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第1話
2020年某日。零細企業の我が社にも、ついに外出自粛の波が押し寄せた。
「急だけど、明日から塾閉めるから」
塾長があまりにもあっさり言うので、職員の誰も反応できずに朝礼が終わってしまう。学習塾が開くのは夕方からなので、朝礼と言っても午後である。
平日の中日に、急に言い渡された突然の休業宣言。これは有休扱いになるのだろうか。亘は混乱するが、定時に始まる授業は待ってくれない。一番混乱するのは生徒と保護者だ。しっかりしなくては、と自分に言い聞かせる。
1人の男性が塾長のあとを追うように事務室に入っていくのが見えた。唯一の事務員である、鈴谷祭だ。男性には珍しく「祭」と書いてマツリという読ませる。
「マツリさん、大変ですね」
慌ただしい祭の背中を、同僚が憐れんだ目で見ていた。ため息をつきながら亘も同意した。
「ほんとに。塾長も、急に言うから」
「何か手伝えることあるかな」
英語担当の若い女性講師はチラチラと事務室をうかがっている。どことなく落ち着きのない様子だが、いつものことだ。
「慣れない俺たちが行っても邪魔するだけです。それより授業、始まりますよ」
「あ、そうですよね」
亘がピシャリと言うと、女性講師はそそくさと授業の準備に戻った。先程とは違う理由で、またため息をつく。
ここは生徒が清く正しく学ぶ場所。講師が愛だの恋だのを語らう場所ではない。あの女性は講師としては有能なのだが、その辺りを勘違いしている。
「眞島先生!」
授業開始5分前になって、亘を仔犬のような声が呼び止めた。
「鈴谷さん。どうかしましたか」
他の講師は祭を名前で呼ぶが、亘だけは苗字呼びを徹底していた。公私混同はするべきではない。たとえ彼がどれほど可愛らしくて、庇護欲をそそるとしても。
「すみません、授業前に。さっきの休業の話なんですけど。今日中に書面にまとめておくので、帰りに持っていってください」
ふわふわの茶髪を揺らして、息を整えている。亘がいつも定時になったらすぐに帰ると知って、急いで伝えに来てくれたのだろう。
「ありがとうございます。いつも助かります」
冷血漢で通っている亘ですら、お礼に一言付け足してしまう。こんな冷たい男の言葉で、嬉しそうにはにかんでくれるの祭だけだ。
「いえいえ。授業、頑張ってくださいね!」
そう言い残して、祭は慌ただしく去っていく。数秒間、その背中を眺めていた。
はっとして亘は教室の引き戸に向き直る。これは公私混同だ。左右に頭を振って、祭の残像を消し去った。
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