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第3話

 今夜は二人だからと、帰りにデパートでワインとデリを購入して機嫌良く帰宅した安藤は、想定外の光景を目にして表情を曇らせた。  「……いない」  アパートの下から部屋を見上げ、5階の角部屋の明かりが点っていない事を確認して足を止め、安藤は不穏に呟いた。胸の奥で、沼底の泥のようなどろりとした不快が蠢いて騒ぐ。いない。いない。太一がいない。何かあったのか。帰れない事情が、何か……否。否と、安藤は思う。帰れない事情があるから、なんだというんだ。帰れない事情?俺との約束を違えるほどの事情?そんなものがあり得るのか。あり得るはずがない。あり得ないことだ。  どろりとした情緒が、身体の中心から湧き出して体内を埋める。重たい泥の中で拍動する心臓は緩慢で、ぼたぼたと泥が落ちて溜まる末端の重みは刻々と増し、反比例する様に頭は軽くなり、思考はシャボン玉で、ぷわっと浮かんではぱちんと弾け、頭蓋の中で弾けたシャボン液の飛沫が過敏な肉にいちいち染みて、安藤の苛立ちは右肩上がりだった。  ぱちんぱちんとシャボンが弾ける音を聴きながら、気づいた時には安藤の身体は真っ暗な室内にあり、手にした紙袋を無造作にテーブルに置くと、惣菜の上に寝かせて置いたワインのボトルがぶつかってガチンと大きな音を立てた。冷房は切れているが、締め切った部屋の中はヒヤリとしている。太一がここを出てから30分……いや、一時間くらいは経っているかもしれない。太一の冷房の設定温度は19度だ。電気はつけないまま、羽織っていたスーツのジャケットを脱いで椅子の背に掛け、冷蔵庫の野菜室から缶ビールを取り出してその場でタブを上げる。イライラする。むかつきを抑えるために勢いよくビールを煽り、そこでようやく、頬の傷のことを思い出した。突き抜ける痛み。破れた粘膜。無数のシャボンが一気に弾ける。アドレナリンが過剰放出され、指先がわなわなと震え出す。力加減を失った手の中でビールの缶がめこっと音を立て、飲み差しの口からごぽりと液体がこぼれ出て右手を濡らした。  がたんと、玄関で物音がした。ガチャリと鍵の回る音がし、ガチャガチャいう音がそれに続き、直後、しんと、音が消える。締めたはずの鍵が開いていた事に気づいたのだ。太一は今、真っ暗な室内に在る安藤の存在に思い至ったはずだ。逡巡の間。その後、かちゃりと控え目に、もう一度鍵が回った。  「……ただ、いま」  静かな暗闇に向かって放たれた太一の声は幻のような力なさで、数秒漂ってすぐに、跡形もなく消えた。  「……おかえり、太一」  応じる声の瑞々しさに驚く。泥で身の内をいっぱいにして、シャボン液でぱりぱりになった空っぽの頭蓋で、どこからこれほどの瑞々しさが生まれるのか。白々しいほどの爽やかさ。おぞましい程純真な響き。けれども、口の中に残るのは苦味だ。瑞々しさと苦み。口元に浮かぶ笑み。体内を満たす怒り。竦む太一の詰めた息の苦しさが、部屋の空気を伝播して、離れた安藤の皮膚に触れる。  「早く上がりなよ」  声をかける。姿は見えない。でも見える。よく、見える。太一は震えている。本当は、部屋に入りたくはない。でも、逆らえない。太一は俺に逆らえない。だから、震えながら靴を脱いで、見えない糸に引っ張られて、嫌々足を進めるのだ。そうして、叱られた子犬のような目をして、俺を見る。自分が悪いのに。哀れっぽく、見上げてくる。冷蔵庫に背を持たせ掛けた安藤は、一口しか口をつけていないビールをシンクに放った。着地した缶はけたたましい音を立て、太一は明確に身を竦ませたが、目は、逸らさなかった。  何も言わずともごく至近距離までやってきた太一の頬を指先で撫でる。ぐっと顎を摘んで上向かせると、ぬぐい損ねた真っ赤な口紅が、掠れて唇を汚していた。呼吸が浅い。目が潤んでいる。そろりそろりと頬を撫でると、汚れた唇が薄く開き、熱い吐息が隠微に溢れる。  「……なに、飲まされたの?」  下唇に親指を当て、真っ赤な汚れを拭いながら問うと、太一は小さく首を振った。  「……分かんないの?俺との約束破って女と会って、わけ分かんないもん飲まされてきたの?」  自分の意思じゃなければ、俺が許すと思った?  朝食がスクランブルエッグの日の夜は、必ず、家にいること。  純度検査をした薬以外、絶対に口にしないこと。  びくりと、太一の肩が揺れる。暗闇に慣れた目に、淡く上気した白い肌がはっきりと見えた。  「……最寄り駅にいるって……急に連絡があって……」  「……家、教えたの?」  「教えてない!教えない!前に尾けたって!」  慌てて否定する太一の目はこぼれ落ちそうなほど大きく見開かれ、無実を訴える声は震えていた。尾行される間抜けも、男を尾ける女の情念も、どちらも等しく愚かしい。苛立たしさに、安藤の笑みは更に深まり、閉じかけていた唇の端の傷口が、びっと開いた。  馬鹿な友人に家を教えないこと。  セックスは構わない。ただ、それ以上の親密さを求めてきた相手からは速やかに離れること。  「うん。分かった。信じるよ。それで?」  「……それで……お前が、来るから、帰らせようと思って」  「ああ……俺に見られたくなかったの?」  「……機嫌、悪くなるから」  「うん。まあ……太一の友達ってみんな馬鹿でグズで不快。で?」  「……だから、帰そうと思って、駅まで、行って」  「はは。駅まで行ったの?わざわざ?それで薬盛られて襲われてれば世話ないな」  声を上げて笑い、次に出た声は驚くほどに冷ややかだった。馬鹿な太一。可哀想な太一。薄汚い女が意中の男に口移しで飲ませる薬なんて決まっている。セックスドラッグ。多分、ピンク色でハートが浮き出た丸いやつ。尻も頭もふわふわ軽い、彼らに、似合いの。  「……で、その子はどうしたの?」  「……突き飛ばして置いてきた、けど、」  顎に触れた手をずるりと下に下ろし、手のひらを彼の首にひたりと沿わせると、太一の瞳の潤みは更に一段増した。手のひらを伝って伝わる小刻みな震えは恐怖のそれで、目から溢れる雫は歓喜だった。震えながら媚びる彼を、いつも酷く、哀れと思う。哀れで、可愛くて、憎らしい。馬鹿だからなあと、そう思う。太一は馬鹿だから。どうしようもないクズで、馬鹿で、短絡的で、衝動的で、快楽主義者で、マゾ。だからちゃんと、閉じ込めておかないと。  親指にぐっと力を込める。太一の眉がぐっと寄った。その表情は悩ましげですらあった。苦しげに開いた口を、唇で塞ぐ。色を失ってもまだ残る紅の油臭さが、つんと鼻に抜けた。ぐちゅりと舌を差し入れると、嬉しげにのたうつ太一の舌が、獲物を見つけた蛇のような素早さで安藤を捕らえ、絡みついた。舌先が熱い。灼かれそうだと、そう思う。ぐずぐずに熱せられた熱塊に、頭も身体も灼け焦げそうだ。灼け焦げて、炭になって、ぼろりと崩れて、細かな粒子になって、風に吹かれて、飛んでいきそう。飛んでいきたい。どこか、遠くへ。  太一の膝ががくりと崩れ、手のひらが、唇が、彼から離れる。熱が逃げる。瞬間、ぞくぞくとした寒気が背中を上り、安藤は反射のように身を震わせた。太一の熱を失った一瞬、身体が、氷のように冷たくなったと錯覚する。そんなはずはないのに、なぜか酷く、肌寒い。足元に跪いた太一が背中を丸め、ごほごほと咳込む。喉にめり込んだ指の感触がリアルだった。  「……太一」  小さく丸まった背中を見下ろして、声をかける。俺のだ。俺の太陽。ねえ太一。お前に手を出した、馬鹿な女の名前を教えて。

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