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皆殺しの天使とお人好し作家#1
内縁の妻が死んだ。
「いい芸術家になるためには飢える必要はない。愛と深い洞察力と強い見解を持っていればいいんだ」
ボブ・ディランのこんな言葉を教えてくれたのが、内縁の妻、麻里亜 だった。当時、スランプに陥って苦しんでいた坂木倫太郎 は、サイン会で出会った麻里亜が教えてくれたボブ・ディランの言葉に導かれるように、今まで一度も聴いたことのなかったディランの曲を聴いた。
そして、彼が歳を重ねてから発表したアルバム、『Love And Theft』に着想を得て、『愛と窃盗』というタイトルの長編小説を書いた。
六年前のことだ。
『愛と窃盗』は売れなかったが、それでもスランプから抜け出すことができた。
麻里亜は当時、単に坂木の本の愛読者だったが、それから付き合いはじめ、妻と呼ぶにふさわしい関係になった。
六年間、愛を育んできたのだ。今は、亡くなった妻への思いでいっぱいだ。
だからもう、いいのだ。相続とか、遺産とかは。
竹のコースターに載せたガラスの湯呑に、よく冷えた麦茶を注いで出す。お茶請けはデパートで買った、某有名和菓子屋の羊羹だ。エアコンの涼やかな風が和室に満ちている。
座卓の前に座った青年は、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言ってから上げた顔は、きりりとしている。ものすごい男前なのだ。真っ黒の短髪の、前髪は眉よりも短い。生まれながらに形のいい眉。鋭い瞳。でも二重で、切れ長の目じりが凛々しい。通った鼻筋と引き締まった小鼻、少し薄い唇。竜を倒して、国中の人間に祝福されてお姫様と結婚するような、そんな騎士の顔をしている。
誰が見ても美男というだろう、非常な美貌だった。
その美男は、坂木の出してくれた麦茶に口もつけず、じっと彼を見つめている。
さすがに怖い。坂木は麦茶を飲んで、目を泳がせた。
「あ~……。お、思いだすなあ。この竹のコースター、きみのお母さんが選んだんだよ。懐かしいな」
本当に懐かしい。五月の連休中、いっしょに行った金沢の工芸店でこれを見つけた。麻里亜の一目惚れで、坂木もたしかにいいなと思った。以来、夏はこのコースターと決まっている。編集者や編集長、本のデザイナーたちはみんなこれでお茶を飲んでいる。
麻里亜……。
思いだすと、涙がにじみそうになった。慌てて眼鏡を持ち上げ、そっと目元を拭った。
村瀬清路 は瞬きの少ない目で、まだ坂木のことを見つめている。ぽつりと言った。
「母は、こういったものを愛していました。わたしが暮らす、昔家族で住んでいた家にも、こういう美術的なものが多くあります。やはり職業柄、こういったものが好きだったんでしょうか」
麻里亜はダンサーでもあり、振付師でもあった。主に、自分の母(村瀬にとっては祖母)が生まれ育ったイギリスで活躍していたが、最近は日本でも活躍の場を広げていたのだ。
早すぎる死だった。
「たしかに、きみのお母さんは芸術的なセンスに秀でていた。そうそう、アクセサリーも好きで、よく個性的でアーティスティックなものを身に着けていたよ。そういったものに囲まれて、おれもすごく影響された。きみのお母さんは……」
「あの、質問なのですが」
抑揚のない声。澄んだ目が見つめてくる。騎士が一気に間合いを詰めるときの目だ。
「坂木さんは、母のことを生前『お母さん』と呼んでいたのですか?」
「……まさか。名前で呼んでたよ」
「じゃあ、その通りに読んでください。わたしのことは気にせず」
坂木はばりばりと頭を掻いた。村瀬の目がひたと据えられている。
どこか困ったような太い眉毛、黒縁眼鏡の奥のぼんやりした黒い目。もうそろそろ切りに行った方がいいような髪。無精ひげは伸びていないが、きっと会うことが決まって急いで剃ったのだろう。顎に切り傷がある。
自分より大きく、逞しく、そしてだらしなく見えるこの男が、母の内縁の夫だとは。もちろん、本は読んだことがあったが。
村瀬は麦茶を一口飲んだ。
坂木はフォークで羊羹を切りながら、目を伏せている。顔を上げ、村瀬の目をしっかり見つめた。
「なあ、村瀬さん。今日は、来てくれてありがとう。きみが自分の分の遺産を分ける、と言ってくれたことはうれしいよ。でも、今は麻里亜が亡くなったことで心がいっぱいいっぱいなんだ。あなたの気持ちはうれしいけど、おれは遺産欲しさに麻里亜と付き合っていたわけじゃない。いいんだよ。遺産は、きみが全部もらって……」
「たしかに、あなたは母が亡くなったことで胸がいっぱいでしょう」
形のいい、痩せた手を座卓の上に置き、村瀬がひたと見つめる。
「でも、だからこそ、です。本当に悲しんでいる人にもらってほしい。婚姻届を出していない限り、配偶者とは認められません。内縁の者はなにも相続できない。特別縁故者として相続できる制度もありますが、家庭裁判所に対して申し立てをしなくてはいけない。そのつもりはないんでしょう?」
こくりとうなずく。
「そんなつもりはない。おれと麻里亜は……麻里亜は、今も戸籍上は配偶者がいるから」
「だから、おれの相続分から遺産をお渡しします。おれは、あなたにもらってほしいんです。母のいちばんつらい時期を支えてくれたお礼として」
六年前、夫との関係でつらい思いをしていたそうだ。その夫、村瀬春彦 は家を出たまま行方不明。失踪し、六年が経った。
「麻里亜はほとんどなにも話さなかったよ。おれはただいっしょにいただけだ」
坂木が首を振ると、村瀬は微笑んだ。
けっこう可愛い笑顔だと、坂木は思う。また麻里亜のことを思いだす。
「わたしの息子、ナイトみたいだけど、笑顔がそれは可愛いの」
まずい。また涙をぬぐう。村瀬は微笑んで言った。
「ただいっしょにいてくれたことが、息子のおれからしたら有難いです。おれは大学のときは一人暮らしで、家にはほとんど帰らなかったし、就職したら仕事が忙しくて。そばにはいられなかった。交番勤務のときも寮に入っていたし……」
「は? 交番勤務?」
目を丸くした坂木に、村瀬も少し驚く。母が言っていると思い込んでいた。
「村瀬さんはお巡りさんなのか?」
「今はH県警本部の刑事課に所属する刑事です」
「ええ!? うちの県の刑事さん……? 本物、初めて見た」
「ふつうの顔でしょう?」
「いや、ものすごいイケメンだけど」
「冗談ですね」
にこっと笑うその顔の美しさに、息ができなくなりそうだ。「いやいやどこが」と食い気味になる。
「あ、でもさすが麻里亜の息子さんってかんじだな。麻里亜もものすごい美人だったもんなー。え、お父さんも?」
「父も顔はよかったと思います。顔だけは」
父子に確執があると見た。坂木は羊羹を口に入れ、もぎゅもぎゅと食みながら小首を傾げた。
「へー。なるほどなあ。麻里亜の息子さんは刑事さんなのか。全然聞いてなかった」
「母は秘密主義者なところがありましたから」
「あ、ちなみにおれのことは、なにか言ってた?」
どきどきしながら尋ねると、村瀬は鋭いまなじりを和らげた。
「お人好しの優しい人、と言ってました」
「お人好しかあ。そのこと、いつも麻里亜に注意されてた。いつか莫大な借金を背負うことになるわよ、って」
困った顔で笑う坂木に、村瀬は湯呑に手を伸ばす。だらしない中年男だが、下品になっていないのが不思議だった。それに、なぜか色気がある。一口飲み、言った。
「母は、素晴らしい本を書く人だとも言っていました。わたし、倫太郎の本が大好きなの、って。公演に出掛けるときはいつも持っていく。そして、お気に入りの本と眠るの、って」
たしかに、麻里亜が亡くなったロンドンのホテルの、彼女が遺した荷物の中から坂木が書いた『愛と窃盗』が出てきた。持っていた本はそれ一冊だった。
「麻里亜……っ」
今度は本当に泣いてしまった。眼鏡を外し、手の甲を目に押し当てる。鼻水をすすっていると、肩に重みを感じた。村瀬が片手を載せたのだ。
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