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episode5. 誘惑(14)

「すみません……。急にこんなことになっちまって……」  心底すまなさそうに頭を下げる遼二に、紫月は「いいって」そう言って苦笑した。 「本当にすみません。家までお送りしますんで」  服を繕い、支度を済ませた遼二が言う。 「俺ンことなら気にすんな。近えし、一人で帰れる。お前は急いで中津川さんトコへ――」 「いいえ! 送らせてください!」  是が非でもそれだけは譲れないと、真剣な表情で見つめられて、紫月はまたも苦めの笑みに瞳を細めた。 「ん――。なら送って」 「――はい」  どうせ事務所に機材を取りに寄るのだろうから、送ってもらうにしても通り道だ。紫月は素直に遼二の申し出に従うことにしたのだった。  夕刻の通勤ラッシュ時だが比較的スムーズに車は流れていた。自宅前まで着くと、紫月は紙切れを遼二へと差し出し、 「仕事終わったら……ここへかけて」薄く笑ってみせた。 「これ――?」 「俺の携番。お前がちゃんと家に帰れたかどうか心配だから……。遅くなってもいいから、帰ったらぜってー電話しろよ!」  そう言い残して車を降りた。 「気を付けて行けな」 「……はい。今日は……本当にすみませんでした」  真剣な顔付きで謝りながら、いつまでたっても発車しようとしない遼二の背を押すように、笑顔で手を振った。 「ほら、早く行ってやれって!」 「はい――それじゃ、失礼します」  ビルの谷間に落ちる夕陽の逆光の中、遠くなるテールランプを見送った。 ◇    ◇    ◇  遼二からの着信があったのは、それから数時間後の午後九時を回った頃だった。 「お疲れ! 結構時間掛かったな」 「あ、はい。今日は本当にすみませんでした」  相も変わらず真摯に謝る声に、電話の向こうで頭を下げる様子までもが浮かびそうだった。きっと、機材を届けがてら中津川を手伝ってきたのだろう。それでもこうして、きちんと言われた通りに電話をしてきてくれたことが素直に嬉しかった。 「お前、明日は休みだっけ?」  確か、氷川の事務所を出る時に連休だと聞いていた。 「はい、そうです」 「そっか……。それじゃ……」  もしよかったら、明日会えないか? さっきの撮影の続きでも――そう言おうとしたが、どうしても言葉にして伝えることができなかった。あわよくば、遼二の方からそんな誘いがあればどんなに舞い上がることか――そうも思ったが、いくら待ってもスマートフォンの向こうの彼からそんな言葉を聞くことはできないようだ。  無論、遼二の方にも遠慮があるのだろうし、気軽にはそんな話向きになるわけもないかと思いつつも、溜め息がとまらない。 「ゆっくり休めな――」  紫月は致し方なく、苦笑と共に差し障りのない言葉を口にしたのだった。

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