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第9話
鍵の回る音。
ドアが開く音に、史は目を開けた。
どうやら服を着たままで、ベッドにも入らず眠ってしまったらしい。
カーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。
入り口に青い顔で立つ柾をみとめて、昨夜の記憶が少しずつ蘇ってきた。
柾が一晩帰ってこなかった。
携帯はずっと繋がらず、メッセージを送っても既読にすらならなかった。
柾は立ち尽くしたままだ。ネクタイをしていない。シャツのボタンは二つ目まで開いている。スラックスのベルトは見あたらない。
史は安心したのと同時に、心臓に鈍い痛みを感じた。
「……朝帰り…?」
覚醒しきらない史の声に、柾はびくっと震え上がった。
「史さん…一晩中、そこで…?」
「……携帯は」
「か…会社に忘れて…」
史は身体を伸ばして、ゆっくり立ち上がった。あちこち固まって苦しい。
柾は史に近づいては来なかった。
「……史さん、あの、すみません、心配かけて……」
「昨夜はどこにいた?」
柾と目を合わせずに史はキッチンに立った。インスタントコーヒーを淹れて、二つのマグカップに注いだ。白いラインが横に二本入った、ブルーとグレーの色違い。ブルーが史、グレーが柾。史が買ってきたものだった。
柾のマグをテーブルに乗せて、史は無言でブルーのマグのコーヒーに口をつけた。
「……心配した」
史が帰ってきたのは23時過ぎだった。柾がもう帰っていると思って開けた部屋が寒くて、すぐにヒーターをつけて風呂を沸かした。
0時を過ぎても帰ってこない柾に、史は初めてメッセージを送った。
今日は何も予定はないと言っていた。
飲み会がある時は必ず連絡が来る。柾がそれを欠かしたことはなかった。
いつまでたっても既読がつかないメッセージに不安になり、電話をかけたが繋がらない。
『どこにいる』
『なにがあった』
『心配だから、連絡して』
30代の男相手に大げさだと思いつつも、史は心配することをやめられなかった。
そして携帯を握ったまま、ベッドに寄りかかって眠ってしまった。
「携帯出ないし、既読にもならないし。事故にでもあったかと思った…」
「す…すみません…」
「無事で良かったけど……それは」
柾の襟元を史が指さした。はっとして押さえる柾に、史は目を逸らした。
この地方の冬に、わざわざ胸をはだけて外なんて歩かない。
「あ、あの、これ、は……」
(やっぱり無理なのか)
史は、離婚している。その前に同棲していた男とも別れていた。
他人と長く一緒にいられない。
自分から離れることも、相手が離れていくことも経験した。
柾に一緒に来てほしいと頼んだのは史自身。柾ならきっと一緒に生きていけると思った。
柾を本当に必要としていたから。
でも、こんなに早く綻ぶなんて思っていなかった。
史はぽつりと呟いた。
「……ここ狭いし、もうひとつ部屋、借りようか」
「えっ」
「僕もひとりになりたいときもある。柾も、自分の部屋があれば僕を気にしなくていいだろ」
「俺はっ……嫌ですっ、このまま…」
「じゃあ、昨夜はどこにいたか、説明しろよ」
「……っ」
柾は口ごもり、下を向いた。シャツの襟元を掴んだ手が小刻みに震えていた。
史は柾の目をまっすぐ見て、言い放った。
「男なのか、女なのか知らないけど、僕の知らない相手を抱いてきたんなら、シャワー浴びてくれ。……近づきたくない」
「ちかしさんっ…」
「近づくな!」
こんなに短気だったかと、史は自分が信じられなかった。
おそらくこれは、相手が柾だから。いいわけを聞く余裕すらない。
若いとき、恋人に近づく男に暴力を振るったことがある。自分だけを見てほしい、なんて可愛らしいものではない。なのに、史自身は勝手に身体から香る甘いフレグランスで、だれかれ構わず誘ってしまう。
それに苦しんで、長い間ひとりでいた。
柾はそんな史の傷を癒してくれた。
何か理由があるのかもしれない。
信じたい気持ちはあるのに、苦しんだ過去が、どうせうまくいかないと耳元で囁く。
柾は大きな身体を縮めて、まだ入り口に立ち尽くしていた。
史はベッドにうつ伏せ倒れ込んだ。眠くはない。ただ、何も見たくなくてきつく瞼を閉じた。
少しして、バスルームの扉が閉まる音が聞こえた。
「それが答えか……」
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