24 / 30
第24話
深い森は霧に包まれ、ひんやりとした空気が体の芯まで届くようで、ユウは軽い寒気を覚えながら、シャンティの後ろ姿を追っていた。その手を握って隣を歩くのは、ガタガタ震えてばかりのエルガーだ。これからどうなるのか不安なのか、それともこの空気に当てられたのか、彼は青褪めた顔をしていた。
シャンティは「その子が拐われないように、手を握ってあげていてください」と言っていた。拐われるとは、どういうことか。ユウはわからなかったが、しかし今進んでいる、森の奥への道はおかしいと感じてはいた。
霧が立ち込めていて前が見え難いのも、肌寒いのも有るが、何か気配を感じるのだ。そばに見えないものがまとわりついているような、何者かに見張られているような気持ち悪さが有る。だから、お守りを一つも持っていないエルガーと手を握っている。こうしていれば、エルガーも悪いものの餌食にならないような気がした。しかし、その悪いものが何なのか、それさえわからない。
「こちらですよ」
シャンティがそう言ったので、ユウは彼のほうを見た。いつの間にか、目の前には明るく開けた場所が広がっている。この森林の中にあって陽の差し込む泉は神秘的に輝いていて、まるでよくできた絵画のようだ。そこに何か、人間にはどうしようもない何かが存在すると言われれば、誰でも信じてしまうだろう。ユウはエルガーの手をぎゅっと握った。エルガーも真っ青な顔のまま、ユウの手を握っている。
ここは、危険だ。本能がそう感じていた。美しい泉は虹色に光り輝いている。そのぶん、さらに奥に広がる森の暗さが際立つ。夜の闇より深い、全てを飲み込むような真っ黒な森が、さらに奥に続いているのだ。その闇を見つめると、吸い込まれてしまいそうな気がした。
「アレが、深奥です」
「深奥?」
「命無き精霊達は、あの闇から生まれてくると言われています」
シャンティはゆるりと空中を見上げる。そこには何もいない。けれど、シャンティは何かが見えるかのように、空を、森の木々を仰ぎ見る。
「生まれた精霊達は森で育ち、やがて外界のあらゆる場所へ旅立ち、命あるものを見守ります。しかし、彼らはあくまで命なきもの。彼らが、命あるものに利益をもたらすかは別問題です。時に恵みを与え、時に厄災を招く。それは等しく彼らの好奇心と、愛情から起こること……。我々には、それを断る術は有りません。ただ……」
彼らを欺き、遠ざけることぐらいはできます。シャンティはそう言って、足元を見る。そこには新緑のように鮮やかな色をした草が生えていた。シャンティはおもむろにそれを一本ちぎって、ユウに差し出す。
「何、これ、……っ!?」
受け取ってユウは驚いた。草に触れた瞬間、それはドロリと腐り落ちてしまったのだ。ユウもエルガーも息を呑んで、シャンティを見つめる。彼は、微笑んでいた。
「この草は、深奥に近いもの。命あるものには触ることができません。私は命なきものの一種ですから、手に取ることができます。これを、貴方達にも使えるように加工すること……それが私の薬作りでもあります」
この深奥の草を使った薬は、精霊の悪戯を遠ざけることができるのですよ。
シャンティはそう言って、また草を何本かちぎり、懐にしまった。
「エルガー。おわかりですね? 私はこの森のものを独占しているわけでもなく、この森に人が来れないようにしているわけでもありません。命あるものはこの森を恐れて近寄りがたいのです。そして……貴方達はこの草が欲しくても手に取れません。仮に人間が蛮勇をもってこの森を侵すなら、深奥は閉じてここもただの森へと変わり、貴方達に神秘を与えることもなくなるでしょう……」
さあ、戻りましょう。ここは命あるものが長居すべき場所ではありません。シャンティの言葉に、ユウとエルガーは大きく頷いて、急ぎ足で帰路に着く。何かにまとわりつかれているような感覚、それに何処かに連れて行かれそうな恐怖が、耐え難かった。
小屋に着いた頃には、もう日が傾いているようで、森は暗くなってきていた。
中に入って一息ついた時、ユウはエルガーの異常に気付いた。まだ青い顔でガタガタ震えているのだ。エルガー、と名を呼んでも反応が無い。壁にもたれて床に座り込んでしまった彼に、ユウは何度も声をかけたが、無反応だ。
「シャンティ、エルガーの様子がおかしい」
不安になってシャンティに声をかける。シャンティは「おや」と呟いて、エルガーの頬に触れた。彼は怯えた目でシャンティを見たが、それ以上の反応が無い。
「深奥の闇にあてられましたかね……。寝台に連れて行ってあげましょう。……ユウ、今夜は床で寝るので構いませんか?」
「ああ、うん、俺は慣れてるから大丈夫……。エルガーは俺が運ぶよ」
ユウはそう言って、エルガーに肩を貸す。震える彼の背中をさすってやりながら、シャンティの寝台に連れて行った。横にしても震えているから、大丈夫だよ、と声をかけてやる。
少ししてシャンティが何か飲み物をカップに淹れて持って来た。彼はユウにするように優しくエルガーに声をかけ、飲むように言った。エルガーはシャンティを怖がっていたから、ユウが「大丈夫、シャンティはエルガーに悪いことはしないよ」と言ってやる。エルガーは怯えていたが、カップの飲み物をゆっくりと飲んだ。ややすると震えは治まって、そのまま落ちるように眠りについた。
「エルガー、大丈夫なの?」
ユウが不安になって尋ねると、シャンティは微笑んで頷く。
「一晩眠れば良くなります。少々危険なやり方をしてしまいましたが、こういう噂話を信じてしまう手合いは、真実を見せなければ納得しないでしょうからね……」
「怒ってない?」
「ふふ。私が怒るとしたら、貴方に害が及んだ時ですよ。エルガーは愛しい無知な人間に過ぎません」
シャンティはユウにそうするような優しい手付きで、エルガーの髪を撫でて、布団を掛けてやっていた。その姿はまるで慈母のようで、ユウは複雑な気持ちになって寝室を出た。
寝床を作らなければ。そう思ったのに、リビングではせっせとドライアドが寝床を作っていた。といっても、どこに隠していたのかわからない、薄っぺらいクッションの上に鮮やかな布を敷いただけのものだ。枕のような位置にはタオルが置いてある。ユウが見ていると、ドライアドが何やら誇らしげなポーズをしたので、苦笑して「ありがとう」と言った。ドライアド達は軽い足取りで部屋の隅に行くと、コロンと転がってそれきりただの枝に戻ってしまった。
そういえば、彼らは木の精霊の名を持っている。アレは精霊なんだろうか、でも人間の目には見えないって言ってたよな、などと考えていると、シャンティが寝室から出て来た。
「ドライアドは貴方の寝る場所を作ってくれたようですね。ユウもおやすみなさい、疲れたでしょう」
「シャンティは?」
「私は眠らなくても平気ですから」
シャンティが微笑む。だから、ユウは少し考えて、シャンティの手を握った。
「ユウ?」
「……」
「……添い寝が必要ですか?」
寝床が狭くなりますよ。シャンティが呟く。俺が泊まりにくるとわかってるのに、寝床を増やさないのが悪いんだ。そう言いながら、シャンティの手を引く。シャンティは苦笑しつつも、ユウを抱き締めて、髪を撫でた。
「ふふ、でも寝台を増やしたら、一緒に眠れなくなるでしょう?」
「それとこれとは別だろ」
「そうですね……増築でもしましょうか。ドライアドが張り切ってしまいますね」
シャンティがユウを撫でる。それに甘えながら、ふと思い出す。シャンティはエルガーに刺されていた。血も出ていたのだ。あの傷はどうなったのだろう。急に心配になって、シャンティの腹部を見た。服は血で汚れ、ナイフの穴が開いたままだ。そこを見つめているのに気付いて、シャンティは「ああ」と呟く。
「大丈夫ですよ、傷は塞がっているから、もう血は出ません」
「ほんとに? 平気なの?」
「ええ、少しだけ痛みますけど」
「痛かったんじゃん!」
「それは、痛いですよ。刺されたんですから」
エルフは鈍感だと言っていたから、痛みも無いのかと思っていたが、ちゃんと痛かったらしい。なのにあんな風に自分でナイフを抜いたりするのだから恐ろしい。ユウは言いようのない気持ちになって、シャンティを抱きしめた。
「ユウ?」
「……痛いの我慢するのは、ダメだ、シャンティ」
「ユウ、ですが私達は鈍感で……」
「鈍いとかそうじゃないとか、そういうのはいいんだよ。……シャンティが痛い思いするの、俺は嫌だ」
もっとも、エルガーを連れて来てしまったのは自分だ。シャンティが刺されたのは、自分のせいでもある。自分が半年留守にしなければ、街でシャンティにフードを脱げと言わなければ、エルガーを連れて来なければ。ユウはそう考えて、シャンティをぎゅっと強く抱きしめる。
「……ユウ。何もかも、貴方のせいではありません」
シャンティはユウの考えていることがわかるのか、そう囁いて、ユウの柔らかな髪を撫でた。
「様々なことが絡み合って、悲しいことが起こるのは世の摂理です。起こってしまったことは仕方ありません。ですが、私も貴方も、エルガーも無事ですし、誤解はもうありません。だから、大丈夫。貴方は何も悪くはないのですよ」
「……」
「ユウ……」
それでも納得できないユウに、シャンティは微笑んだ。
「そうですね……もし、この事件を誰かのせいにするなら……それは、恐らく……ラド、ですね」
予想外の名前が出てきて、ユウは驚いてシャンティの顔を見た。彼は困った顔をして、ユウに優しく言った。
「エルガーの言っていた、村の男を襲った黒い影のような生き物。それは多分、お腹を減らしたラドでしょうから……」
ともだちにシェアしよう!