いざこざがないということは、目立ちにくいということだ。調べが入ると言う話も出てこない。今までの取引相手と比べても、今の売り子は格段にいい(・・)。危険を避けて、売り場は何度か移っているらしいが、太い客は離さない。逆に、危なげな相手とは早々に手を切っているようだから、結構な切れ者なのかもしれなかった。

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