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第24話
希望は忘れていた。
いや、正確には忘れてはいなかったのだが、思い出した。
ライの隣を歩けば腰を撫でられ、抱き寄せられる。ぷりっと丸い自慢のお尻は掴まれて揉まれてしまう。ショートパンツなど穿いていようものなら、太股と尻の谷間にまで指先が食い込んだ。
キッチンに立てば後ろから抱き締められ、背中に厚い胸板を感じる。首元あたりから顔を覗かせ、時折暇そうに首筋にすり寄り、唇を這わせ、甘噛をしてくる。
リビングで寛ごうにも、大きな手は髪を撫で、指先が頬をなぞり、耳を擽りながら、心地よい低音が鼓膜を刺激する。いつの間にか押し倒されて、額や頬、首筋にはキスの雨だ。
それに加えて、服の裾から手が不法侵入してくることもあるけれど、じゃれて遊んでいるような手つきだった。
ライは希望によく触れる。
肌を味わうようにじっくりと触れたり、からかうように擽ってみたり、可愛がるように撫でてみたり、とたくさんたくさん触れてくる。
ライと出会って少ししてからそれに気づいて、とても驚いたことを覚えている。ライが他人と触れ合いたいと思っているような人間には見えなかった。自分とは違うから。
あんまり触れないでほしい、と思った。そんなに触れられ、可愛がられ、熱く求められたら勘違いしてしまう。好きになってしまう。
そして、希望はうっかりライを好きになって、酷く傷つけられたのだ。
だけど、恋人になってからは、それが嬉しかった。希望は恋人とたくさん触れ合いたい。
甘えると「他をあたれ、気色悪い」なんて、ひどい言葉と態度で拒絶される時もあったけれど、最近は受け入れてくれる気がする。受け入れたというより、希望の好きなようにさせてくれているというのが正しいかもしれない。
とにかく、ライは希望によく触れる。希望もそれが嬉しい。
けれど、この二ヶ月の間、それは希望にとって試練となってしまった。
「んっ……ふっ……! はぁっ……!」
何度も欲を吐き出しても、満足できずに熱が燻り続ける身体には、腰を優しく撫でられるだけでも、毒だった。
身体を震わせ、声を必死に抑える。それでも鼻にかかったような甘えた声が漏れて、ライに気付かれた。
「……どうかしたぁ?」
微笑みを向けて、じっと希望を見つめる。
暗い瞳の奥の怪物は、獲物が入り込んでくるのを待っていた。
びくっ、びくっ、と小さく身体を震わせながら、希望はライを潤んだ瞳で見つめる。
「んっ…な、なんでもないっ……だいじょうぶ……っ」
「あっそう」
「んぅっ……!」
笑みを浮かべたまま、ライは希望をずっと見ている。その手は優しく腰を撫でていて、希望は震えていた。瞳は潤んで涙が目尻に溜まり、唇はぎゅうっと噛みしめている。
このまま抱きついて一生懸命お願いしたら楽になれる気がする。
ライはきっと、少し焦らしてから、それでも間違いなく希望の願いを叶えるだろう。今までと同じように。
そして、今度こそ終わってしまう気がする。俺の人生が。
ああ、神様! どうか悪魔の誘惑から子羊をお守りください!
俺の自由と尊厳がかかってるんですぅ!
希望は心のロザリオを握りしめ、ひたすら祈った。
***
心のロザリオの効果は抜群だった。
ある日の朝、希望は目が覚めて、朝日を見た瞬間泣きそうになった。
希望は無事、試験当日を迎えたのである。
しかし。
ありがとう神様! ありがとう世界!
あとはもう試験だけだ!
……あっ……本番……きょう……ああっ……!!
安心したのもつかの間、希望は本命の大学試験日本番という現実が襲いかかってきた。
***
朝御飯を、もしょ、もしょ、と希望が少しずつ、ゆっくりと口に運ぶ。
俯き加減に、沈んだ表情を眺めて、ライは首を傾げていた。
「緊張してんの? なんで?」
「? ……な、なんでって……?」
模試とは違って、次は頑張ろう! ができないのが本番の試験だ。次は来年になってしまう。一回きりの挑戦なのだ。
希望はなぜライがそんなことを聞くのか不思議だった。
「試験だもん……ライさんは、こういうので緊張したことないの?」
ライはやっぱり首を傾げていた。
「試験なんて、答えを指定された枠の中に書いてくるだけだろ?」
「……」
「答えも一個しかねぇし。迷うことある? 論文だって、内容は重要じゃねぇし、形式があってればいいんだから。間違える方が難しいだろ」
……このやろう。
希望はふんっ、とそっぽを向いた。
久しぶりにライに対して純粋に怒りを覚えた。シンプルにいらっとした。
本番前で食事も喉を通らないといった様子だった希望は、八つ当たり気味に完食する。
ライさんったら珍しく不思議そうな顔しちゃってさ!
ほんとにムカつく。可愛いと思ってんの? 許せん!
俺だって頭いい方なのに。ずっとそうやって育ってきたのに。なんだこいつ!
希望はライをじとり、と睨んだ。
ライは希望が何故怒っているのかわかっていないようで、相変わらず不思議そうに眺めている。
けれど、ふと思い出したように優しい笑みを作って見せた。
「……お前はよく頑張ったし、大丈夫だよ」
やたら優しい声で囁くので、希望はびくりと震えた。ライを見上げると、希望をじっと見つめて、背中を撫でる。
「今まで通りやれば良いよ」
「ライさん……」
大きな掌と暖かさに、希望は少し安心した。
最近は悶々としたものを抱えていたから、触れられることが恐ろしかったけれど、今は違う。
ゆっくりと肩を抱き寄せられて、希望は身を任せた。大きな身体にくっついて、体温を感じるのは久しぶりだった。
ライさんの匂い。熱さ。逞しさ。
愛しい人に包まれて、身体から力が抜けていく。
そうだ、何だかんだで最後までちゃんと教えてくれたじゃないか。
悪魔だなんて言ってごめんなさい。
ライさんは約束を守る男。……というわけではないけど、取引に応じたからにはすべて全うする男なのだ。
あんなことやこんなことをする代わりに、俺の願いを叶えてくれようとしているだけだったんだ。
あれぇ? それって悪魔じゃん?
「それに、」
ライの声色が変わって、希望はハッとした。
優しく柔らかかった声が、何故か楽しげに少しだけ弾んだ。肩を掴む手も何故か強い。
「万が一失敗しても、今度は一年かけてじっくりゆっくり、教えてやるから」
希望がライを見上げると、目を細めて微笑んでいた。
「しばらく二人っきりになれると思うと、楽しみでしかたないよ」
瞳の奥で、ゆらゆらと揺れる暗い光。
洞穴の奥で、怪物が手招きしているような。
もしくは、深淵から影が伸びてきているような。
這い寄る何かがそこにいる。
希望は、息を飲んだ。
やっべぇ、緊張してる場合じゃないぞこれ。
怪物を前に、急に背筋は冷えきって、頭はかつてないほど澄んでいった。
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