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第10話

どんよりと重い空気の週末が過ぎ、月曜日に柾は覚悟を決めて出社した。 会社につくなり、柾は持田を人気のない階段に呼び出した。 「持田さん……ちょっといいすか」 「あ、おはよう橋口くん」 あの夜の真相をどうしても聞かなくてはならない。どうしてあんなことになってしまったのか、持田にしか理由がわからない。 かなりの意気込みで声をかけたのに、持田は笑ってあっさりと席を立ち上がった。 「こ…この間のことなんすけど」 「え?ああ、ごめんね、俺寝ちゃっててさ。無事に帰った?」 「え?あ、はい、帰りましたけど…」 「そうそう、忘れ物してったよ。今日持ってくればよかった、ごめん」 「わ…忘れ物?!」 「うん、ベルト」 「べッ………」 柾は頭を抱えてその場にへたりこんだ。これは、確定なのではなかろうか。 持田はいつもの笑顔で、とんでもないことをつらっと言った。 「橋口くん、まさか覚えてないとか?」 「えっ?いや、あの」 「まあ確かに飲んでたけど…忘れちゃったの?残念だなー」 「す…すみません、あの俺何で持田さんと…」 「何でって…そういう雰囲気になったからでしょ?橋口くんタチだし、俺ネコだし」 めまいがする。そんな雰囲気になった覚えは全くない。 史と付き合うことになってから柾はどんな男にもまったく興味が持てなくなった。 たまたま職場の同僚がネコだったからと言って、酔った勢いでどうにかなりたいと思うはずがない。そこには自信があったはずなのに。 「持田さん!あの、大変申し訳ないんですが、この間のことは忘れていただきたいんですが…」 「……え?」 持田の顔が曇った。ゆらりと近づいてきて、柾の後ろの壁に両手をついて、壁ドンの体制になる。 「なに、それ。ひどくない?」 「す…すみません…でも、あの…俺、好きな人、いるんで」 「……ゲイなのに、なにそんな女子高生みたいなこと言ってんの。お互い納得済みだったじゃん。そもそも俺らみたいなのは、身体の相性が良ければ付き合ってなくても出来んだから…関係なくね?」 持田の口調が荒くなる。おそらくこちらが本性だろう。あんたみたいなのと一緒にしないでくれ。 とんでもないのにひっかかってしまったと柾は激しく後悔した。 「それに、今は仕事で一杯で、そんなこと考えてないみたいなこと言ってたよねえ……もう一度聞くけど、本当に覚えてないの?」 「お……覚えて…ないです…」 「ふーん……」 持田は壁ドンをやめて、一歩後ろに下がった。いつもの笑顔にもどっている。その変わり身の早さが、柾には不気味に思えた。 「まあいいや。悪いんだけど、忘れるってのは無理かもなあ……言ったよね、俺、橋口くんタイプなんだって」 「………」 「その好きな人と、付き合ってるわけじゃないんでしょ?」 あの朝、傷ついた顔をして近づくな、と叫んだ史。もう二度とあんな顔をさせないと決めたのに、状況はどんどん悪い方へと転がっていく。 柾は何も言えず黙っていた。 「付き合ってないなら、俺にもまだチャンスあるってことで、いいよね?」 持田は柾の答えを待たずに階段を降り始めた。 と、急に足を止め振り返ると、柾を見上げて持田が口だけの笑顔で言った。 「橋口くんの好きな人ってさ……噂になってた人事の三澤さん?」 「えっ……」 持田の目が笑っていないことに、柾はぞっとした。 危険だ、と思った。 この感覚、覚えがある。嫌な記憶が蘇る。 また史を危険に晒すわけにはいかない。少し間を置いて、柾はきっぱり答えた。 「違います」 「そっか~」 持田は今度は顔全体で笑顔を作り、階段を降りて行った。 『あ、もしもし、持田です。 ええ、はい、そうですね……確定で。え?いや違うんですよ、はは。うまいこと信じてるんで、そういうことにしておこうと思って。その方があとあと使えるじゃないですか。ええ……先輩はどうですか?あ~……そうですか。 じゃあまた、何かあったら言ってください。こっちも逐一連絡しますんで。はい。じゃあ失礼します』 「三澤さん、お昼まだですよね?良かったらご一緒しませんか?」 史に声をかけてきたのは、伊藤可奈子と、伊藤と仲のいい先輩の宇田川美央のふたりだった。はきはきした宇田川が前にいて、伊藤が半身隠れながら様子を見ている。 普段なら断ってひとりで外に出るところだが、背後から刺さる白崎の視線を避けるためにも、史はにっこり笑って答えた。 「ありがとうございます、ぜひ」 「ほっ…本当ですかっ?やったあああ」 「ちょっと伊藤ちゃん、声大きいって!すみません、三澤さん」 伊藤が嬉しそうに飛び跳ねるのを宇田川が制する。可愛らしい、と史は素直に思った。 こんな女性を普通に愛せたら、どんなに楽だろうと思う。 柾とは、週末の二日間、必要最低限の会話しかしていなかった。 本当だったら、仕事にも慣れ、そろそろ買い物にでたり、近隣の街にもドライブがてら遊びに行こうかと話していたところだった。 狭いベッドで互いに背中を向けたまま眠るのは、もう嫌だった。 「三澤さん、札幌は慣れました?」 「ええ…まだ雪道には慣れませんけど」 「気をつけてくださいね、転んだら腰、やっちゃいますよお」 「伊藤ちゃんは今年に入って何回転んだの?」 「私は三回……って、宇田川さん、三澤さんの前でやめてくださいよっ」 ふたりの女子社員の笑顔の向こうに、数人の社員が席に着くのが見えた。 その中に柾がいた。 社食で一緒になったのは二回目だった。 そちらを見ないようにして、伊藤と宇田川の話に耳を傾ける。 「そういえば三澤さん…白崎さんにきついこととか言われてません?」 「え?」 伊藤が声をひそめて、テーブルに身を乗り出した。 「白崎さん、新しく入った男性社員にきついので有名なんですよ。女性社員にはそんなことないですけどね…」 「そうですか…今のところそんなことはないですよ」 「だったら良かったです。何人も耐えられなくて辞めちゃって…特に、若くて素直な可愛い子、やられやすいんですよ」 「僕はもう30越えてるし、素直でもないし可愛くもないから大丈夫ですよ」 史の軽口に伊藤は笑ったが、それまで黙っていた宇田川が神妙な面持ちで口を開いた。 「三澤さん…でも、本当に気をつけた方がいいと思います」 あまりにも真剣なトーンに、史と伊藤が同時に、え、と声を出した。 宇田川はあたりを見回して、白崎がいないことを確認すると小声で言った。 「秘書課の友人に聞いたんですけど、白崎さんのはパワハラじゃなくて、セクハラだって……」 史は自分の心臓が身体の内側から警鐘を鳴らすようにドン、と叩く音を聞いた。 「え、待って、白崎さんってそっちの人なんですかぁ」 小声で伊藤が聞き返す。宇田川はうなづいて、さらに声を落とした。 「白崎さんって、もともと東京本社にいたらしいんですけど、問題起こして2年前にこっち来たんですよ。で、こっち来てからは真面目にやってたみたいなんですけどね、最近ひどいらしくて…男性社員ばっかり狙うらしくて。こんなこと言ったら何ですけど、三澤さんのこと、いつも見てるから……」 史は総毛立つ思いで聞いていた。 2年前に東京本社にいたのなら、どこかで会っているかもしれない。 史が知らなくても、一方的に知られている可能性もある。今でも本社の人間と繋がりがあれば、柾とのことを知っていてもおかしくない。 しかし同僚にこれだけ知られていれば返って安全なのかもしれないが、開き直られたら終わりだ。 伊藤と宇田川が声をそろえて心配するのに、苦笑いで答えるしかなかった。 先に歩く伊藤と宇田川から少し距離を開けて、史は食堂を出た。 柾はまだ同僚と食事をしていた。背中に熱っぽい視線を感じる。 「あ、橋口くん!いたいた!」 肩に誰かがぶつかってきた勢いで、史はよろめいた。謝りもせず、相手は通り過ぎていく。 柾の名字を呼びながら早足に通り過ぎていった男の顔は見えなかった。 が、史は気づいた。 彼が、持田だと。

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