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第1話

「で――? 俺のどこが嫌なんだよ……。直せるとこは直すし、怒らねえから正直に言ってみ?」  面倒くさいと思う気持ちも、多少は(カン)に障る感情も、すべてを抑えてそう訊いた。これは単なる痴話喧嘩だ。できることなら穏便に、今までと変わりなく付き合っていければ――と、そう思ったからだ。 「――全部」  素っ気ないその一言を聞いた瞬間――、雪吹冰(ふぶき ひょう)は瞳をしかめた。パノラマの、ワイドスクリーンの高楼から見下ろす見事な程の街並も、瞬時に霞んで泥だまりのように思えた。  背中から冷めた口調のひと言が、グサリと心のど真ん中に突き刺さる。  露骨過ぎるその台詞に、不機嫌極まりなく眉間に皺を寄せ、背後でそうほざく男を振り返った。 「全部だ――? 何だよ、それ……」 「だから、全部だよ……! 理性のかけらもない動物のようなセックスも、高慢丸出しの態度も何もかも。全部……!」  付き合って早一年になろうかというこの男と知り合ったのは、行き付けのゲイバーだ。  スラリとした長身の、だがそれでいてどこそこ華奢なつくりの色白の肢体、紳士的でいて生真面目な性質、そのすべてが新鮮で、当初の軽い遊び心を通り越してすっかりとこの男に嵌まり込んだ。  常に従順で穏やかで文句なしの理想の相手だったはずの恋人に、信じ難い言葉を突きつけられて面食らったのも束の間、仕舞いには『他に好きな男ができたから君とはもうこれきりにしたい』と驚愕極まりない突飛さで捨てられた。  三行半(みくだりはん)の言葉に反論する気力も一気に失せる。 ――こいつは誰だ。  今、目の前でワケの分からない戯言をほざいているこの男を、つい先日まで(かいな)に抱いて、甘い夢を見ていたことさえまるで幻、それこそが夢戯言のような気にさえさせられた。  冷や水をかけられた――などというどころじゃない。怒鳴る気も失せ、かといって今の彼の機嫌をとり持つ気力も到底湧かない。 「全部――ね。なら好きにすれば?」  ちょっとばかり余裕をかますつもりで、苦笑いをして見せた。  どうせ気まぐれか我が侭に決まっている。ちょっと拗ねているだけかも知れない。そうでなければ悪い夢だ。  目が覚めればいつもの穏やかな笑顔でおはようの挨拶を交し合う。  ああ早く目覚めたい。こんな嫌な夢の続きなどに興味はない。  だが現実だった。  考え直す時間を与えてやろうか――、そんな思いでほんの半日ばかり部屋を空けた隙に、半同棲状態だった彼の持ち物は綺麗さっぱり消え失せていて、残り香さえも感じられなくなっていた。  ガランとした広過ぎるこの部屋は、独りだという実感を噛み締めるのにはもってこいと言うべきか。皮肉な話だ。  財閥の御曹司として生まれ、何不自由なく今まで来た。  学業を終えてからは好きなジュエリー・デザインの道に足を突っ込んで、今では他人も羨む都心のど真ん中の高楼に自社ビルを構えての左団扇、悠々自適の生活だ。  若くして天才アーティストなどと呼ばれ、二十八歳の若さで、あっという間に都内一等地にスタンディング・ショップを持つまでにのし上がった。  無論、実家の後ろ盾が大きいことは言うまでもないが、それも運と実力のなせる業と、現状には至極満足していた。  何より、思春期を過ぎたあたりから気が付いた『同性にしか興味が湧かない』といった事実にさえ、周囲の誰一人奇異の視線を向けることもなく、両親でさえどちらかといえば理解を示したくらいだから、実に快適過ぎる境遇であったのは確かだ。  そんな自分に憧れて寄って来る人間は数知れず、まさか誰かに捨てられるなどということは、夢にも想像し得なかった話だ。  傍《はた》から見れば羨ましい限りの、自らでさえ世の中こんなにうまくいっていいのかと思う程の極楽人生の中で、それは雪吹冰(ふぶき ひょう)にとって初めて味わう苦い体験であった。 ◇    ◇    ◇

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