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第9話(完結)

「冰――。こんなこと、急に言っても信じらんねえだろうが……」  少し余裕を失ったような低い声が耳元を撫でる。 「お前に惚れた――多分、俺は」 「――!?」 「欲しくて堪んねえ。こんなの――初めてだ」 「な……に、急に」 「俺も驚いてる。今までどんな女にだってこんな気持ちになったことはなかった」 「こんな……って、何……」 「誰にも渡したくねえし、離したくねえ。お前を逃がしたくねえってことだ。本当にあるんだな、一目惚れってやつは」 「は? な、に言って……」  惚れた―― 「今日、お前がどこぞの男に振られてくれて良かった。今夜、十年ぶりに偶然出会えて良かった。大真面目にそう思うぜ」 「バ……、戯けたこと抜か……」 「戯けてなんかねえさ。本当にそう思ってる」 「つか、出会ったばっか……で、ンなの……信じられっかよ……!」 「出会ったばっかりじゃねえだろ。俺らは十年前から旧知の仲だ」 「や、そうだけ……ど」 「今すぐ俺を好きになれとは言わねえさ。だが――きっとお前を振り向かせてみせる」  この男、こんなに饒舌だったのか。本気なのか冗談なのか、それとも単なる火遊びの為の堕とし文句に過ぎないのか――そう思ったら、何故だろう。心の奥の方でズキンと胸が痛むような気にさせられたことに驚きを隠せない。  お前に一目惚れをした――  耳元を撫でる低く擦れた吐息のような声に、頬が熟れて落ちる程に熱を持つ。  氷川の発する一字一句、一挙一動が心を震わせる。敏感な琴線を揺さぶり、鷲掴みにし、甘い痛みが疼き出す。もしもこの告白が、その言葉通りに本当に氷川の本心だったらいい。一時の堕とし文句などではなく、本当に一目惚れをしてくれたのだとしたら、素直に嬉しいと感じてしまう自分も信じられなかった。 「もう少し……、力入れろ……」  太腿をギュッと掴まれながら、もっと両脚に力を入れて”ここ”を締め付けろと、そう促される。余裕を失ったような掠れた声は彼の欲情の度合いを物語ってもいて、その色香を湛えた低い囁きに耳元をも嬲られそうだ。 「お前のも……ほら、もう……濡れてるぜ?」 「……は、あぁ……つ、氷川ッ」  先走りで滴り流れる蜜を長い指に絡めては、ゆるりゆるりとやさしく甘く、時に激しく強く濃密な情欲の沼へと導く。そのあまりの快感にゾクゾクと背筋が疼き、狂わされていく。いやらしくてエロティックで、このまま興奮のルツボに滑り落ちたくなっていく。この快楽に流され塗れてみたくなる。  もっともっと興奮したくてたまらなくなってくる。 「……調子いいこと言って……単にヤりてえだけ……なんじゃね……の?」 「そんなわけあるか。俺はそんなセケえ嘘なんぞつかねえさ」 「……ッ」 (俺もヤキが回ったかな――。こんな、恋する乙女みてえなこと言っちまうだなんて)  本気で惚れたというなら抱かれてもいい。けれど一夜限りの遊びのつもりならば身体を許すのは嫌だ――そんなふうに言ってしまったようで、情けなくなる。  もういい。この際、欲情のままに絡み合い、抱かれて乱れてとことん堕ちてしまってから考えればいいじゃないか。そう思う気持ちさえ、単に言い訳なのだということに気付いている。冰は覚悟を決めたように目の前の逞しい胸板に顔を埋めた。 「氷川……ッ、ベッド……行くぜ」 「――?」 「あっち行けば……ローション……とか、あるから……」 「冰?」 「挿……れてえん……だろ?」 「急に――何だ。無理しなくていいんだぜ?」 「無理なんかしてねえ……よ。俺もちょっと……興味湧いちまっただけ」 「――いいのか?」 「ああ……いいから言ってる……」  急な申し出に躊躇うように視線を泳がせる彼の手を取り、思い切りエアコンの効いたベッドルームへと誘う。  暗い室内に灯りは点けない。  冷蔵庫の中のような冷たい空間も、互いの熱と熱とがほとばしり合って、すぐにも暑い空間へと変わりそうだ。逸ったようにローブを毟り取られ、スプリングへと押し倒されて、もう互いが欲しいという感情以外見当たらないといったふうに激しく求め合い―― 「……氷川……ッ、俺、言っとくけど……初めてだか……んな」 「ああ、分かってる。任せろ」  激しさとは裏腹の、とびきり丁寧な愛撫にとてつもないやさしさが垣間見えるようで堪らない。下世話な表現をすれば『上手い愛撫』と言えるそれ――慣れた仕草に、過去にこの男が抱いたろう女との情事を思い浮かべてチクリとした胸が痛むのは、紛れもない嫉妬なのだろう。身も心も瞬時に堕とされ、嵌まり込んでしまいそうだ。  冰は観念したといったように、淫らな愛撫を受け入れた。 ◇    ◇    ◇  うだるような真夏の日に、自身を直撃した手痛い恋の終わりと引き換えに、十年の月日を経て再会した男との激情に溺れた。  心の奥底から新たな微熱が沸々とくすぶり出すのを感じながらも、少しの不安と期待の入り混じった思いで目の前の熱に呑み込まれることを選んでとった。  照りつける太陽の熱が冷めやらぬ、灼熱のような一夜の出来事だった。 - FIN -

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