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第11話
呼び出しに応じた史は、明らかに不機嫌だった。柾と目を合わさず、煙草を取り出し、火を着ける。
「会社で呼び出すなんて、どうかしてるぞ」
煙を吐き出した史は、前を見たまま言った。
どんなに史の機嫌が悪かろうと、柾は怯まないと決めていた。家に帰ると、必要最低限の言葉しか交わせなくなる。このままでは関係が悪くなる一方だ。
最上階にある喫煙室。
他会社のテナントも入るビルには、会社の垣根を越えて使える喫煙室があった。入ってみれば思いの外広く、先客はいなかった。
東京で史に近づいたのも喫煙室だった。しかし、今はそんな思い出に浸っている場合ではない。
「すみません。でも、どうしても話したくて」
「話って、何を」
声のトーンは穏やかだが、言葉には拒絶が感じられる。目が合わなくても構わずに柾は史の横顔を見つめた。
「俺、三澤さんとのことをカムアウトしたいです」
「……は?」
史が振り返った。久しぶりに目があった史は、幽霊にでも会ったような表情だった。痛いぐらいの沈黙に柾は必死で耐えた。
「……何を言ってるのか、ちょっとよくわからない」
「そのままの意味です」
「……橋口」
会社では名字で呼び合う。当たり前のことが、いつもより冷たく聞こえて柾の気持ちが沈む。
史は煙草の煙を吐き出して、柾を見た。そして言った。
「まだ根本的なことも解決していないのに、何を血迷ってる?」
結局柾は、あの夜のことを何一つ思い出せず、説明も弁解も出来ずにいた。史はその後、柾を責めこそしなかったが、近づくことを許してくれない。当然だ。覚えていないとはいえ、裏切ったのだから。
「……返す言葉もないですが…俺は、カムアウトすることで、守れるものがあると思ってます。ちかしさ…三澤さんも、いずれ言うって言っていましたよね」
「……それは、今じゃない」
煙草を灰皿に強めに押しつけ、史はスラックスのポケットに手を入れた。
「上田さんにうっかり言ってしまったのとはわけが違うぞ。それに僕がカムアウトすると言ったのは、セクシュアリティのことだけだ。橋口のことを公にするつもりはない。……それに」
史がまっすぐ柾を見つめる。怒りの色は見えない。
「僕は……まだあの日のことを、聞いていない」
その口調が、瞳が悲しげで柾はまた心臓が痛む。どうしてあの夜、持田の誘いを振り切れなかったのか。後悔してもしきれない。
「何も聞いていないのに、そんなことを僕が了解すると思うか。それから、ひとつ言っておくが」
史は、柾に近づき掌でその胸を押した。
「何を守るつもりか知らないが、職場でカムアウトすることにどれほどの弊害があるか、どれだけの偏見がまだ残っているかを知らないで、簡単に口に出すな」
「それは…わかっているつもりです!」
「わかってない!」
叫んだ史の顔は苦しそうに歪んでいた。
それは怒っているというよりは、泣き顔に近かった。
「昨日まで普通に接していた同僚に距離を置かれ、蔑まれ、挙げ句の果てに寄ってくるのは性的な目で見てくる男ばかりになるなんて、君に想像出来るか?」
「史さん…?」
史は、柾にとっては最初から最後まで信頼できる上司だった。
野瀬コーポレーションでそんな辛い目に遭っていたなんて、噂すら聞いたことがない。実際人事部では尊敬されていたのだから。
かつてゲイバーで働いていたという田宮からの話。
それ以上にまだ、この人には柾の知りえない過去があるのか。
「自分の性癖を周りに明らかにすることは、僕は覚悟の上だ。……だけど、君をそこに巻き込むつもりはない」
史は話を切り上げ、無表情で歩き出した。柾は慌てて史の前に立ちはだかった。
「……どいてくれ」
「巻き込むってなんですか!俺は…自分の意志で史さんの側にいます」
「僕以外の奴と寝るのも、自分の意志か」
「…っ違いますっ、本当にあれはっ……」
言い掛けて、持田の言葉が蘇る。お互い納得済みだったと言っていた。
酔っていたから?
そういう雰囲気だったから?
そんなことありえないと自分を信じたくても、何も思い出せない。
どんな言葉も説得力がなかった。
黙った柾に、史は聞き取れないほどの小さなため息をついた。
「……僕だって、君を信じたかった」
そう言って、史は喫煙室を出て行った。
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