5 / 9

第5話

「しっかし、てめえも変わってねえなぁ? いい歳こいて相変わらずに血の気が多いっつーか、冗談抜きで俺が偶然居合わせなかったら危なかったぜ? 一体何やらかしたんだ。相当酔っ払ってたみてえだが、ヤケ酒でも食らってたわけか?」  氷川がリビングの広いソファでどっかりとくつろぎながらそんなことを言っている。まるで違和感のなく、ピッタリとそこに馴染んでいるのが不思議に思える程だ。  その上、なんだかもう長いこと一緒に住んでいるかのような錯覚さえ起こさせる。自らも反対側のソファに寝そべりながら、冰はバツの悪そうに苦笑いを返してみせた。 「ヤケ酒ねー……ま、カッコ悪りィけど、実際その通りっての? 実は俺、今日コイビトに捨てられちまってさー」 「捨てられた? なんだ、てめえも女がらみかよ。さっきは人のことさんざ笑ったくせしやがって」 「違えーよ」 「女に逃げられたんじゃねえのかよ? 今、てめえでそう言ったじゃねえか。まだ酔いが醒めねえか?」 「だーかーらー、違えっての。逃げたのは女じゃなくってオ・ト・コ!」 「――?」 「あー、俺ね。野郎にしか興味ねえっつーか、つまり……あれよ、ゲイなわけよ」 「ゲイ――だ?」 「そ! 女には興味湧かねえってこと」  やはりまだ酔いが醒めていないのだろうか、如何に懐かしいとはいえ、学生時代に番を張り合った相手――しかもそれほど親しい友人だったというわけでもないこの男にこんなことを平気でカミングアウトしてしまうだなんて、素面(しらふ)なら考えられないことだ。  まるでヤケクソといった調子でおどけながら冰はソファにダイブし、寝転んだ。 「驚れーた? 気色悪りィとか思う、やっぱ?」  しばしポカンとした様子でこちらを眺めている氷川を見上げながら、そう尋ねた。 ――が、 「別に。それ自体にゃ大して驚かねえよ、俺んちも兄貴がそうだからな」  案外平然とそんなことを言ってのけられて、こちらの方が驚かされてしまった。 「俺の兄貴な、今は香港の社の方を任されてんだけど、そこの秘書とイイ仲だ。二人共堂々たるもんで、たまに帰国した時だって四六時中ベッタリ。あんまり開けっ広げなんで、親父やお袋も周知の仲だ。俺も最近は違和感すら感じなくなってきたってのか、今じゃかえって兄貴が女連れてる方が想像できねえくれえだよ」  だから偏見の感はまるでない、といったふうに薄く微笑(わら)う。  その笑顔が酷く懐っこくもあり、はたまた新鮮にも思えて、一瞬ドキリとさせられる。  形容し難い安堵感とでもいおうか、不思議といい心地になって、けれども何だか酷く切ないような気分にさせられたのも確かだった。  氷川が同性愛に理解がある、あるいは免疫があるということがうれしかったというのも事実だが、彼の兄たちの話を聞いたことで、しばし忘れ掛けていた昼間の出来事を思い出してしまったのだ。  そう、割合うまくいっていると思っていた恋人に別れ話を切り出されたのは、ほんの半日前のことなのだ。昨日の今頃には、夢にも想像し得なかった話だった。 「はは……なんかすげえ羨ましー。そーゆーの、すげえ理想ー」  少々情けない声で口走ってしまった。そんな様子が意外に思えたわけか、氷川が怪訝そうな表情でチラりとこちらに視線を向けたのを感じた。 「情けねえ声出してんじゃねえよ。たかだか振られたくれえ、何だってんだよ」  失敬な物言いをする男だ。が、完全には否定できないのも事実で、故に苦笑させられる。 「っるせーな……」 「らしくねえぜ。昔のてめえからは想像も付かねえわ」  久し振りのせいか学生時代の頃の印象とは掛け離れて思える、そう言いたいのだろう。だがしかし、それも当然といえばそうか。あれからもう十年も経っているのだから変わりもするだろうが、こんなふうに無防備にソファに転がり、安心しきったように腹を見せているだなんて、やはりあの頃では考えられなかったことだ――と、おおよそ、そんなふうにでも思っているのだろうことは、氷川の顔を見れば一目瞭然だった。 「は、てめえはいいよな。暢気で気楽で」  氷川の兄たちの幸せそうな話を聞いたせいでか、一気に気持ちが萎むようで、突如孤独感が襲い来る。あれだけ酷い言葉で別れを告げられたからには、もう撚りを戻すことなど不可能なのだろうが、仲良くやっていた頃のことを思えば何だか急激に寂しさが募るようで、堪らない気分にさせられた。  ふと、頭上から顔を覗き込まれるような感覚に、冰はおぼろげに氷川を見やった。 「何……?」 「いや別に……。もしかしてお前、泣いてんのかと思ってよ」 「は……まさかだろ? 何で俺が泣かなきゃなんねーのー? 眩しいだけよ、そこのライトがさー」  相変わらずに呂律の回らないような口ぶりでそんなことを言いながら、眩しそうに瞳を細める。 「ライトだ?」 「なあ、おい氷川。使っちまって悪りィけどそこのライト消してくんねえ? マジ眩しい……」  気だるそうに額に腕をかざしながら、冰はそう言った。  カチッ――と頭上でスイッチを摘まむ音がする。言われた通りに氷川がメインライトを消したのだろう、強烈だった眩しさが和らいだと同時に、薄暗がりが瞳を癒やすようだった。  廊下から漏れる明かりだけで仄暗くなった部屋に急な静寂が立ち込める。  大パノラマの窓から拝む見事な程の夜景がより一層クッキリと映し出されて思わず息を呑む。  だがそれも束の間、暗闇の静寂の中に二人きりというのが何とも居心地の悪く思えたのだろうか、氷川がすぐ脇へと腰掛けてきた気配で冰はおぼろげに瞳を見開いた。 「おい、眠いのか?」  初めて訪ねた他人の部屋で、その部屋主に寝入られてしまっては手持ち無沙汰この上ないのだろう、悪いことをしてしまったかと苦笑する。 「悪りィ、やっぱちょっと飲み過ぎたかな。一瞬寝そうになった」  笑いながらそう言うも、何だか氷川の様子が変だ。酷く仏頂面で、機嫌の悪そうに眉根を寄せている。 「ごめ! お前、どーする? 帰るんなら階下(した)まで送ろうか? それとも泊まってくか?」  軽い気持ちでそう訊いた。だが、氷川が機嫌の悪そうにしていたのは、そこではないらしい。どうやら恋人との経緯が気に掛かるのか、 「てめえが泣く程落ち込むなんてよ。らしくねえぜ? そんなにショックだったわけか?」  そう訊かれ、今度は冰の方が眉根を寄せて氷川を振り返った。 「しつけーよ。だから泣いてなんかねーってば。俺、今日結構飲んだしちょっとノビてえ気分なのー」 「は、どうだか!」  呆れた調子で苦笑気味の氷川に、 「ま、仕方ねえだろ。俺、コイビトに振られたのつい昼間のことなんだから。そりゃちっとは落ち込みもするっしょ? なんせ酷え台詞でバッサリ捨てられたわけだしよー……」  別れた経緯など話すつもりでもなかったが、何となく口を滑らせてしまいたくなったのも不思議だ。学生時代を同じような環境で過ごしたこの男になら、開けっ広げにこんな話をするのも悪くない、そんな思いが過ぎったのは確かだった。  それをうっとうしがるわけでもなく、どちらかといったら話の続きを聞きたげな表情でこちらをチラ見している氷川の様子にも、ヘンな依頼心ともいうべき感情が湧き上がる。  格別相談に乗って欲しいわけではないが、何となく事の成り行きを聞き流してもらうだけでも心が軽くなる、そんな気がしていた。  やはり酔っていたせいもあるだろう。普段なら他人に弱みを見せることなど滅多にないというのに、自ら進んで誰かに頼りたい、寄り掛かりたいだなんて随分と可笑しな夜だ。冰はそんな自分に半ば呆れながらも、 「俺ね、ケモノなんだ――」  自分でも無意識に、思わず『どういう意味だ』と訊き返したくなるような言葉をぶつけていた。

ともだちにシェアしよう!