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第4話

 少し前の苛立ちが嘘のように気分が良かった。爽快と言ってもいい。夜気に満ちる窒息しそうな湿っぽさも、人のいない裏通りの侘しい静寂も、今の安藤にはただただ快かった。太一は部屋にいる。出るなと言ってあるから、外に出ることは絶対にない。太一は素直だ。彼の美徳。安藤は、太一と幾つも約束をする。  隣人の迷惑なるから、早朝や夜には大声を出したり煩くしたりしないこと。薬がキマっていると間違うこともあるが、安藤が指摘すれば一瞬で大人しくなる。  ものに当たる時は、ダイニングテーブルの太一の席の隣の椅子を標的にすること。おかげさまで、我が家で傷だらけなのはあの椅子だけだ。  少しずつ、少しずつ。太一が気がつかないほどに僅かずつ、安藤は彼を閉じ込めている。太一は馬鹿だ。馬鹿だからきっと、指先一つ自由にならないその段になってようやく、自分が閉じ込められていることに気がつくのだ。その時にはもう、後戻りは出来ない。太一には安藤しかいなくなって、食事も排泄も生きるも死ぬも、安藤の心一つになる。そういう日が、いづれ来る。  誰もいない暗がりからぬっと、街灯の光の輪の中に小さな影が現れた。  「……ユカちゃん」  転べば足首を折りそうなピンヒールに、太もも剥き出しのミニスカート。ゆるりとしたシルエットのトップスは、肩部分を片方つけ忘れたような中途半端なデザインで、数年前から流行り出したワンショルダーの良さが、安藤には全く理解できない。呼びかけに応じて、彼女は足を止めた。  「太一探してんの?」  「……そーだよ。おにーさん、タイチの知り合い?」  剥き出しの若い肌はいかにも太一好みの子供っぽさだったが、唇に塗りたくられた真っ赤な色は、女を主張して媚びていた。下品な色だ。安藤はふっと笑んでみせ、足音を立てずに彼女に近づき、ふざけるなよと笑顔で告げた。身を引きかけた彼女の細い腕を掴んで引き留め、ヒールで底上げしても頭ひとつ分低い位置にあるその顔を至近距離で見下ろし、声ばかりは低音で凄む。  「……他人(ひと)のもんに手出してんじゃねぇよ」  「……他人のもんて何」  ぐっとこちらを睨めあげる視線は、意外にも強い。怯えも、ないわけではない。それでも、安藤の目を真っ直ぐに見返す視線の強さには、ちょっと感服する。こいつもいいなと、そう思う。力では絶対に敵わないことも、この人通りでは助けなど望めないことも、分からないはずがないのに。それなのに、折れない。それが、とてもいい。とてもいい、が、しかし。  太一ほどではないかな。  自分に向けられる攻撃的な目を、挑戦的な目を、安藤は欲して止まない。媚びない目。期待のない目。安藤を、安藤義則の息子として見ることのない、目。その目を、閉じ込めたい。閉じこめておきたい。  「他人のもんは他人のもんだよ……あいつセックス大好きだからさぁ、やりたいだけならいくらでも出来んでしょ。余計なことしなければそのくらいの自由はやったのに、馬鹿だね……あ、それとも何?ソッチも相手にされなかった?……それならちょっと気の毒だけど……まあ確かに。俺はユカちゃんじゃ全然勃つ気しねぇな」  ミルクの香りが立ちそうな柔い肌、握れば折れそうな細い手足。いや、この子に対してだけではない。柔らかさと丸み。弱さの象徴のような女の身体に、いつからか全く興奮しなくなった。弱さは、罪だ。  鼻で笑って言い捨てると、ユカはその頬にかっと朱を上らせ、離してと腕を振った。彼女はルールを破った。太一と、俺のルールを侵した。その罪は重い。逃すつもりはない。安藤は、逃げ出そうとする彼女を掴む手に遠慮なくぐっと力を力を込めた。  「っ、やめてよ!」  痛みに顔を顰めた彼女が高い声で短く叫び、きゅっとこちらに顔を向けた。その目にはまだ、意志がある。抗う意志。やっぱり、いいな。勝ち気な子は好きだ。この目に見られると、身体の芯がじわりと熱を持つ。生身が向かって来る感じ。安藤が安藤である事を忘れさせてくれる目。抗するように、安藤も生身になる。生身の一人になり、ただ、生身でぶつかり合いたいと願う。誰でもない一人として。数多の中の、一人として。俺が何者であっても、俺を恐れないで。  握った腕をぐっと引き、バランスを崩した彼女の腰にもう一方の腕を回して、恋人のように抱き寄せる。ぴたりと身体が密着したその瞬間、ユカの目に初めて、明確な恐怖が浮かんだ。  「……やめて」  蚊の鳴くような声で、女が囁いた。唇が触れそうな距離まで顔を寄せると、真っ赤な割れ目から溢れる吐息に、つい先ほど、太一の唇の上で感じた油臭さがつんと混ざった。  「……お願い、聞いてくれたら帰してあげる」  その姿勢のまま囁くと、ユカはぐっと顔を背けて強く目を閉じた。腰に回した手で彼女の手首を掴みなおし、腕を掴んでいた手を離す。腕一本で抱え込むと、更に密着度が増して、女はひっと短く悲鳴を上げた。空いた手をポケットに突っ込んで、太一にバレないようにこっそり持ってきた果物ナイフを引っ張り出す。刃先に巻いてきた新聞紙は、ポケットに残した。  「……これで、」  俺を刺して。  ユカの手に柄を握らせ抱く力を緩めると、おずおずと目を開けた彼女の視線はゆっくりと自身の手元に落ち、次の瞬間、状況を理解したその目が驚愕に見開かれた。それを見た安藤は薄く笑い、ナイフを持ったその手ごと包み込むように握り込み、耳元に囁いた。  「これで刺してくれたら許してあげる」  そうじゃなければ、このまま警察に連れて行く。  ヤるつもりで盛ったなら、自分も飲んでいるはずだ。現物も持っているかもしれない。捕まるのが嫌なら、話に乗ってくるだろう。……これで駄目なら、物理的に痛めつけて脅す以外にない。  薬物乱用で捕まるのと、隠蔽の為に傷害を重ねるのと。あの頃の自分が同じ選択を迫られたら、俺はどちらを選ぶだろう。ちらりと考え、安藤はすぐに断じた。俺は、きっと迷わなかった。高校の頃の自分は迷いなく、捕まる方を選んだだろう。捕まれば自分だけの問題で済まない事は、皆知っている。入手経路が洗われる中で、確実に、仲間達にも調査の手が及ぶ。怖いのは、捕まる事そのものではない。戻る場所を失うことだ。仲間を失うことだ。それが多分、一番怖い。あの頃の自分には、怖いものなど何もなかった。守りたい場所も、仲間もない。道を外れたのはただ、父を困らせるためだった。居場所も仲間も、どうでも良い。諸悪の根源は父と決めつけた十代のエネルギーはひたすら、その父を貶めるためだけに暴走し、周囲を巻き込んで膨張し、しかし、結局。安藤の全てを賭した暴動は、宿敵たる父の座にかすり傷一つつけられずに幕となった。今でも忘れない。電話一本で息子のおイタを諫めた男は、受話器を置いて開口一番、そろそろ満足かと問うたのだ。一年遊んで、満足したか。その目には、わずかの動揺もなかった。怒りも、悲しみも、蔑みすら。およそ感情と呼べるものの発露がない、そんなのっぺりとした視線が安藤を向いていた。罪を犯した息子を見る父の目でなどあり得ない、酷く冷めた視線だった。もう何をしても無駄だと、あの時、悟った。腕も上がらぬほどの虚脱感で呆然とする安藤に向けて父が放ったのは、お前は私の人脈を継ぐ気があるのかという無味乾燥な問い一つで、それを聞いた瞬間、身体も心も石膏像のようにぱきりと硬直した。唐突に理解した。この男にとって、自分は字義通り、どうでもいい存在なのだ。安藤が安藤である必然はそこになく、父が欲しているのはただ、アクセサリーとしての完璧な息子であり、いずれは父の全てをその身に受け入れる、外形を整えた空洞の人形だ。ぎりりと固まった身体をなんとか動かしてようやく首を振ると、父はそれにも全く動じず、ただ一言、そうかと応じた。  ーそれにしても大学だけは行くように。就職は、心配しなくていい  安藤義則の子として恥ずかしくない人間になることと、言外の声が聞こえた気がした。  「……もし、刺したら……あたしが刺したって言うの?」  震える声が、安藤の意識を今に引き戻す。向き合う瞳の、その奥。恐怖で震えるその身の奥に、ちりと微かに、でも確かに、意志の炎が揺らめいている。そうか。この子は、“持つ者”か。守りたいと思える居場所を、仲間を。彼女は確かに持っている。それを羨ましいとは思わない。今は。今は大丈夫。だって、俺も、持っている。守るために、戦える。  「絶対言わない」  約束する。  励ますように微笑み掛けて。ナイフを握るその指先を優しくさする。  「……どうしたらいい?」  意を決した彼女が言い、安藤は拳に添えた手で彼女の手をそっと導いた。  「……ここで、構えて」  俺も手伝うから、しっかり押し込んで。  ワイシャツの腹に刃先が触れる位置で手を止め、噛んで含めるように言い聞かす。俺がいいって言うまでは離さないで。……死なない?この程度じゃ死なない。大丈夫。額を突き合わせるようにして言葉を交わし、宙ぶらりんの彼女の左手をナイフを掴んだ拳にかぶせてしっかりと握らせる。  「……じゃあ……せーのでいこう。OK?」  こくりと、蒼白な顔で彼女が頷く。ナイフを握る両手が震えていた。潤んだ瞳に、大丈夫と笑って見せる。定まらない刃先を止めるため、一方の手をその拳に添え、もう一方で剥き出しの肩に触れ、いくよと囁く。  「……せーの、」  声と同時に身体を倒す。あ、と彼女が声を上げた。  ぐっと重みを乗せた安藤を、彼女は全身で受け止めた。前に出ることはない、が、後ろに引くこともなかった。肝が座っていると、場違いに感心する。ぷつりと、ワイシャツの布が切れたのが分かり、直後、同じように、皮膚が裂ける。  ぷつり  喉奥で呻き声を噛み殺す。ズズッと、刃先が身体にめり込んでいく。  「……っ、ふ」  今にも泣き出しそうな声を上げたのは、ナイフを握った女の方だった。脈打ち広がる痛みの最中、気味がいいと、安藤は思う。人の肉を切る感触なんて、気持ち悪いに決まっている。生きて動く、熱い肉を刺す感触が、小さなナイフの刃を通して、彼女の手のひらに伝わり、身体に心に雪崩れ込む。この子きっと、もう二度と、太一に近づくことはないだろう。この少女の身体の中で、太一の姿は安藤の肉の感触と一つになって混ざり合い、おぞましい恐怖を形作るに違いないのだ。他者を傷つける恐怖。加害者になる恐怖。可哀想なユカ。哀れな女。  黒く縁取られた彼女の目元に、つと涙が伝った。いよいよ逃げ出そうとする身体を、安藤は再び抱きしめた。両腕に力を込めて彼女を抱くと、二人の間に挟まれた拳が柄が、否応なく押し込まれてめり込み、痛みは熱にとって代わり、毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出す。ぐっと、堪え切れずに呻くと、彼女がぱっとこちらを向いた。その表情は、先ほどとは別の恐怖でぐちゃぐちゃだった。安藤は思わずうすら笑み、抱きしめる腕を緩めた。  「……あ……」  よろりと身を引いた彼女と一緒に、ナイフがずるりと引き抜かれる。からりと軽い音を立てて、凶器が地面に転がった。  「……ご……めん、なさい……」  血濡れた手を戦慄かせて、両の目からぼろぼろと涙をこぼしながらそう言う彼女に、それ拾ってと砂に汚れたナイフを示す。しゃがんで立ち上がれる気がしない。脂汗が止まらない。踊り出したいほど愉快なのに、身体が全然動かない。予想外の痛みだった。こんなに動けないとは思わなかった。何事も、やってみないと分からないものだ。泣き続ける彼女は動かない。……いや、動けないのか。腹の辺りが熱い。そのくせ全身は段々と冷えてきて、末端から、小刻みな震えが上る。僅かな静寂。唐突に、誰かの馬鹿笑いが遠くに聞こえた。ユカの肩が大きく跳ね、素早い動きで背後を振り返る。普段ならば気にもしない気配を、第六感で懸命に追う。過敏になっている。彼女も、自分も。背後に人影のないことを確認した彼女が再びこちらを振り返った。怯えるその目は、早くここから離れたいと訴えていた。  「……それ拾ったら、帰っていいよ」  だから今度は、安藤の言葉に対する反応は素早かった。すっとと膝を折って、赤色を纏ったナイフを拾い上げた彼女は安藤に向かってそれを差し出し、俯いたまま、ごめんなさいともう一度言った。そのナイフを受け取る刹那、安藤と彼女の指先が一瞬触れ合い、すぐに離れた。彼女の目は一瞬、安藤の腹の傷口をかすめ、すぐに身を翻して駆け出した。  「……バイバイ」  走り去る彼女はもう、振り返らなかった。  マンションから程近い小さな公園は、昼間でもほとんど人影はない。周囲は独居者向けマンションばかりのこの場所にある公園の存在意義は、一体なんなのか。遊具はほとんど無い。あるのは砂場と、最近はあまり見かけない、タコを模した滑り台が一つ。敷地の周りはぐるりと木に囲われており、隅には一本、ソメイヨシノが植わっている。わざわざよるものはほとんど無いが、春にはなんとなく、ここの桜を見上げてしまう。こじんまりとした木ではあるが、春になれば、木肌を隠すほどに隆盛した薄桃色の花が、甘い香りを放って艶やかに咲き誇る。重い足を引き摺って、公園に踏み込む。もう限界だった。部屋まで戻る気力がない。刺された腹から滲み出した血液は重力で流れ落ち、スラックスの右腿までをじっとりと濡らしていた。肌を伝った滴が内腿を濡らし、動くたびにヌルリと擦れる。押さえるものを持ってこなかったのは失敗だった。じっとりと張り付く布が気持ち悪い。柔く吹く夜風が、腹の穴に染みた。寒い。硬い地面にずるりずるりと足跡を刻みながら、安藤はタコに向かって進んだ。タコの中は空洞になっていて、あの中なら多分、少しは暖かい。子供の頃の記憶だ。幼い頃の記憶。二学期が始まったばかりだったから、多分、秋口だった。泣きながら家を飛び出して、近所の公園に逃げ込んだ。暮れかけた空は血のように赤く、カラスが高い声で鳴いていた。その公園にも大きなタコがいて、安藤はその中に隠れていた。そこは、安藤の気に入りの場所だった。学校から帰ると“お勉強”が待っている。“将来のため”に、中学受験は絶対に成功させなければならない。家に帰ると、自由な時間は一つもなかった。だから安藤には、学校帰りに毎日20分、このタコの中で過ごす時間が特別だった。友達に借りた漫画を読んでも良かったし、何もせずボーッとしていてもいい。誰にも何も咎められないその時間が、何よりも大切だった。  タコに向かって歩を進めながら、ポケットに入れた携帯を取り出し、すっかり記憶している11桁をのろのろと打ち込む。普段は何気なく持ち上げる携帯が、今はひどく重い。通話ボタンを押して耳に押し当てると、コール2回で繋がった相手は、電話の向こうで無言だった。  「……公園の、タコのとこ」  来て、と、それだけ言って電話を切る。そうして、携帯をポケットに戻した時にはもう、安藤の身体はタコの傍にあった。まあるいタコの表面を手のひらで撫でると、塗料の剥がれた頭はざらりとしており、冷え切った指先にほんのりと暖かい。足元にまあるく口を開ける入り口は、記憶よりもずっと小さかったが、覗き見る内部は十分に広かった。  家を飛び出した自分を、母は探しに来たのかどうか。安藤には分かりようもなかった。自分を呼ぶ声が聞こえたらすぐに飛び出せるように、タコの中で丸まった幼い安藤は、じっと耳を済ませて母を待った。少しでも声が聞こえたらすぐに出ていくつもりだった。しかし、待てども待てども声はなく、安藤はやがて眠ってしまった。今思えば、外聞を過度に気にする母が、大声で子供の名前を呼んで歩き回ることなどできるはずもなかった。だから、もしかしたら、探しに出るくらいはしていたかもしれない。心配して、辺りを探し回ったかもしれない。言われるがままにペンを握る安藤しか見てこなかった母親には、公園の滑り台の中に我が子がいるかもしれないという発想自体がなく、見つけ出すことが出来なかっただけかもしれない。今なら、そう考える事もできる。けれどもその時は、そんな風には考えられなかった。父の支配の下でしか生きられない母以上に、あの頃の安藤は何も知らぬ子供だった。だから、真っ暗なタコの中で目覚めた時、自分は捨てられたのだと、そう思った。言うことを聞かない悪い子だから、父にも母にも捨てられた。悪い自分を見つけてくれる人なんて、誰もいない。良い子でいなければいけない。良い子でない自分は、いないも同然だ。誰の目にも映らない。悪い子は見えない。悪い子は一人ぼっちだ。どうしよう。どうしよう。僕は透明人間だ。もうきっと、誰にも見つけてもらえない。家に帰っても、お父さんもお母さんも、僕が見えないかもしれない。僕はもうどこにも居ないのかもしれない。どうしよう。どうしよう。怖くて怖くて仕方がなくて、安藤はそこから動けなかった。暗闇で、目だけを爛々と見開いて。誰か。誰か、僕を見つけて。このまま見つけてもらえなかったら、僕はもう、どこにも居ない。どこにも、居られない。  ー……何、してるの?  「……義崇!」  丸い窓から、太一がこちらを覗いている。あの日も、今も。きらきらした綺麗な目で。透明人間を見つけ出せるのは、太一だけだった。滑り台の中で横たわる安藤を視界に入れた太一の表情が曇る。鼻の頭にシワが寄る、動物じみたこの表情が安藤は好きだった。怒っている。  「……っ、お前、何?どうした?」  ずるずると座り込んだら立てなくなった。座位を維持することもできない。口から溢れる息が熱い。身体は冷え切っていて、まるく背中を包むタコの胎内は暖かい。どろりと満ちる血の臭いはタコの腹の中にいるせいだと、そう思う。痛みはない。ただ、眠たい。太一がきたから、もう、眠ってもいいかな。  「……おなか、」  「腹?腹が何?」  閉じそうな瞼を無理やりこじ開けて囁くと、太一の手が腹部をまさぐるのが分かった。ぬるりと、布が擦れる。摩擦でじくりと傷が痛み、喉奥から呻きが漏れる。血が香る。俺はここに居る。ちゃんと、ここに居る。  「っ……救急車、」  「っ、ダメ」  手のひらを汚す赤い滑りを感じた太一が低く呟き、安藤は瞬間生気を取り戻してそれを制した。ダメだ。ダメ。自分のこの一言で、彼は身動きが取れなくなる。  「ダメ……約束、して」  「っ、何を」  「あの子と……ユカちゃんと、もう会わないで」  腹に触れたままの太一の手に、自身の手をひたりと触れる。暖かい。暖かくて、優しい手。馬鹿な太一。可哀想な太一。お前に鎖をかけているのは俺なのに。気づきもせずにそばに居続ける。そうして何度でも、こうして俺を探してくれる。  ぎりりと、太一が唇を噛み締めた。小さく動いた唇から、そんなこと、と呻くような呟きが漏れた。  「……そんなんいつでも約束してやる!だから、そんなことのために一々怪我してくんなよバカ!だから嫌なんだ!だから嫌なんだよ!俺を殴ればいいだろ!俺にむかついたんなら、俺を殴ればいいだろ!なんでこう言うやり方しか出来ないんだバカ!」  押し殺した声で、太一が怒鳴る。降り注ぐ声が心地いい。怒っている?呆れている?その内実は分からないけれど、でも、そこには感情がある。自分に向けられる感情が、心地いい。目を閉じる。眠い。腹に触れる手が暖かくて、気持ちが良い。  馬鹿にバカって、言われたくないなぁ。  そう言ったつもりだったのだけれど、声になったのかは分からなかった。

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