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第25話

 冬の朝は、澄みきった空気が心地いい。  はぁっ、と吐息を溢せば、ふわりと白く染まって空へ溶けていく。  大学までの道を、希望はひとりで歩いていた。    試験から二週間経った。  今日は、合格発表の日だ。  大学のホームページを見ても合否はわかるが、実際に大学の掲示板に張り出される方が一時間早い。特に予定のなかった希望は、そわそわとしながら出掛けることにした。    大学に近づくほどに、人が増える。  歓喜とともに携帯電話で報告している人もいれば、泣いている人も、それを慰める人もいる。  人と人の合間を、歩いていく。    掲示板の目の前に来て、希望は一度、ぎゅっと目を瞑って、俯いた。  ゆっくりと息をついて、顔を上げる。目を凝らして、自分の番号を探した。    そして。   「……あっ……あったぁ……」    希望が絞り出した声は、歓喜よりも安堵に満ちていた。    ***    数日後、友人や仕事関係者、両親や家族の盛大な祝福が落ち着いた頃、希望はライの家にいた。    大学から送られてきた合格通知をライに差し出して、希望はじっとしている。  希望も黙っていたが、ライも黙ったまま通知を眺めていた。    希望はちらり、と視線だけ下に向ける。    ライと希望はソファに座って並んでいた。希望は大人しくライの反応を待っていたが、ライの足元にあるものが気になって、視線だけ向けてしまう。  真っ黒い箱に、禍々しいものが入っているのが見える。気のせいだと思いたかったが、やっぱり見えるものは見える。  あまり認識したくはないが、たぶん鎖とか手錠とか、革製の首輪をはじめとした拘束具、性的にあれやそれを躾ける為の道具も各種。    なんだろう、あれ……。    希望は聞くに聞けずに、視線を泳がせる。  そんな希望の目の前に、ずい、と合格通知が戻ってきた。  びく、とわずかに身体を震わせて受け取り、ライを見つめる。  ライは薄ら笑いすら見せずに、心底つまんなそうな表情をしていた。   「チッ……よかったな」    ええ……? この人また舌打ちした……。    希望がライを不安そうに見つめていると、ライが立ち上がった。  足元にあった真っ黒い箱を持って、寝室へ向かう。    あれえ? 結局なんだったのそれぇ……?  いろいろ道具見えてるよ? 俺、ちゃんと見てたよ?    希望は不安で仕方ない。  思わず立ち上がってライについて行った。  ライは希望がついてきていることに気づいているはずだが、何も言わない。    寝室に入ったライを、希望は扉から少しだけ顔を出して見守る。  ライはライの身長と肩幅くらいの大きさの可動式の棚を動かしていた。そこには小さな隠し部屋があった。    あ、そこにしまうんだ……。    希望はその部屋を知っている。そしてライは、希望がこの部屋の存在を知っていることを知っていた。      希望がその隠し部屋を見つけたのは、偶然だった。  掃除をしている時に、なんか棚がぐらぐらするなぁ、と思っていたら、動いてしまって、隠し部屋を見つけたのだ。  そこには、真っ黒なディスクケース、ファイル等がびっしりと並んでいた。背表紙には何も書かれていなかった。  見るからに怪しい、開けてはならない部屋であることは明白だった。  けれど、見た瞬間、希望は思った。    ……えっちなやつか?!    妖しく不思議な空間に、希望は心が弾んだ。  ライさんはAVに興味ないって思ってたけど、これはもしかしてもしかするんじゃない!? だって隠してるんだもん! と、思春期の胸はどきどきわくわくした。  希望は好奇心に身を任せて、ファイルとディスクケースを少し持ち出した。リビングで迷わず再生ボタンと押す。  そこに映し出された映像に、希望は目をまん丸くした。  映像は、希望が音楽番組のステージで歌っている時のものだった。  先を見ても、戻して見ても、希望が出ている番組の映像ばかりだ。    ……ライさんったら♡興味ない顔してたくせに、ちゃんと俺のこと見てくれてたんだ♡    少し不思議な気がしたが、希望は嬉しかった。  ライは希望の仕事、ライブやコンサートを見に来てくれるが、いつも退屈そうだった。少しは興味を持ってくれているのかもしれない、と考えると嬉しかった。    もしかして、と思ってファイルを開いてみると、希望の写真や雑誌の切り抜きのようなものが入っている。  希望は、なんだー俺かぁ、とちょっと笑った。  ライさんのことだからもっと恥ずかしい写真や映像かと思っていたが、仕事のものが多い。  仕事の分ならいい。むしろ、少し嬉しかった。    いくつかのディスクを確認したが、全部希望の映像ばかりだ。  邪な気持ちを抱いていたので、少し罪悪感を持ちながら、希望はテレビ画面を眺めていた。    けれど、気づいてしまったのだ。    映像の中の時間は遡り、希望のデビュー直後の映像もあった。  けれどその頃は、ライと希望はまだ出会ってすらいないはずだ。    ざわり、とうすら寒いものが背筋を撫でる。    希望はようやく、「ライさんに見つかっちゃう」と焦りを感じた。  映像を止めるため動き出す。  画面を見ると、映像は急に荒くなってしまっていた。  希望はぎくり、と身体を強張らせる。  映像では、私服の希望が、ギターを弾いて一人、駅前の広場で歌っていた。    それは、希望がデビューする前、アキと出会う前、一人で自分の為だけに歌っている時のものだと、希望にはわかった。  映像は、通行人が立ち止まり、携帯で撮影した動画のように見える。    なんで?    わからないことが多すぎて、希望は手を止めてしまった。リモコンに伸ばしかけた手を止めて、呆然とテレビの画面を見つめる。手を下ろした拍子に、テーブルの上に広げたファイルに当たって落ちてしまった。  ばさばさっ、という音に驚いて、床に落ちたファイルに目を向ける。開いたページでは、希望が笑っていた。  学校だ。    行事の時に友人たちと撮影したのを覚えている。学校の教室を背景に、希望は制服を着て無防備に笑っていた。  けれど、隣にいるはずの友人たちは切り取られて、希望しかいない。友人しか持っていないはずの写真だった。  ファイルから落ちた写真をよく見れば、ライと出会うずっと前に撮ったものがいくつもあった。    な、なんで? どうやって?    希望は混乱と戸惑いで頭が真っ白になった。  けれど、突然テレビが消えて、ハッと我に返る。顔を上げると、テレビ画面が真っ黒になっていて、不安そうな自分の顔が写っていた。    そして、隣に、もう一人。   「……!!」    驚いた希望が見上げた先では、ライがリモコンを持っていた。目を見開く希望に、ゆっくりと目を向け、見下ろす。暗くて冷たい瞳に見つかって、希望の身体は強張った。  ライがテーブルにリモコンを置く。カタ、という僅かな音にさえ、希望はびくっと身体を震わせた。 「お前さぁ……」  ライがしゃがんで、希望に近づいてくる。怒られる、と思った希望はぎゅうっと目を瞑って俯いた。   「掃除すんのはいいけど、あんまり物を動かすなよな」 「……? ……えっ?」    ライは希望を見もせずに、ファイルとディスクケースを手に取った。希望が散らかしたままだったものもしまって、集める。  ライは立ち上がって寝室に向かう。少し遅れて動き出した希望は、思わずライの後を追った。    希望がそっと部屋を覗くと、ライが可動式の棚を動かしているところだった。隠し部屋の扉代わりなのだろう。ライの手には何も持っていないから、もう片付けてしまったらしい。  希望がじっと見つめていると、ライが気づいて首を傾げていた。  何でこの人が首傾げてんの? 首傾げたいのは俺なんだけど、と思ったが、言葉になることはきっと永遠にないだろう。   「どうした?」    ライは希望の前まで来て、黙ったままの希望を覗きこんだ。希望は上目遣いでライをじっと見つめる。  その眼差しで、ライは何かに気づいたように、ああ、呟き、少し微笑んだ。   「ひとりで待たせたから拗ねてんの? 悪かったよ。ごめんな?」    そう言って頬を撫で、同じ場所にキスをする。  いつも希望が拗ねた時にしてくれるように、両手で頬を包んで、頬や額、唇に何度もキスを落とした。くすぐったさと心地よさに、希望はふわふわと惑わされそうになる。  隠された部屋について尋ねようとするが、希望の唇からは、うぅ、あの、その、と言葉にならない音だけ溢れてる。言葉にしようとする度に、キスで塞がれて阻まれてしまった。  希望が大人しくなると、ライは希望の肩を優しく抱き寄せる。そのまま、戸惑う希望を寝室から連れ出した。    部屋を見つけてしまったことも、中にあった物を持ち出したことも、咎められることもなければそれ以上触れることもなかった。      ……な――んてこともあったなぁ、懐かしい。    それから何度か隠し部屋が開いてるのを見たが、希望は考えないようにしていた。  ライは今、黒い箱をしまって、隠し部屋から出てくる。    あれって、たぶん俺が不合格だった場合に、ペットにする為に用意した道具だよね……。  合格したからもういらないはずなのに、なんでちゃんと保管してるんだろう? 捨てないのかな……。  ……そっか、捨てないんだ。捨てないんだあれ。    希望の頭に一抹の不安が過った気がするが、ぶんぶん、と頭を振って振り払う。    とにかく受験は終わったのだ。  ライの甘やかしに負けずに打ち勝った自分を、心底誉めてあげたい。希望が一番望む形で、合格して、進学して、今まで通り自由の身だ。  それは嬉しい。心からほっとしている。  心身ともに、ライに落とされずに済んで本当によかった。    そうだよ、頑張ったよ俺。  受験も頑張ったけど、悪魔の囁きと魅力に屈しなかった。  尊厳と自由を守ったぞ。    だけどきっと、専属家庭教師が終わった今、ライが悪魔のように優しい期間も終わってしまうんだろう。  昼も夜もどろどろに甘やかされて優しくされて、怖かったけど嬉しかった。それが終わってしまうのは少し残念だ。    ……なんて考えるのはライさんの思う壺だから、やめておこう。    希望がじっとライの背中を見つめる。棚を元の位置に戻すと、ライが振り向いた。  ライは希望を見つけると、微笑んだ。  希望は、あれ? と目を丸くする。    ライは希望の前までやって来て、頭を撫でてくれた。その手が思いの外優しくて、希望はますます混乱する。   「おめでとう」 「えっ……う、うん……! ありがとう……」    声も優しい。希望は思わず、はにかんで俯いてしまった。   『甘くて優しいライさん』はもう終わりかと思ったら、まだ続いているようだ。  どうしてだろう、と疑問が湧く。  嘘かもしれない、何か企んでるのかもしれない。  でも、それよりもやはり少し嬉しい。  希望は優しくされるのも、甘やかされるのも好きだった。ライ相手ではなかなか叶わない願いだ。   「ライさんのおかげだよ、ありがとう」    希望は顔を上げて、素直に喜びと感謝を笑顔で伝えた。  ライも微笑み返してくれた。   「じゃあご褒美」 「あっはい」    少しだけ弾んだ気持ちが、しゅぅん、と落ち着いていく。調子に乗りかけた心が、現実を前に冷静さを取り戻した。    ライに肩を抱かれながら、リビングに戻っていく。なんか久しぶりだなぁ、と希望はどこか落ち着いていた。諦めに近いかもしれない。  リビングに戻る間に、希望は考えを巡らせた。    ライさんを怒らせてからお仕置きもご褒美も言われなかったもんなぁ……。どうしたらいいんだろう。    今までのような模試とは違う。本当に本当の試験に合格させてくれたから、今までよりもすっっごい……そりゃもうどえろいことしなきゃいけないのだろうか。  今までよりえっちなことってなんだろう? 散々弄ばれて、恥ずかしい思いをしてきたから、これ以上なんて想像もつかなかった。    リビングでライがソファに座ったので、希望はとりあえずライの足元に跪いてみた。   「なにしてんの?」 「え? ご、ごほうび……ライさんに……」 「なんでだよ」    希望を見下ろして、ライがはっと笑った。希望はきょとんと目を丸くして、首を傾げる。  ライは目を細めて、足元で正座してしまった希望の頭を撫でた。   「今日はお前」 「……え?! おれにご褒美くれるの!?」 「そうだよ。なんで驚くの?」 「ええ? だって……う、うーん……?」    もにょもにょ、と希望は少し俯いた。  だって今までくれなかったのに、と言ってしまったらいけないような気がして、口の中でもごもごと留めて、飲み込んでしまう。  希望が戸惑いながらも、ちらりと視線だけライに向けた。ライは相変わらず、暗くて優しい眼差しで希望を見つめて、微笑んでいる。   「おいで」    ライが希望の頭を撫でていた手を差し出した。希望は少し躊躇したが、言われるままに、恐る恐るライの膝に跨がる。    奉仕を強要されるとばかり思っていたから、突然与えられる側になったことに希望は戸惑いを隠せない。  希望がいつまでも落ち着かずにそわそわとしているので、ライは優しく腰を抱き寄せる。頬を撫でて引き寄せ、キスを繰り返すと、耳元に唇を寄せた。   「ご褒美、なにがいい?」 「あっ……えっと……!」    腰を撫で、髪に触れる。優しい手つきに希望の緊張が解れていった。  耳元で囁く低い声がじんじんと身体の奥まで響くようで、ふにゃりと心も緩む。   「なにしてほしい? なんでも良いよ」    ひゃぁーん♡    ずっと耐えてきた。触れ合っても緊張して受け入れられずに身を固くしていた。  けれどもう、今は我慢する理由が希望にはない。  希望は心の扉をあっさり解き放った。   「あぅ……♡じゃ、じゃあお風呂♡一緒にお風呂に入りたいですぅ♡」    希望は甘えた声を出して、ライを見つめた。  とろん、と瞳が潤んで、蜂蜜のように甘く艶めく。ライはふっと、少し笑った。 「いいよ。ぜーんぶ洗ってあげる」    ひゃぁ――ん♡    希望の瞳がますます熱を帯びていく。潤んだ瞳にはライしか映っていない。  ライが笑みを深くしたことに、希望は気づかなかった。   「あっ! で、でも、エッチはなし!」 「したくないの?」 「あっ……し、したくないじゃなくてぇ……! ちゃんと、ベッドで……!」    希望は慌てて、恥ずかしそうに頬を染める。瞳は誘うように揺らめいて、ライをじっと見つめていた。   「そのっ……久しぶりだから……ちゃんとっ、いっぱい……!」 「ああ、わかった。あとでいっぱいしような」    ぴゃぁ――ーん♡♡♡    希望は何度も何度も、頭がもげそうなほど頷いた。  ふにゃふにゃと笑顔を見せて、ライの厚い胸板にしなだれかかる。すりすりと甘えて、腕の中に収まった。    ライは希望の頭を優しく撫でる。  目を細め、暗い眼差しで、愛おしそうに希望を見つめていた。

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