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第2話
その森はこの辺りで『迷いの森』と呼ばれている。鬱蒼として深く、いつも薄い霧に包まれていて不気味な大森林だ。
街からの入り口には、まだ道のようなものが微かに有るが、数分も経てば道は消え失せ、昼なお暗い木々の合間を縫って進むことになる。日の光が無い上に霧が立ち込め、何処も似たような木ばかりなものだから方向も時間もわからなくなり、ややして森の入り口に戻っているのが常だ。
しかし、大陸地図を見る限り、この森は山脈の間に位置しており、本来ならぐるりと山脈を回っていかなければならない海の都ウルと、ここティノの街を直接繋ぐ道になる可能性が有る。だから、多くの者がこの森に挑戦した。殆どの者はすぐ戻って来たし、何日も森を彷徨った挙句帰ってきた者もいる。ほんの僅かな者が、森の街から海の都への抜け方を知っている。
そして、その一人がユウであり、シャンティというエルフが住んでいるのは、この迷いの森のちょうど中程なのだ。
大きな革の鞄をいくつも括り付けた馬を引いて、ユウは森の中を進んでいる。森の中は野生動物も多く、危険は有る。身を守れるように重装備をしたユウは、不安げな馬を導きながら、霧深い森を歩いて行く。
正直に言えば、ユウにもこの森の通り方はわからない。いつも違う道を歩いたような気がするし、どの景色も同じように見えて、方角もわからないのはユウも同じだ。ただ彼は、この森に受け入れられていた。ごそごそと懐から古いペンダントを取り出して、手に握り込む。真鍮でできたそれは、ユウが訪れたい場所に連れて行ってくれるのだ。少なくとも、この森に関しては。
朝早く出発したが、日のろくに差し込まない森の中では時間もわからない。くたびれるほど歩いた頃、その小屋は唐突に現れる。
この大森林の中にあって、少し開けた場所だ。清らかな小川、そのそばには一体樹齢何百年かもわからない大樹が佇んでいる。それに寄り添うような一軒の小屋。木造で、屋根には苔が、壁には蔦が生えたその古びた小屋が、目的のシャンティの住む家だ。
無事に辿り着けた。ユウは馬を引いて家に近づく。トントン、と玄関の扉をノックしてみたが、反応が無い。留守か、と考えながら、ユウは馬を家のわきにある小さな小屋に連れて行った。馬はやはり不安げにしていたので、「ちょっと待っててくれな」と頭を撫でてやってから離れた。
もう一度シャンティの家の玄関をノックして、それからノブに手をかける。この家には鍵など無い。訪れる事ができる者がそもそも限られているから、用心する必要も無いのだ。そろり、と扉を開ける。中はいつもどおり、夕暮れ時のように薄暗い。そこかしこに置かれた暗闇で光る鉱石が、僅かに室内を照らしているから、かろうじて床や物が見える程度だ。
古びた木造りの家は、歩く度にギィと危なげな音を立てる。そこら中に乾燥させた草花が吊るされていて、室内はなんとも言えない芳香に満たされていた。家に入ってすぐのリビングに、人の姿は無い。暖炉や釜戸にも火は入っていなくて、しんと静まり返った部屋に、ユウの足音や衣擦れの音ばかりが響いて、流石に少々気味が悪い。
「シャンティ……?」
ここにいなければ、と奥の部屋へと向かう。青い薄絹の暖簾をかき分けて進むと、彼の作業場であり寝所でもある部屋だ。大きな机の上には沢山の調合器具が並べられているが、そこに人影が突っ伏しているのが見えた。
この家には人がいるとすれば、それはシャンティだ。しかし、声をかけても目を覚まさないなんて、珍しい。
そうでなくても半年人里を訪れていなかったのだ。もしかして、と最悪の事態を考え、ユウは彼に駆け寄った。
「シャンティ、シャンティ」
名を呼んで触れる。と、彼は呆気なく「んん」と声を上げて身動ぎした。なんだ、寝てただけか。ユウは安心しながら、シャンティ、と再度声をかけた。
シャンティという名のエルフは、ゆっくりと身を起こして、やがてユウを見た。シャンティは褐色の肌で、限りなく黒に近い髪色だから、この薄暗い部屋の中では闇に溶け込んでいきそうだ。紫の瞳が、僅かな光を湛えてユウを見つめている。その深い色に、いつもユウは吸い込まれそうな気持ちになった。
「ああ、ユウ。帰って来たのですね」
起きたばかりで少し眠たげな声音は、しかし穏やかでいつもと変わりはない。ユウは安心して、徐に彼にハグをした。シャンティも愛しげに抱き返してくれて、二人はしばらく、お互いの存在を確かめあった。
シャンティからは彼独特の薬草で作った香油の匂いがして、とても落ち着く。ユウはそれを堪能してから、身を離した。
「シャンティ、どうしたんだよ」
「少し仮眠をしていただけですよ」
「そうじゃない。ずっと街に行ってないんだろ?」
そう言うと、シャンティがはたと気付いたように眉を寄せる。
「……そういえば、貴方が帰って来たということは……。どれほどの時間が経ったのです?」
「もう半年だよ。ほら、これ。依頼がどっさり溜まってんだ」
懐から帳簿を取り出して見せると、シャンティは困惑しながらもそれを受け取った。中身を確認しながら、「半年」と呟く。
「貴方が旅に出てからもう半年も……」
「どうしたんだよ、ずっとここで寝てたわけじゃないだろ?」
前は一月に一度は街に行ってたじゃないか。そう言うと、シャンティは小さく首を振って言う。
「……貴方がここに来なくなって、時間の感覚が無くなりました」
「はあ?」
「おわかりでしょう。この森は昼なお暗いですし、この家には窓も有りません。そして私達エルフは、人間とは時の感覚も違います」
「だから半年も経ってたのがわかんなかったって? はあ……ホントにエルフってのはボケボケなんだな」
ともかく、皆困ってるみたいだから注文の品を用意してくれよ。ユウが呆れた様子で言うと、シャンティも頷いた。
「街の皆さんには苦労をかけたでしょうね。急いで準備はします。ただ……少し量が多くて。時間はかかりますし、持ち帰るのもかさばりますよ」
「大丈夫。外に馬を繋いでるんだ、面倒をみてもらえれば待てるよ。俺も手伝えることが有れば手伝うし」
「ありがとう。では、ドライアドに馬の世話を頼みましょう。……泊まっていきますね?」
寝室と湯浴みの用意をしなくては。シャンティはそう言って、机の上に有った真鍮のベルを鳴らした。すると、カタカタと家の上や中で何かが動く音がする。それがシャンティの使い魔達の蠢く音だと知っているから、ユウはさして驚きはしなかった。
「助かる。俺は何をしたらいい? 薪でも割る?」
「そうですね……まずは水汲みですね」
釜戸に火を、それから釜一杯に湯を沸かさなければ。シャンティの言葉に「任せろ」とユウは微笑んだ。
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